第73話 それぞれの考え
雨は、ほとんど上がっていた。
建物の中には三人が残っているというのに、しばらく誰も口を開こうとしなかった。
佳子が来る前までとは、明らかに空気が違っている。
葵の首からは、つい先ほどまで命を縛りつけていた首輪がなくなった。一方で、詩織の首には今も黒い首輪が残されている。
そして、その首輪を外すために必要なのは蓮の死。
知らなければ、これまでと同じようにいられたのかもしれない。
だが、一度知ってしまった以上、何もなかったことにはできなかった。
詩織は俯いたまま、葵の手にある自分の端末を見つめていた。
画面はすでに消えている。それでも、そこに表示されていた文章は三人の頭から消えてくれない。
やがて葵が、小さく息を吐いた。
「……返す」
詩織が顔を上げる。
葵は手にしていた端末を差し出した。
「いいの?」
「あなたの端末だからね。私がずっと持ってるわけにもいかないでしょ」
詩織はすぐには手を伸ばさなかった。
さっきまで葵は、この端末を奪ってまで条件を確認しようとしていた。その葵が返すと言っていることが、少し意外だった。
「ただし」
葵が続ける。
「条件を知ったことは忘れないから」
詩織の表情が曇る。
「……うん」
「神谷を殺すつもりはないって言ったよね?」
「ない」
今度は迷わなかった。
詩織は葵を真っ直ぐ見て答えた。
「絶対に、そんなことしたくない」
葵はしばらくその目を見つめていた。
本心なのか。
嘘なのか。
それを確かめる方法はない。
ただ、蓮が死んだかもしれないと聞かされた時の詩織の取り乱し方を思い返せば、少なくとも今この瞬間、本気で蓮の死を望んでいるようには見えなかった。
「だったら、自分で持ってて」
葵は端末を差し出した。
今度は詩織も手を伸ばし、ゆっくり受け取った。
「……ありがとう」
「お礼を言われることじゃないよ。勝手に見たのは私なんだから」
詩織は端末を胸元へ戻した。
A。
それが自分に割り当てられた端末であることに、これまで特別な意味など感じたことはなかった。
ただの識別記号。
そのはずだった。
だが今は、その端末に自分の命と蓮の命が同時に絡みついているように思えてならない。
詩織が端末をしまうのを確認すると、葵はもう一方の手に持っていた拳銃へ視線を落とした。
蓮から詩織へ預けられた銃。
それをどうするべきか。
少し迷ったあと、葵は詩織へ向けて差し出した。
「これも返す」
詩織が驚いた。
「……いいの?」
「正直、迷ってる」
葵は隠さなかった。
「あなたの条件を知った直後だから、本当なら持たせたくない。でも、ここで私が持っていくのも違うと思う」
詩織は拳銃を見る。
「それに」
葵は自分の右脚へ視線を落とした。
「今の私が持ってても、どれだけ使えるか分からないしね」
傷の手当ては終わっている。
それでも、動かせば痛みは走る。
もし誰かに追われたとしても、まともに走ることは難しいだろう。
詩織は迷った末に拳銃を受け取った。
「蓮に返す」
「うん」
葵は頷いた。
「本人に返せるといいね」
その言葉に、詩織の指がわずかに震えた。
「……返すよ」
自分自身へ言い聞かせるように答える。
「絶対に」
佳子は黙って二人のやり取りを見ていた。
条件を知ったことで、詩織に対する警戒が完全に消えたわけではない。それでも、今ここで銃を取り上げたままにしておくことが正しいとも思えなかった。
莉奈がいる。
相馬もいる。
ほかにも、どこで何をしているのか分からない参加者がいる。
無防備になることが安全につながる島ではない。
葵は壁へ手をつきながら立ち上がった。
「……よし」
右脚へ体重がかかった瞬間、顔がわずかに歪む。
佳子が気づいた。
「葵?」
「大丈夫」
「大丈夫に見えないけど」
「歩けるから」
葵は壁から手を離した。
一歩進む。
痛みはある。
それでも、先ほど手当てをしたことで多少はましになっていた。
詩織が不安そうに尋ねる。
「どこ行くの?」
「ここを出る」
「一人で?」
「うん」
佳子も眉を寄せた。
「その脚で?」
「だからって、ずっとここにいるわけにもいかないでしょ」
葵は入口へ視線を向ける。
雨は止まりかけている。
視界も先ほどまでより良くなっていた。
「それに三人でいるのも、今はあんまり良くないと思う」
詩織の表情が曇った。
その意味を理解したからだ。
「……私のせい?」
「それだけじゃない」
葵はすぐに否定した。
「佳子を狙ってる莉奈がいる。神谷がどこにいるかも分からない。古瀬さんだってどうなったか分からないし、ほかの参加者が今どうなってるのかも分からない」
さらに。
条件が変わった今。
誰が誰を狙っているのか。
三人には分からない。
「一か所に集まりすぎるのも危険だと思う」
佳子は納得しきれない表情をしていた。
「でも、一人の方が危なくない?」
「それもそうなんだけどね」
葵は苦笑する。
どちらが正しいのか。
そんなことはもう分からない。
集まれば安全なのか。
一人なら安全なのか。
この島では、どちらも正解にはならない。
「それに」
葵は詩織を見る。
「少し考えたい」
「……私のこと?」
「それもある」
葵は正直に答えた。
「神谷のことも、莉奈のことも。それから……このゲームのことも」
詩織は何も言わなかった。
引き止めたい。
だが、自分にその資格があるのか分からない。
自分の条件を知った葵が距離を置きたいと思うのなら、それを責めることなどできなかった。
「……分かった」
詩織が答える。
「気をつけて」
「そっちもね」
葵はそう言ってから、佳子を見る。
「佳子」
「なに?」
「無茶しないでよ」
「それ、今から一人で出ていく葵が言う?」
「だからこそ言ってるの」
少しだけ。
以前のような空気が戻った。
佳子の口元にも、小さな笑みが浮かぶ。
だが、それは長く続かなかった。
葵が入口へ向かう。
右脚を庇っているため、歩く速度は遅い。
それでも止まらない。
入口を出る直前。
葵は一度だけ振り返った。
詩織と目が合う。
「詩織」
「……なに?」
「神谷が生きてたら」
一度言葉を止める。
「ちゃんと話した方がいいよ」
詩織の目が揺れる。
何を。
聞く必要はなかった。
条件のことだ。
「……うん」
今度の返事は小さかった。
葵はそれ以上何も言わず、建物を出ていった。
*
雨上がりの森には、湿った土と草の匂いが強く漂っていた。
葵は木の幹へ手をつきながら、ゆっくりと進んでいく。
右脚は痛む。
一歩進むたびに傷が存在を主張してくる。
走れない。
もし今、誰かに襲われたら逃げ切るのは難しいだろう。
それでも。
葵は建物から離れていった。
振り返らない。
どこへ向かうのか。
まだ明確には決めていなかった。
ただ。
一人になりたかった。
頭の中を整理したかった。
詩織の条件。
蓮の行方。
莉奈の襲撃。
爆発。
そして、自分の首からようやく外れた首輪。
葵は無意識に首元へ触れた。
何もない。
あれほど重く感じていたものがなくなっている。
それなのに。
自由になったという実感はなかった。
「……まだ終わってないもんね」
小さく呟き。
葵は森の奥へ進んでいった。
*
建物には佳子と詩織だけが残された。
葵がいなくなったことで、室内は急に広くなったように感じられた。
詩織は入口を見つめていたが、やがて視線を落とした。
手には。
蓮から預かっている拳銃がある。
そして端末A。
自分の命を左右する二つのもの。
佳子が近くの壁へ背を預ける。
二人きりになっても、すぐに会話は始まらなかった。
先に口を開いたのは詩織だった。
「……佳子」
「うん」
「ごめん」
佳子は少しだけ眉を寄せた。
「何が?」
「条件、隠してたこと」
佳子はしばらく詩織を見つめた。
「言えないよね」
予想していなかった言葉だったのか、詩織が顔を上げる。
「え?」
「私でも言えないと思う」
佳子は自分の端末へ触れた。
佳子にも条件がある。
その内容を誰に、どこまで話すべきなのか。
ずっと考えてきた。
まして。
自分の条件が仲間の死を要求するものだったなら。
簡単に話せるはずがない。
「だから、隠してたこと自体を責めるつもりはないよ」
「……ありがとう」
「でも」
佳子の表情が変わる。
「怖くないって言ったら嘘になる」
詩織は俯いた。
「うん」
「ごめん」
「謝らなくていいよ。私でも怖いと思うから」
互いに。
完全には信用できない。
それでも。
完全に離れることもできない。
そんな曖昧な距離が二人の間に残った。
しばらくして。
詩織が窓の外を見る。
「探しに行きたい」
佳子には、誰を指しているのかすぐに分かった。
「蓮?」
「うん」
迷いはなかった。
「生きてるかもしれないなら、ここで待ってられない」
佳子も同じ気持ちだった。
蓮が倒れていた場所。
あそこへ戻れば。
何か分かるかもしれない。
莉奈に連れていかれたとしても、周囲を探せば痕跡が残っている可能性はある。
しかし。
佳子の表情は晴れなかった。
「莉奈がいる」
その名前を聞き。
詩織も黙った。
佳子はあの時の莉奈を思い出す。
日本刀を持ち。
黒田の銃撃を恐れず。
美月が立ちはだかっても。
自分だけを追ってきた女。
そして。
倒れていた蓮を連れていった。
「蓮が生きてるなら」
佳子はゆっくりと言った。
「たぶん莉奈と一緒にいる」
詩織が拳銃を握る手に力を込める。
「だったら、なおさら行かなきゃ」
「詩織」
「蓮が危ないかもしれない」
「分かってる」
佳子もそう思う。
莉奈がなぜ蓮を連れていったのかは分からない。
助けるためなのか。
何か別の目的があるのか。
それすら分からない。
ただ。
佳子には一つだけ確かなことがある。
莉奈は危険だ。
「あの人、本当に強いよ」
佳子の声には、実際に追われた者だけが知る恐怖が滲んでいた。
「黒田さんが銃を持ってた。それでも止められなかった」
詩織は黙って聞いている。
「私も銃を撃った。でも駄目だった」
「……」
「美月が残ってくれなかったら、私……」
その先は言えなかった。
美月。
今どこにいるのか。
無事なのか。
佳子には分からない。
美月を探したいという気持ちもある。
だが。
蓮も。
放っておけない。
「怖いよ」
佳子は正直に言った。
「もう一回莉奈に会うの」
詩織が佳子を見る。
「でも、蓮を探したい」
「……うん」
「だから迷ってる」
詩織は少し考えたあと、自分の拳銃へ視線を落とした。
これは蓮のものだ。
いつか返さなければならない。
本人へ。
「私も怖い」
詩織が言った。
「莉奈がどんな人なのか、私は佳子ほど知らない。でも……佳子の話を聞いたら、怖いよ」
一度。
息を吐く。
「それでも行きたい」
佳子は詩織を見つめた。
「どうして?」
聞く必要などない質問だったかもしれない。
それでも。
聞いた。
詩織はしばらく黙ったあと。
首元の黒い輪へ触れた。
「私の条件がこんなのだから」
自嘲するように少し笑う。
「蓮のことを心配したら、おかしい?」
「そんなこと言ってない」
「分かってる。でも……」
詩織は拳銃を見つめる。
「私、この条件を見た時からずっと怖かった。蓮を殺せば助かるって考えが、自分の中にあること自体が嫌だった」
殺したいわけではない。
それでも。
端末を開けば。
そこに選択肢として存在している。
蓮を殺す。
自分が生きる。
その二つを結びつけられてしまった。
「だから」
詩織は顔を上げた。
「蓮が生きてるなら、ちゃんと会いたい」
葵にも言われた。
生きていたら。
話した方がいい。
怖い。
蓮が自分を見る目が変わるかもしれない。
離れろと言われるかもしれない。
それでも。
このまま隠し続けることの方が。
もっと怖かった。
佳子はしばらく考えた。
莉奈がいる。
危険なのは分かっている。
自分を狙っている理由すら分からない。
それでも。
蓮が生きている可能性を知ってしまった以上。
この建物で待ち続けることもできなかった。
「……行こうか」
詩織が顔を上げる。
「いいの?」
「怖いけどね」
佳子は小さく息を吐いた。
「ここにいても何も分からないから」
詩織が頷く。
「うん」
二人は準備を始めた。
持っていけるものは多くない。
詩織は蓮から預かった拳銃を確認し、端末Aをしまう。
佳子も自分の端末を持つ。
入口へ向かいかけて。
佳子が一度だけ振り返った。
葵が首輪を外した場所。
床には。
外された首輪が残されている。
少し前まで。
三人でここにいた。
今はもう。
それぞれが違う方向へ動き始めている。
「佳子?」
詩織に呼ばれ。
佳子は前を向いた。
「ううん。何でもない」
建物の外へ出る。
雨上がりの森は薄暗く、枝葉から落ちる水滴があちこちで小さな音を立てていた。
どこへ行けば蓮がいるのか。
正確な場所など分からない。
莉奈と遭遇すれば。
今度こそ無事では済まないかもしれない。
それでも。
二人は歩き出した。
蓮が生きているかもしれない。
今は。
その可能性だけで十分だった。




