第69話 莉奈の思い
「蓮がいれば、私、他には何もいらないよ」
莉奈はそう言って、静かに笑った。
G-02の外では、まだ雨が降り続いている。
蓮は何も答えられなかった。
幼い頃の莉奈。
父親を失い、自分の父に見守られていた少女。
自分と出会い、一緒に遊び、何気ない約束を大切にしていた少女。
そして突然連れ去られ、運営側で訓練を受け、人を傷つけることを覚え、何度もエクストラバレットへ送り込まれた莉奈。
これまで目の前にいた女の行動が、少しずつ一本につながっていく。
どうして自分に異常なほど執着するのか。
どうして人を傷つけることへの躊躇が薄いのか。
どうしてゲームの中で、あれほど迷いなく動けるのか。
分かった。
分かったからこそ。
蓮は何を言えばいいのか分からなかった。
自分は忘れていた。
莉奈が何年も支えにしていた約束を。
それを思えば、簡単に否定することもできない。
「……莉奈」
ようやく名前を呼んだ。
「なに?」
莉奈はいつものように返事をした。
「俺は――」
何を言うべきなのか。
謝るのか。
過去を忘れていたことを、もう一度謝るのか。
それとも。
これからどうするのかを話すべきなのか。
蓮が言葉を探していると、莉奈は不意に立ち上がった。
床へ置いていた日本刀を手に取る。
あまりにも自然な動作だった。
「じゃ、私行くね」
蓮は一瞬、意味が分からなかった。
「……行く?」
「うん」
莉奈は刀を確かめると、施設の出口へ身体を向けた。
「どこに?」
莉奈が振り返る。
まるで行き先を聞かれるとは思っていなかったような顔だった。
「Aのところ」
蓮の表情が止まった。
A。
その一文字だけで。
誰を指しているのか分かった。
この島で最初に出会った少女。
混乱して逃げ出した時に落とした端末。
そこに表示されていた文字を、蓮は見ている。
A。
七瀬詩織。
「……詩織のところか?」
「うん」
莉奈は簡単に頷いた。
「待て」
蓮の声が低くなる。
「何をしに行く」
莉奈は不思議そうに蓮を見た。
「詩織を殺す」
あまりにも普通の声だった。
怒りもない。
憎しみもない。
だからこそ。
蓮は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……は?」
「詩織を殺して、Aを持ってくる」
莉奈は同じ調子で続けた。
「それを蓮が壊せば終わりでしょ?」
「ま、待て!」
蓮は反射的に立ち上がろうとした。
「っ……!」
背中から脇腹にかけて激しい痛みが走る。
身体が傾き、壁へ手をついた。
莉奈がすぐに近づく。
「ほら。まだ動いちゃ駄目だよ」
「そんなことより……!」
蓮は莉奈の手を振り払った。
「今、何て言った」
「Aを取りに行くって」
「その前だ!」
莉奈は少し考える。
「詩織を殺す?」
「何でそうなるんだ!」
蓮の声が施設内へ響いた。
莉奈は驚いた様子もない。
「何でって……」
むしろ、蓮が怒っている理由が分からないようだった。
「その方が確実だから」
「確実って……」
「Aは詩織が持ってるんでしょ?」
「そうだ」
「だったら、詩織を殺してAを持ってくればいい」
莉奈の中では。
それで話が終わっていた。
「違う!」
蓮は声を荒らげた。
「俺の条件はAの端末を破壊することだ!」
「うん」
「詩織を殺せなんて書いてない!」
「でも、端末を渡してくれなかったら?」
「話せばいいだろ!」
「断られたら?」
「だからって殺していいわけないだろ!」
莉奈は黙った。
蓮の荒い呼吸だけが聞こえる。
痛みのせいだけではない。
目の前にいる莉奈が何を考えているのか。
理解できそうで。
理解できない。
「……莉奈」
蓮は声を落とした。
「詩織は敵じゃない」
「私の敵じゃないよ」
「だったら――」
「でも蓮が助かるために必要なんでしょ?」
蓮の言葉が止まる。
莉奈は本当に分からないようだった。
「蓮の条件はAとEを壊すこと」
指を一本立てる。
「Eは壊した」
もう一本。
「残ってるのはA」
その指をゆっくり閉じる。
「だったらAを壊せば、蓮は助かる」
「それは……」
「簡単でしょ?」
簡単。
その言葉に、蓮の表情が歪んだ。
「簡単じゃない」
「どうして?」
「詩織にも条件がある」
莉奈は黙って聞いている。
「俺は詩織の条件を知らない。Aが必要になるかもしれない。端末を壊したら、あいつが首輪を外せなくなる可能性だってある」
「それが?」
蓮は言葉を失った。
「……それがって」
「蓮は助かるんでしょ?」
「詩織が助からないかもしれないって言ってるんだ!」
「うん」
「うんじゃない!」
蓮が声を荒らげても。
莉奈の表情はほとんど変わらなかった。
「詩織が助からなくても、蓮は助かる」
「……」
「だったらいいよ」
蓮の背筋に寒気が走った。
目の前にいるのは。
幼い頃、自分と遊んでいた少女だ。
転んで泣いていた。
父親を失って。
それでも笑っていた。
同じ人間のはずだった。
「よくない」
「どうして?」
「人が死ぬんだぞ」
「今までいっぱい死んだよ」
淡々と返された。
「そういう意味じゃない!」
「じゃあ、どういう意味?」
莉奈は本当に分かっていない。
いや。
違う。
分かっていないのではない。
莉奈の中では。
優先順位が完全に決まっている。
「……俺が助かれば」
蓮はゆっくり言った。
「他の奴はどうなってもいいっていうのか」
莉奈は答えた。
「うん」
一秒も迷わなかった。
蓮は何も言えなくなった。
「蓮が生きてくれるなら、それでいいよ」
莉奈は穏やかに笑った。
「詩織でも、佳子でも、他の人でも」
「……莉奈」
「誰でも関係ない」
その言葉に。
蓮の胸の奥で何かが冷たくなった。
莉奈は刀を持ったまま、蓮へ一歩近づく。
「だって私」
その声だけは。
幼い頃の話をしていた時と同じくらい優しかった。
「蓮に生きてもらいたいから」
「そのために人を殺すのか」
「必要なら」
「俺はそんなこと望んでない!」
蓮の声が響いた。
莉奈の表情が止まった。
初めて。
わずかな変化が現れた。
「……何で?」
「何でって……」
「蓮は死にたいの?」
「違う」
「だったら生きればいいじゃん」
「誰かを犠牲にしてまで助かりたいなんて言ってない!」
「でもこのゲームはそういうゲームだよ」
「だからって!」
「蓮」
莉奈の声は静かだった。
「優しくしてたら死ぬよ」
その一言だけ。
妙に重かった。
莉奈が何度も参加してきたエクストラバレット。
そこで何を見てきたのか。
蓮には全ては分からない。
「私、見てきたから」
莉奈は言う。
「助けようとして死んだ人も」
「……」
「信じて裏切られた人も」
「……」
「自分より他の人を優先して、結局どっちも死んだ人も」
何度も。
何度も。
莉奈はそれを見てきた。
「だから蓮には、そうなってほしくない」
「だから詩織を殺すのか」
「うん」
「それは違う」
「違わないよ」
「違う!」
蓮は痛みを堪えながら壁から身体を離した。
足元がふらつく。
それでも立った。
「行かせない」
莉奈が目を瞬く。
「蓮?」
「詩織を殺しに行くっていうなら、行かせない」
「その身体で?」
「関係ない」
一歩。
前へ出る。
身体が悲鳴を上げる。
だが止まらない。
「俺は……自分が助かるために詩織を殺させたりしない」
莉奈は蓮を見つめていた。
「じゃあ、どうするの?」
「話す」
「詩織と?」
「ああ」
「Aを壊させてくれって?」
「まず詩織の条件を聞く」
蓮は答える。
「その上で方法を考える」
「時間なくなっちゃうよ」
「それでもだ」
「断られたら?」
蓮は一瞬黙った。
「その時はその時だ」
「蓮が死ぬかもしれないよ?」
「だからって殺して奪う理由にはならない」
莉奈の表情から。
少しずつ笑みが消えていく。
怒りではない。
悲しみでもない。
理解できない。
そんな顔だった。
「……変だよ」
「何が」
「蓮」
莉奈は小さく言った。
「昔からそうだったけど」
「……」
「何で自分より他の人を大事にするの?」
蓮は答えなかった。
「私なら蓮を選ぶよ」
莉奈は自分の胸へ手を置く。
「何人いても」
「……」
「全員と蓮だったら、蓮を選ぶ」
迷いなどなかった。
「だから蓮も、自分を選んでよ」
「そういう話じゃない」
「私にはそういう話だよ」
二人の視線がぶつかった。
同じ場所にいる。
同じゲームへ参加している。
同じように生き残ろうとしている。
それなのに。
二人が見ているものは、あまりにも違っていた。
やがて。
莉奈が小さく息を吐いた。
「分かった」
蓮はわずかに表情を緩めた。
「……分かってくれたか」
「うん」
莉奈が微笑む。
「殺さなければいいんだね」
「そうだ」
「じゃあ、最初は殺さない」
蓮の表情が再び固まった。
「……最初は?」
「Aを渡してって言う」
莉奈は笑っている。
「詩織が渡してくれたら、それでいいよ」
「待て」
「蓮が自分で壊せばいい」
「莉奈」
「でも」
莉奈は日本刀の柄へ手を添えた。
「渡してくれなかったら――」
「やめろ」
「蓮が死んじゃうかもしれないから」
「莉奈!」
蓮の声が強くなる。
莉奈は少しだけ首を傾けた。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか。
蓮には分からなかった。
「私が何とかするから」
「何とかするって、殺すってことだろ!」
莉奈は答えなかった。
それが答えだった。
「行くな」
蓮が言う。
「今はここにいろ」
「でも――」
「俺も行く」
莉奈の表情が変わる。
「その身体で?」
「少し休んだら動く」
「駄目だよ」
「お前一人を行かせる方が駄目だ」
「私なら大丈夫」
「お前の心配をしてるんじゃない!」
言ってから。
蓮は少しだけ後悔した。
莉奈の表情が固まったからだ。
だが。
今は言葉を選んでいる場合ではない。
「詩織を殺させないためだ」
「……」
「俺も一緒に行く」
莉奈はしばらく黙っていた。
そして。
「やっぱり」
小さく呟く。
「何だ」
「詩織のこと、大事なんだね」
蓮は眉を寄せた。
「仲間だ」
「仲間……」
莉奈はその言葉を繰り返した。
何かを確かめるように。
「佳子も?」
「当たり前だろ」
「葵も?」
「そうだ」
莉奈は俯いた。
ほんの一瞬。
日本刀の柄を握る指に、力が入った。
蓮はそれに気づかなかった。
「……そっか」
莉奈が顔を上げる。
もう笑っていた。
「じゃあ、少し待ってあげる」
「本当だな?」
「うん」
「勝手に行くなよ」
「分かった」
素直な返事だった。
それでも蓮は、完全には安心できなかった。
莉奈が自分のためなら何をするのか。
今。
はっきり分かってしまったからだ。
蓮は壁へ身体を預け直した。
体力を戻さなければならない。
詩織と葵のところへ戻る。
相馬がどうなったのかも確認する必要がある。
佳子たちも。
そして。
A。
自分が生き残るために必要な、最後の端末。
それを持っているのが。
七瀬詩織。
蓮は自分の端末へ目を落とした。
《INDIVIDUAL CLEAR CONDITION》
《AとEのPLAYER TERMINALを破壊してください》
《進行状況:1 / 2》
Eは終わった。
残るのはA。
だが。
蓮にとって。
そこに表示されているAは、ただのアルファベットではなかった。
島へ来て最初に出会った少女。
何度も一緒に行動してきた仲間。
詩織だった。
そして蓮はまだ知らない。
その詩織の端末にも。
神谷蓮という人間を避けて通ることのできない条件が表示されていることを。
外では。
少しずつ。
雨が弱まり始めていた。




