第77話 会いたい
莉奈の姿が森の奥へ消えてからも、三人はしばらくその場を動けずにいた。
雨は完全に上がっている。それでも森の中には水の音が絶えず、葉先から落ちる雫が濡れた土を叩くたび、詩織は無意識にそちらへ視線を向けてしまう。
莉奈が戻ってきたのではないか。
そう思ってしまうほど、身体の奥にはまだ緊張が残っていた。
「……行った、よね」
佳子が森の奥を見つめながら呟いた。
黒田はすぐには答えず、銃を構えたまま莉奈が消えた方向を警戒していた。完全に足音が聞こえなくなってから、ようやく銃口を下げる。
「たぶんな」
「戻ってきたりしないかな」
「分からない。だが、少なくとも今は追ってくる気配はない」
黒田の言葉を聞いても、佳子の表情から警戒は消えなかった。
当然だった。
佳子にとって莉奈は、自分を森の中で執拗に追い続けた相手だ。あの日本刀を抜いていなかったとはいえ、目の前へ現れただけで身体が当時の恐怖を思い出してしまう。
それでも。
今回は何も起きなかった。
莉奈はA端末を受け取ると、本当にそのまま去っていった。
佳子はゆっくり詩織を見る。
「……詩織」
詩織は自分の右手を見つめていた。
ほんの少し前まで。
そこにはA端末があった。
最初に目を覚ました時から、自分の命と一緒について回ったものだった。途中で壊れたこともあった。それでも修復され、再び使えるようになってからは、首輪を外すために必要な唯一の道具として持ち続けてきた。
今はもう。
ない。
自分から莉奈へ渡した。
「本当に……よかったの?」
佳子の問いかけに、詩織はすぐには答えなかった。
首元へ手を伸ばす。
硬く冷たい首輪の感触が指先へ伝わった。
これだけは。
まだ残っている。
Aを手放した以上、たとえ条件を満たしたとしても、自分で首輪を外すことはできないかもしれない。
その現実を考えると。
怖くないわけがなかった。
むしろ。
怖い。
「……分かんない」
詩織は小さく答えた。
佳子が目を瞬かせる。
「分かんないって……」
「これでよかったのかは、分かんない」
詩織は首輪から手を離した。
「怖いよ。端末なくなっちゃったし、この首輪だってどうなるか分からないし……」
自分で決めたことなのに。
いざ手元からAがなくなると、不安は一気に大きくなった。
あの端末があれば助かったのか。
それすら分からない。
条件を達成するつもりがなくても、別の方法が見つかった可能性だってある。
それを。
自分は手放した。
「でも」
詩織は莉奈が消えていった方向を見る。
「蓮が生きてるって分かったから」
佳子は黙って聞いている。
「それだけでも……よかった」
爆発現場に残されていた肉片を見た時。
詩織は。
本気で蓮が死んでいるのではないかと思った。
端末の条件が変わっていなかったことで、まだ生きているかもしれないという希望は持てた。
それでも。
確信はなかった。
莉奈の言葉を完全に信用しているわけではない。
けれど。
あの時の莉奈が、蓮の生死について嘘をついているようには見えなかった。
蓮は生きている。
怪我はしている。
でも。
まだ生きている。
それだけで。
今は十分だった。
「……だから、会いたい」
詩織が言った。
佳子が詩織を見る。
「蓮に?」
「うん」
詩織は頷いた。
「ちゃんと自分で確認したい」
生きているところを。
自分の目で見たい。
それに。
伝えなければならないこともある。
自分の条件。
今まで隠していたこと。
そして。
なぜAを渡したのか。
「銃も返さなきゃ」
詩織は手にしている拳銃を見る。
蓮から預かったもの。
ずっと持っていた。
「……返すって言っちゃったから」
その声を聞き。
佳子は少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、返さないとね」
「うん」
二人のやり取りを聞いていた黒田が口を開く。
「問題は場所だ」
詩織と佳子が黒田を見る。
「莉奈は神谷のところへ戻ると言った。だが、場所は教えなかった」
「追いかける?」
佳子が尋ねる。
黒田はすぐに首を横へ振った。
「もう遅い。森の中であいつを追うのは危険だ。それに、追いついたとしても、こっちを敵と判断されれば面倒なことになる」
佳子は思わず黙った。
莉奈の動きを思い出したからだ。
銃を向けられても怯まず。
森の中を追い。
刀一本で黒田の持っていた銃まで使えなくした。
今回は戦わなかった。
だからといって。
安全な人間になったわけではない。
「でも、蓮を探さないと」
詩織が言う。
「分かってる」
黒田は周囲を見回した。
爆発によって地面が荒れ、木々の一部も傷ついている。雨のせいで痕跡の多くは流されていたが、人が通った跡が完全に消えているわけではない。
「莉奈はここから神谷のところへ戻った。なら、向かった方向だけは分かる」
黒田が莉奈の消えた森の奥を見る。
「一定の距離を取って進む。見つけても不用意に近づくな」
佳子が頷く。
「うん」
詩織も。
「分かった」
と答えた。
三人は歩き始めた。
濡れた森は歩きにくく、少し油断すると靴底が泥に取られる。黒田が先頭を歩き、その後ろを佳子、詩織の順で進んでいく。
詩織は何度も周囲を見回していた。
蓮が。
この先にいるかもしれない。
そう考えるだけで足が速くなりそうになる。
だが。
同時に。
胸の奥には別の不安もあった。
蓮は。
自分の条件を知らない。
もし。
再会したら。
言わなければならない。
自分の端末には。
蓮を殺せと表示されていることを。
どう説明すればいいのか。
ずっと隠していた。
怖かったから。
蓮に知られれば。
離れられるかもしれない。
警戒されるかもしれない。
最悪の場合。
自分を敵として見るかもしれない。
それが怖くて。
言えなかった。
けれど。
もう隠したくない。
Aを渡した今なら。
なおさらだった。
「……佳子」
歩きながら、詩織が声をかける。
「なに?」
「蓮に会えたら」
少し迷う。
それでも。
言った。
「私、自分で話す」
佳子は何のことか分かった。
「条件のこと?」
「うん」
詩織は前を見ながら頷く。
「ちゃんと話す」
佳子はすぐには返事をしなかった。
詩織の条件を初めて見た時。
怖かった。
今でも。
まったく怖くないと言えば嘘になる。
追い詰められた人間が。
最後まで同じ判断をできる保証などない。
この島で。
何人もの人間が変わっていった。
それを。
佳子も見てきた。
それでも。
詩織が自分からAを手放したことは。
一つの答えなのかもしれない。
「……うん」
佳子は静かに頷いた。
「その方がいいと思う」
詩織は少しだけ安心したように笑った。
その時だった。
先頭を歩いていた黒田が。
突然、片手を上げた。
「止まれ」
声は小さかった。
だが。
二人はすぐに足を止めた。
黒田は前を向いたまま動かない。
佳子の表情から。
笑みが消える。
「……どうしたの?」
黒田は答えない。
耳を澄ませている。
森の中では。
雨水の落ちる音。
風に揺れる枝葉。
遠くで鳴く鳥。
いくつもの音が混ざっている。
その中に。
別の音があった。
ぬかるんだ土を。
踏む音。
一度。
そして。
もう一度。
詩織も気づいた。
「……誰かいる」
黒田がゆっくり銃を構えた。
佳子も武器へ手を伸ばす。
詩織は蓮の拳銃を握り直した。
三人とも。
莉奈が戻ってきたのかと思った。
だが。
足音が違う。
莉奈は。
森の中をほとんど音も立てずに動くことができる。
今聞こえているのは。
もっと重い。
何かを引きずるような。
不規則な足音だった。
「下がれ」
黒田が低い声で言う。
佳子と詩織が数歩下がる。
黒田は木の陰から。
足音のする方向を見た。
誰も見えない。
だが。
確実に。
近づいている。
一歩。
また一歩。
時折。
足音が止まる。
そして。
また動き出す。
まるで。
身体のどこかを庇いながら歩いているような音だった。
佳子は息を潜める。
「莉奈じゃ……ないよね」
「たぶんな」
黒田の声が低くなる。
その時。
森の奥で。
金属が木に触れるような小さな音がした。
黒田の表情が変わった。
何かを知っているような反応だった。
「……まさか」
「黒田さん?」
返事はない。
黒田は銃を構えたまま。
木々の隙間を睨んでいる。
やがて。
遠くに。
人影が見えた。
歩き方がおかしい。
片脚を庇うように身体を傾け。
片腕も。
自然には動いていない。
それでも。
手には。
武器らしきものが握られている。
佳子の喉が鳴った。
詩織も。
拳銃を握る手に力を込める。
人影は。
まだ遠い。
顔までは見えない。
だが。
黒田だけは。
その姿を見ながら。
小さく呟いた。
「……相馬」
その名前を聞いた瞬間。
佳子の背中を。
冷たいものが走った。
黒田は知っている。
相馬が。
何をしている人間なのか。
そして。
あの男がまだ生きているということが。
何を意味するのかも。
森の奥で。
相馬直人は。
傷ついた身体を引きずりながら。
ゆっくりと。
三人のいる場所へ近づいていた。




