第71話 葵の首輪
建物の外を叩いていた雨は、少しずつ弱くなっていた。
それでも森を覆う雲は厚く、窓から差し込む光は薄暗い。
水野葵は壁際に座ったまま、自分の端末を見つめていた。
画面には、何度確認しても同じ文字が表示されている。
《INDIVIDUAL CLEAR CONDITION》
《アップグレード済みPLAYER TERMINALを1台破壊してください》
《条件達成を確認しました》
《首輪解除が可能です》
葵自身が、端末を壊したわけではない。
それどころか、何が壊れたのかさえ分からなかった。
少し前、どこか遠くで大きな爆発があった。
その直後。
突然、端末が条件達成を告げたのだ。
偶然なのか。
誰かが壊した端末まで、自分の条件として認められる仕組みなのか。
葵には分からない。
ただ一つ。
確かなことがある。
条件は達成された。
そして今度こそ。
端末は首輪を外せると告げている。
「……本当に、大丈夫なんだよね」
葵は小さく呟いた。
すぐ近くには七瀬詩織がいる。
詩織も不安そうに葵を見ていた。
「表示がそうなってるなら……大丈夫だと思う」
「思う、か」
「ごめん」
「いや。詩織に聞いても分かんないよね」
葵は苦笑した。
当然だった。
この島では、端末の表示を信じるしかない。
だが。
葵には、その表示を簡単に信用できない理由があった。
今回の1st STAGE。
葵は自分に与えられた条件を確かに達成した。
それなのに。
首輪は外れなかった。
《SYSTEM ERROR》
あの文字が表示された瞬間のことを、葵は今でも鮮明に覚えている。
助かると思った。
これで首輪を外せると思った。
その期待を。
たった一行の表示で裏切られた。
だからこそ。
今回も同じことが起きるのではないか。
その恐怖が消えない。
「……」
葵の指が止まる。
条件達成。
首輪解除可能。
そう表示されている。
それでも。
もし。
またSYSTEM ERRORが出たら。
「葵?」
詩織の声で、葵は我に返った。
「怖い?」
少し迷って。
葵は苦笑した。
「そりゃね」
強がる必要もなかった。
「さっき一回、駄目だったから」
「……うん」
「条件をちゃんと達成したのに、いきなりSYSTEM ERRORなんて出されたんだよ?」
葵は自分の首輪へ触れる。
「今度は大丈夫って言われても、簡単には信用できないよ」
詩織には。
その気持ちが痛いほど分かった。
首輪は。
条件を満たさないまま端末を読み込ませれば爆発する。
間違っていれば死ぬ。
システムが正しく動く保証さえないと分かってしまった今。
端末に触れるだけでも怖い。
「でも」
葵は小さく息を吐いた。
「いつまでも、これ付けてるわけにもいかないしね」
詩織が黙る。
葵は端末を持ち上げた。
首輪へ近づける。
その手が。
わずかに震えていた。
読み込ませる直前で。
一度止まる。
頭の中に、先ほどの表示が蘇る。
《SYSTEM ERROR》
「……大丈夫」
自分自身へ言い聞かせる。
そして。
端末を首輪へ読み込ませた。
電子音が鳴る。
葵の身体が硬直した。
一秒。
二秒。
時間が。
異様に長く感じられる。
やがて。
《AUTHENTICATION COMPLETE》
小さな作動音。
葵は息を止めた。
首元の感触が変わる。
ロックが解除され。
首輪が外れた。
「……」
葵は。
すぐには動かなかった。
両手で首輪を持ったまま。
じっと見つめる。
「葵……?」
詩織が恐る恐る声をかける。
葵は自分の首へ触れた。
何もない。
本当に。
外れている。
「……外れた」
その声は。
自分でも驚くほど小さかった。
「外れた……」
もう一度。
今度は確かめるように言った。
詩織の顔が明るくなる。
「よかった……!」
「……うん」
葵はようやく笑った。
それでも。
思っていたほど大きな喜びは湧いてこなかった。
首輪が外れた。
自分の命を直接脅かしていたものが、なくなった。
本来なら。
もっと喜んでもいいはずだった。
けれど。
ゲームそのものは終わっていない。
今も島のどこかで。
誰かが誰かを追い。
誰かが傷つき。
誰かが死んでいるかもしれない。
自分だけ。
一つ危険から抜けただけだった。
*
首輪を外したあと。
葵は医療キットを引き寄せた。
右脚の傷が、ずっと痛んでいる。
これまでも最低限の処置はしていたが、動き回ったせいで状態は良くなかった。
「私がやろうか?」
詩織が近づく。
「大丈夫。自分でできる」
「でも」
「詩織は周り見てて」
葵はそう言ってから。
少しだけ笑った。
「誰か来るかもしれないから」
詩織は頷いた。
「分かった」
葵は傷の状態を確認しながら、医療キットを使って手当を進めた。
痛みが走るたび。
表情が歪む。
「……っ」
「大丈夫?」
「痛いけどね」
葵は短く息を吐いた。
「歩けないほどじゃない」
とはいえ。
走るのは厳しい。
少なくとも。
以前のようには動けない。
もし今。
誰かに襲われたら。
かなり危険だった。
だからこそ。
葵には別の不安があった。
「……遅いね」
詩織が窓の外を見たまま言った。
葵の手が止まる。
何のことか。
聞かなくても分かった。
「蓮たち?」
詩織が頷く。
「うん」
蓮と聡子。
二人はここを出ていった。
それから。
戻ってきていない。
遠くでは。
何度も銃声や爆発音が聞こえた。
特に。
あの大きな爆発。
葵の端末が条件達成を表示した前後。
何かが起きた。
それだけは間違いない。
「……神谷なら大丈夫でしょ」
葵は言った。
詩織を安心させるためでもあり。
自分に言い聞かせるためでもあった。
「今まで何回も危ない目に遭って、それでも戻ってきたんだから」
「……うん」
詩織は答える。
だが。
窓から視線を離さない。
葵はそんな詩織を横目で見た。
ずっと。
少し気になっていた。
詩織は。
蓮のことになると反応が変わる。
ただ長く一緒に行動してきたからなのか。
それとも。
別の理由があるのか。
葵には分からない。
「詩織」
「なに?」
「神谷のこと――」
葵が言いかけた。
その時。
外から。
足音が聞こえた。
二人の表情が変わる。
詩織は反射的に。
蓮から預かっている拳銃へ手を伸ばした。
葵も医療キットから手を離す。
「……誰か来る」
詩織が小声で言う。
足音は。
近づいている。
一人。
おそらく。
一人だけ。
葵は右脚を庇いながら立ち上がった。
「無理しないで」
「そうも言ってられないでしょ」
詩織が拳銃を構える。
入口を見る。
足音が止まった。
静寂。
そして。
入口から。
人影が現れた。
詩織の指が動く。
「待って!」
女の声。
二人が止まった。
現れた人物も。
詩織を見て目を見開いた。
「……詩織?」
詩織の目が大きくなる。
「佳子……?」
夢篠佳子。
泥だらけだった。
髪も服も雨に濡れ。
呼吸も乱れている。
それでも。
間違いなく佳子だった。
「詩織!」
佳子の顔に。
ようやく安堵が浮かぶ。
詩織も銃口を下ろした。
「佳子!」
佳子が駆け寄る。
詩織も数歩進み。
互いの無事を確かめるように身体へ触れた。
「よかった……!」
佳子の声が震える。
「本当に……よかった」
「佳子も……!」
詩織も。
泣きそうな顔になっていた。
この島へ来てから。
人が一人。
また一人と死んでいる。
一度離れた相手と。
もう一度生きて会える。
それだけで。
今は奇跡のように感じられた。
「怪我は?」
詩織が聞く。
「私は大丈夫」
佳子は答えながら。
奥にいる葵へ気づいた。
「……葵」
「久しぶり」
葵は壁へ身体を預けながら手を上げた。
佳子が近づく。
その視線が。
葵の首元へ止まった。
「首輪……」
「外れた」
「条件……クリアしたの?」
「うん。さっきね」
佳子の顔に。
一瞬だけ笑みが浮かんだ。
「よかった……」
だが。
それはすぐに消えた。
葵が気づく。
佳子の様子がおかしい。
再会を喜んでいる。
それは間違いない。
けれど。
それ以上に。
焦っている。
何かに怯えている。
何度も。
入口の方を確認している。
「……何があったの?」
葵が聞いた。
佳子は答えなかった。
詩織も。
ようやく気づく。
「佳子?」
「……」
「どうしたの?」
佳子が息を整える。
どこから話せばいいのか。
迷っているようだった。
「莉奈」
その名前を聞いた瞬間。
葵の表情が変わった。
「莉奈?」
「うん」
佳子は頷いた。
「あの人……危ない」
詩織が眉を寄せる。
「何があったの?」
「襲われた」
「……え?」
「私たち、莉奈に襲われたの」
佳子は。
そこから。
自分が見たことを話し始めた。
黒田がいたこと。
美月と一緒だったこと。
そして。
日本刀を持った莉奈が現れたこと。
黒田が銃で応戦したこと。
それでも莉奈が止まらなかったこと。
「待って」
葵が遮る。
「何で?」
佳子を見る。
「何で莉奈があなたたちを襲うの?」
「分からない」
佳子は首を横へ振った。
「本当に分からないの」
自分が何かした覚えもない。
莉奈の条件が自分に関係しているとも聞いていない。
「でも」
佳子の顔が強張る。
「あの人……私を狙ってた」
「佳子を?」
詩織が聞く。
「うん」
「どうして……」
「分からない」
佳子自身。
ずっと考えていた。
なぜ自分なのか。
何かの条件なのか。
それとも。
別の理由なのか。
答えは出ていない。
「美月が止めてくれた」
佳子の声が小さくなる。
「それで私、逃げた」
「美月は?」
詩織が聞く。
佳子は黙った。
「……分からない」
拳が。
ゆっくり握られる。
「私を逃がすために残ってくれた」
「……」
「そのあと、莉奈が追ってきた」
葵が目を細める。
「美月じゃなくて?」
「うん」
「莉奈は美月を無視して、佳子を追った?」
「ほとんど……」
佳子は頷いた。
「私を見てた」
葵は黙る。
佳子の話が本当なら。
莉奈は相当危険だ。
少なくとも。
理由も分からないまま近づいていい相手ではない。
「それで?」
葵が促す。
佳子は一度。
言葉を止めた。
顔から。
血の気が引いていく。
「逃げてる途中で……大きな音がした」
詩織が反応する。
「爆発?」
「うん」
葵も。
自分の端末へ目を向けた。
おそらく。
自分の条件が達成された頃に聞こえた爆発。
「そのあと……」
佳子の声が。
震え始める。
「佳子?」
詩織が心配そうに覗き込む。
佳子は。
詩織を見た。
言うべきか。
迷う。
でも。
隠しておけることではない。
「私……見たの」
「何を?」
佳子は。
すぐには答えられなかった。
脳裏に。
あの光景が蘇る。
爆発の跡。
地面。
血。
肉片。
そして。
倒れていた男。
「……蓮を」
詩織の表情が。
一瞬で変わった。
「え?」
佳子は唇を噛んだ。
「蓮を……見つけた」
詩織が。
佳子の腕を掴む。
「どこで?」
声が変わっていた。
「佳子、蓮は?」
「詩織……」
「蓮はどこにいるの?」
佳子は答えられない。
「ねえ」
詩織の指に力が入る。
「蓮は?」
葵が。
二人を見る。
先ほどまでとは明らかに違う。
詩織の顔から。
血の気が引いていた。
佳子は。
震える息を吐いた。
そして。
あの場所で見たものを。
話そうとした。




