第74話 立ち向かう勇気
雨が上がった森には、重苦しい静けさが戻っていた。
枝葉に残った水滴が、ときおり地面へ落ちて小さな音を立てる。雨を吸った土は柔らかく、佳子と詩織が歩くたびに靴底がわずかに沈み、その跡が黒く残った。
二人が向かっているのは、佳子が蓮を見つけた場所だった。
そこへ戻ったところで蓮がいるとは限らない。佳子が最後に見た時には、意識を失った蓮を莉奈が連れていってしまっている。
それでも、ほかに手掛かりはなかった。
足跡でも、落とし物でも、何でもいい。
蓮がどこへ連れていかれたのか。それを知るための何かが残っているかもしれない。
「……こっち」
先を歩いていた佳子が、小さな声で言った。
詩織は頷き、周囲へ目を配りながら後を追った。
右手には、蓮から預かっている拳銃が握られている。
いつ何が現れるか分からない以上、しまっておく気にはなれなかった。それでも銃口は下へ向け、引き金には指をかけないようにしている。
この銃は蓮のものだ。
必ず本人に返す。
そのためにも、蓮を見つけなければならない。
「佳子」
「なに?」
「あと、どれくらい?」
「そんなに遠くないと思う。私も必死で逃げてたから、正確には分からないけど……」
佳子は周囲を確認しながら答えた。
見覚えのある木。
ぬかるんだ斜面。
折れた枝。
少しずつ、あの時の記憶と目の前の景色が重なり始めている。
それに伴って、佳子の歩みもわずかに遅くなった。
莉奈に追われた時のことを、身体が思い出している。
日本刀を持った女。
黒田が銃を向けても怯まず、美月が立ちはだかっても、まるでそこにいないかのように自分だけを追ってきた。
理由は今も分からない。
ただ。
怖かった。
「佳子?」
詩織の声で我に返る。
「……大丈夫」
「本当に?」
「うん」
そう答えながらも、佳子は自分の腕を抱くようにして擦った。
もしこの先に莉奈がいたら。
また自分を狙ってくるのだろうか。
それでも、引き返そうとは思わなかった。
蓮が生きているかもしれない。
今は、その可能性の方が恐怖より大きかった。
「行こう」
佳子が再び歩き出そうとした、その時だった。
詩織が突然、佳子の腕を掴んだ。
「待って」
「え?」
「……誰かいる」
二人が足を止める。
少し離れた茂みの向こうから、濡れた草を踏む音が聞こえた。
一度。
二度。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
佳子の身体が強張った。
真っ先に浮かんだのは莉奈だった。
詩織も拳銃を両手で握り直す。
「誰?」
返事はない。
足音だけが近づいてくる。
「止まって!」
詩織が声を上げた。
「それ以上来ないで!」
足音が止まった。
短い沈黙のあと。
「……その声、七瀬か?」
低い男の声が返ってきた。
詩織が目を見開く。
佳子も、その声には聞き覚えがあった。
「黒田さん……?」
茂みが揺れ、ゆっくりと姿を現したのは黒田修司だった。
「撃つなよ」
両手をわずかに見える位置へ出しながら、黒田が姿を見せる。
詩織は安堵したように息を吐き、すぐに銃口を下げた。
「黒田さん……」
佳子も緊張を解きかけたが、すぐに黒田の装備が以前とは変わっていることに気づいた。
莉奈との戦いで壊された長銃は、もう持っていない。
その代わりに別の銃を携え、さらに荷物も増えている。
「その武器……」
佳子の視線に気づき、黒田は自分の装備を見た。
「途中で見つけた」
「どこで?」
「少し離れた場所に物資がまとめて置かれてるところがあった。食料や医療品もあったが、武器も残ってた」
誰かが先に利用した形跡もあり、すべてが残されていたわけではない。それでも、莉奈に長銃を壊されていた黒田にとっては十分だった。
佳子は黒田の顔を見る。
疲労が濃い。
服は雨と泥で汚れ、身体にも戦った痕跡が残っている。
そして。
「黒田さん」
佳子は恐る恐る尋ねた。
「美月は?」
黒田の表情が止まった。
「一緒じゃないのか?」
その反応だけで、佳子は答えを理解した。
「……違う」
「俺はお前たちを逃がしたあと、莉奈を止めようとしてた」
黒田の表情が険しくなる。
「だが、止められなかった」
佳子は拳を握った。
「美月が残ったの」
「橘が?」
「私を逃がすために」
黒田が黙る。
「でも莉奈は美月じゃなくて、ずっと私を追ってきた。だから美月がどうなったのか……私にも分からない」
「……そうか」
黒田はそれ以上何も言わなかった。
佳子も聞けなかった。
美月が無事だと信じたい。
けれど、この島では誰かと離れたというだけで、その次に再会できる保証などどこにもない。
やがて詩織が口を開いた。
「莉奈は、そのあと佳子を追って……蓮のところに来たみたい」
黒田が詩織を見る。
「神谷?」
佳子が頷いた。
「大きな爆発があった場所で蓮を見つけたの。倒れてた」
「生きてたのか?」
「……分からない」
黒田の眉が動いた。
「分からない?」
「確認できなかった。莉奈が来て……蓮を連れていったから」
黒田の表情が変わった。
「連れていった?」
「うん」
「殺したんじゃなく?」
「少なくとも、私が見てた時は」
黒田はしばらく何も言わなかった。
自分も莉奈とは実際に戦っている。
あの女が、ためらいなく人を襲えることは知っている。
それなのに、意識を失った蓮をその場で殺さず、わざわざ連れていった。
「……目的が分からんな」
黒田が呟いた。
佳子も同じだった。
なぜ自分を狙ったのか。
なぜ蓮を連れていったのか。
莉奈が何を考えているのか、何一つ分からない。
「ただ、一つだけ分かってる」
黒田の声が低くなる。
「あの女は危険だ」
詩織が黙る。
佳子はゆっくり頷いた。
「……うん」
実際に追われた。
殺されかけた。
否定できるはずがなかった。
「俺の銃も壊された。撃たれても怯まずに距離を詰めてくる。次に遭遇した時、話し合いでどうにかなると思わない方がいい」
「でも……」
詩織が口を開いた。
「何か理由があるかもしれない」
「理由?」
「莉奈が佳子を狙ったのも、蓮を連れていったのも。何か理由があるんじゃない?」
「あるだろうな」
黒田はあっさり認めた。
「人間が何かする以上、大抵は理由がある」
「だったら――」
「その理由を聞くまで、向こうが待ってくれるのか?」
詩織が言葉を失った。
黒田の声は荒くなかった。
むしろ、現実を確認するように淡々としていた。
「俺は一度戦ってる。佳子も追われた。理由があるから安全だとは言えない」
「……」
「次にあいつが襲ってきたら、戦うしかない」
詩織の表情が曇る。
「……殺すってこと?」
黒田はすぐには答えなかった。
「そうなるかもしれない」
「……」
「俺だって、好きで殺したいわけじゃない。だが、向こうが殺しに来るなら、こっちが何もしなければ死ぬだけだ」
佳子は黒田の言葉を聞きながら、莉奈に追われた時の恐怖を思い出していた。
自分だけなら、まだ迷っていたかもしれない。
だが。
美月が残った。
自分を逃がすために。
その美月が今どうなっているのかさえ分からない。
「……私は」
佳子が口を開いた。
「黒田さんの言うこと、分かる」
「佳子?」
詩織が振り向く。
「私、莉奈に追われた。何で狙われてるのかも分からないまま、逃げてもずっと追ってきた」
佳子は自分の胸元を押さえた。
思い出すだけで鼓動が速くなる。
「怖かった」
その言葉だけは、偽りようがなかった。
「もう一回ああなったら、今度は逃げ切れるか分からない。だから……また莉奈が襲ってくるなら、戦うしかないと思う」
それは莉奈を殺したいという意味ではない。
ただ。
生きるために。
自分だけではなく、一緒にいる人間を守るためにも。
詩織は俯き、自分の拳銃へ視線を落とした。
「……分かってる」
小さく答える。
「私だって、何もしないで殺されるつもりはない。でも……できるなら、殺したくない」
黒田は否定しなかった。
「それでいい」
「え?」
「殺したくないと思うのは普通だ」
黒田は持っていた荷物を地面へ下ろした。
「ただ、選べるようにはしておけ」
中から武器を取り出す。
佳子の表情が強張った。
黒田はその一つを差し出した。
「丸腰で莉奈に会ったら、戦うか逃げるかを選ぶことすらできない」
佳子はすぐには受け取らなかった。
武器を見つめる。
これを持つということは、場合によっては人へ向けることになる。
それでも。
あの恐怖を思い出し。
最後にはゆっくりと手を伸ばした。
「……分かった」
黒田は詩織を見る。
「七瀬は神谷の銃があるな」
「うん」
「それでいい。無理に増やす必要はない」
詩織は小さく頷いた。
黒田が荷物を戻すと、佳子は森の先へ目を向けた。
「蓮を見つけた場所、もう近いと思う」
「案内できるか?」
「うん」
「なら俺も行く」
佳子が黒田を見る。
「一緒に?」
「莉奈が神谷を連れていったなら、また出くわす可能性がある。二人だけで行くよりはいいだろ」
佳子は頷いた。
詩織も反対しなかった。
三人になったことで心強さは増した。
だが。
それでも安心はできない。
佳子が先頭に立ち、再び歩き始める。
*
しばらく進んだところで、佳子の足が止まった。
「……この辺」
声が小さくなる。
詩織と黒田も足を止めた。
そこだけ。
周囲とは明らかに景色が違っていた。
木の幹が傷つき、地面は大きく抉れている。雨によって血の多くは流されていたが、それでも黒ずんだ跡が泥の中に残っていた。
折れた枝。
散乱した破片。
爆発の激しさを物語る痕跡が、あちこちに残されている。
詩織はゆっくり周囲を見回した。
「ここで……?」
佳子が頷く。
「蓮が倒れてた」
その言葉だけで、詩織の胸が締めつけられる。
視線を地面へ落とす。
佳子がどこで蓮を見たのか。
どんな状態だったのか。
聞こうとした。
その時だった。
詩織の視線が、少し離れた場所で止まった。
最初は何なのか分からなかった。
泥。
破れた布。
黒ずんだ何か。
けれど。
目を凝らした瞬間。
それが何なのかを理解してしまった。
「……え」
詩織の身体が固まった。
佳子が振り返る。
「詩織?」
返事がない。
詩織は地面の一点を見つめたまま、動けなくなっていた。
雨に打たれ、泥にまみれている。
それでも。
人間の身体の一部だということは分かった。
少し離れたところには、さらに原形を失った肉片が残っている。
佳子から聞いていた。
蓮の近くに。
人間の身体の一部があったと。
頭では分かっていた。
けれど。
聞くことと。
実際に見ることは。
まるで違った。
「これ……」
詩織の声が震えた。
一歩下がる。
「これ……人……?」
佳子は答えられなかった。
自分が最初にここへ来た時の光景を思い出し、顔を背ける。
黒田が慎重に周囲を確認する。
爆発の中心。
残された血痕。
そして。
人間の身体の一部。
詩織は口元を押さえた。
吐き気が込み上げる。
中央広場で大量の死体を目にした時の感覚が、一瞬にして蘇った。
「詩織、見なくていい」
佳子が近づこうとする。
だが。
詩織は別のものに気づいた。
肉片の近く。
泥と血に汚れてはいるが、衣服だったものの一部が残っている。
見覚えがあるような気がした。
「……待って」
「詩織?」
「蓮は……」
詩織は佳子を見る。
「蓮、一人じゃなかったんだよね?」
佳子はすぐには答えられなかった。
そのことを知ったのは、自分も葵から聞いたあとだった。
代わりに黒田が詩織を見る。
詩織の顔から、さらに血の気が引いていく。
「聡子……」
その名前が。
震える唇から漏れた。
佳子が目を見開く。
「え?」
「蓮と一緒に出ていったの……聡子だった」
詩織はもう一度、地面へ視線を戻した。
見たくない。
それでも。
目を逸らせなかった。
少し前まで。
同じ建物にいた。
言葉を交わしていた。
怯えた様子も見せていた。
蓮と一緒に、この場所を出ていった。
その聡子が。
もし。
「これ……聡子なの……?」
声が震える。
佳子は答えられなかった。
「私には分からない」
それしか言えない。
「私が来た時には、もうこうなってたから……」
詩織は呆然と立ち尽くした。
頭の中では否定したかった。
違う。
聡子ではない。
そう思いたい。
けれど。
蓮が聡子と一緒にここを出たこと。
この場所で大きな爆発が起きたこと。
その直後、蓮がここに倒れていたこと。
そして。
蓮のすぐ近くに、別の人間の身体が残されていたこと。
それらをつなげれば。
考えたくなくても、一つの可能性へ辿り着いてしまう。
「……嘘」
詩織の目から涙が滲んだ。
「さっきまで……いたのに」
誰も答えない。
詩織は聡子の正体を知らない。
ゲームマスターだったことも。
どんな目的で参加者たちの中にいたのかも。
知らない。
詩織にとって聡子は。
同じようにこの島へ放り込まれ。
怯えながら生き延びようとしていた参加者の一人だった。
だからこそ。
目の前の現実を簡単には受け入れられなかった。
「こんなの……」
詩織が一歩下がる。
「こんなの、誰が……」
黒田の表情が険しくなる。
佳子も答えられない。
爆発が起きた理由さえ。
三人には分からない。
詩織はそこで、はっとした。
「蓮……」
視線を周囲へ走らせる。
もし。
これが本当に聡子なら。
そのすぐそばにいた蓮は。
「佳子!」
突然、詩織が振り返った。
「蓮はどこに倒れてたの!?」
佳子は少し離れた場所を指した。
「あそこ……」
詩織がそちらを見る。
抉れた地面。
泥。
爆発の跡。
聡子かもしれない人間が、これほどまでに破壊される爆発。
そのすぐ近くに。
蓮もいた。
現場を自分の目で見たことで、再び胸の中へ押し寄せてくる。
「こんな近くに……?」
詩織の声が震えた。
「ここに蓮がいたの……?」
「うん」
佳子は答えるしかなかった。
「私が見つけた時は、そこで倒れてた」
「……」
詩織は拳銃を握りしめた。
生きていてほしい。
端末の条件が変わっていないことに希望を見つけた。
それでも。
現場を見れば。
怖くなる。
これほどの爆発を受けて。
本当に無事なのか。
「探そう」
詩織が呟いた。
佳子が見る。
詩織は目元を拭った。
「蓮を探そう。やっぱり、ちゃんと自分で確認しないと無理」
「詩織……」
「生きてるって信じたい。でも……ここ見たら、待ってるなんてできない」
佳子もゆっくり頷いた。
「うん」
黒田は二人のやり取りを聞きながら、爆発現場の周囲へ目を向けていた。
「神谷を連れていったのは莉奈で間違いないんだな?」
「うん。私が見た」
佳子が答える。
「なら、莉奈を見つければ神谷も見つかる可能性が高い」
その言葉に。
佳子の表情が強張る。
莉奈。
ここまで来た以上。
避けては通れない。
「ただし」
黒田が二人を見る。
「さっき言ったことは忘れるな。向こうが何もしないなら、こっちから仕掛ける必要はない」
詩織が黒田を見る。
「……うん」
「だが、襲ってきたら戦う」
佳子も頷いた。
「分かってる」
詩織はすぐには答えなかった。
地面に残された肉片へ、もう一度だけ視線を向ける。
聡子なのか。
まだ断定はできない。
それでも。
もし本当にそうなら。
もう。
誰かが死ぬことを遠い出来事のようには考えられなかった。
「……私も」
詩織は蓮の拳銃を握り直した。
「逃げるだけじゃ駄目なのは分かってる」
三人は爆発現場を離れようとした。
その時。
森の奥から。
微かな音が聞こえた。
三人が同時に足を止める。
黒田がすぐに視線を向けた。
佳子も息を止める。
詩織の手に力が入った。
誰かがいる。
雨上がりの森の向こう。
木々の隙間から。
こちらへ近づいてくる気配があった。
佳子の脳裏に。
一人の女の姿が浮かぶ。
日本刀を持った。
自分を執拗に追い続けた女。
「……まさか」
佳子の呟きが落ちる。
三人はまだ知らない。
次に現れる莉奈が。
戦うためだけに彼女たちを探しているのではないことを。
そして。
詩織が持っているAの端末が。
蓮の生死を左右するものになっていることも。




