第68話 残酷な過去
「いっぱい、やらされたよ」
莉奈はそう言った。
G-02の外では、まだ雨が降っている。
蓮は何も言わなかった。
軽々しく続きを促していい話ではないような気がした。
だが、莉奈は自分から話し始めた。
「最初はね、私も普通だったんだよ」
その言葉に、蓮の胸がわずかに痛んだ。
「怖かったら泣いたし、嫌なことは嫌って言った。帰りたいって何回も言った」
莉奈は自分の手を見つめる。
「蓮に会いたいって、ずっと言ってた」
「……」
「でも、誰も聞いてくれなかった」
莉奈の指がゆっくり閉じられる。
「だから、そのうち分かったの」
顔を上げる。
「私が何を言っても、あの人たちには関係ないんだって」
*
最初に教えられたのは、従うことだった。
名前を呼ばれたら返事をする。
指示された場所へ行く。
止まれと言われれば止まる。
座れと言われれば座る。
質問されたこと以外は喋らない。
そして。
命令には逆らわない。
「嫌」
幼い莉奈は、何度もその言葉を口にした。
「やりたくない」
返ってくる答えはいつも同じだった。
「やりなさい」
「嫌!」
「命令です」
「帰る!」
「帰れません」
「蓮のところに帰る!」
その名前を口にしても、何も変わらなかった。
最初の頃、莉奈は何度も逃げようとした。
扉が開いた隙に走ったこともある。
廊下を必死に駆けた。
出口がどこにあるのかさえ分からないまま、それでも走った。
捕まれば連れ戻された。
そして、罰を受けた。
何度繰り返しても。
結果は同じだった。
泣いても終わらない。
謝っても、決められたことが終わるまでは許されない。
身体に痛みを与えられることもあった。
眠らせてもらえないこともあった。
暗い部屋へ長い時間、一人で入れられることもあった。
「もう逃げませんか?」
そう尋ねられる。
莉奈は泣きながら首を横へ振る。
「逃げる」
だから。
また罰を受ける。
それでも最初は、何度も同じ答えを返した。
「帰る」
「どこへ?」
「蓮のところ」
「そこにあなたの居場所はありません」
「ある!」
「ありません」
「蓮が言ったもん!」
莉奈は泣きながら叫んだ。
「ずっと一緒だって言ったもん!」
相手は何も答えなかった。
その約束に価値を感じているのは。
この場所では莉奈だけだった。
*
やがて、訓練が始まった。
走る。
登る。
避ける。
隠れる。
相手の動きを見る。
危険を察知する。
倒れても立つ。
痛くても動く。
莉奈は何度も失敗した。
そのたびにやり直させられた。
「できない」
「できます」
「無理」
「やりなさい」
「嫌」
「やりなさい」
同じ言葉が何度も繰り返された。
最初は木製の訓練具だった。
それから、刃のない武器。
さらに時間が経つと、実際に人を傷つけることのできるものへ変わっていった。
銃器の扱いも教えられた。
刃物も。
そして刀も。
莉奈が後に日本刀を持つようになったのは、偶然ではなかった。
何度も握らされた武器の中で。
刀だけは、いつしか自分の手の延長のように扱えるようになっていった。
けれど。
上手くなりたかったわけではない。
褒められたかったわけでもない。
「もう一度」
「嫌」
「もう一度」
「疲れた」
「立ちなさい」
「帰りたい」
「立ちなさい」
莉奈は泣きながら立った。
従えば早く終わる。
逆らえば長くなる。
子供でも。
それくらいは、やがて理解する。
そしてある日。
莉奈は命令された時に「嫌」と言わなくなった。
*
次に教えられたのは。
人を傷つけることだった。
最初は訓練だった。
相手も訓練を受けた人間。
決められたところで止めればいい。
だが、次第に要求は変わっていった。
もっと強く。
もっと迷わず。
相手が倒れても油断するな。
自分が生き残ることを優先しろ。
躊躇するな。
「できません」
久しぶりに、莉奈は命令を拒否した。
目の前に人がいた。
知らない人だった。
その人も怯えていた。
莉奈と同じように。
「やりなさい」
「嫌です」
「これは命令です」
「……嫌」
手が震えていた。
武器を握っている。
でも動けない。
「この人、何もしてない」
返事はない。
「私、この人知らない」
「関係ありません」
「だったら、やらなくていいでしょ」
「やりなさい」
莉奈は首を横へ振った。
できなかった。
その日は。
できなかった。
だから。
罰を受けた。
次も。
同じ命令が出た。
莉奈はまた拒否した。
また罰を受けた。
何度も。
何度も。
そして。
いつからだったのか。
莉奈自身にも、もう正確には思い出せない。
ある日。
命令された。
莉奈は武器を持った。
目の前の相手を見た。
怖かった。
吐きそうだった。
逃げたかった。
それでも。
動いた。
終わったあと。
莉奈はその場で吐いた。
手が震えて止まらなかった。
「……帰りたい」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「蓮……」
目を閉じる。
すると。
夕焼けが見えた。
本当はそこにない景色。
隣には、幼い蓮がいる。
――ずっと一緒だよ。
「……うん」
莉奈は一人で答えた。
「約束だもんね」
その夜。
莉奈はほとんど眠れなかった。
次の日も。
人を傷つける訓練は続いた。
*
一度できてしまえば。
次からは「できない」という言葉を許してもらえなくなった。
莉奈は少しずつ覚えた。
怖がっている時間が長いほど、自分が苦しくなる。
迷えば怒られる。
逆らえば罰を受ける。
命令された通りにすれば終わる。
だから。
考えない方が楽だった。
言われたことをする。
終わったら部屋へ戻る。
そして。
蓮のことを思い出す。
それだけ。
「蓮は今、何してるかな」
一人きりの部屋。
返事はない。
「私のこと、覚えてるかな」
天井を見つめる。
「覚えてるよね」
自分で答える。
「約束したもんね」
それだけは。
誰にも奪わせなかった。
*
時間が経つにつれて。
莉奈が連れていかれる場所は増えていった。
訓練施設だけではない。
豪華な部屋へ連れていかれることもあった。
そこには、普段自分へ命令する人間とは違う人たちがいた。
高そうな服。
高そうな時計。
笑いながら食事をする大人たち。
莉奈は決められた服を着せられた。
「笑って」
そう言われる。
笑いたくなくても。
「……はい」
笑う。
質問される。
「怖くないの?」
答え方は教えられていた。
「大丈夫です」
本当は怖い。
「訓練は楽しい?」
「はい」
楽しいわけがない。
「次も頑張れる?」
「はい」
逃げたい。
帰りたい。
それでも。
笑った。
ある男が莉奈を見ながら言った。
「この子が例の?」
近くの人間が答える。
「そうです」
「ずいぶん仕上がったな」
何の話をしているのか。
当時の莉奈には分からなかった。
別の人間が笑う。
「実戦で見てみたいね」
莉奈は黙っていた。
「期待してるよ」
頭へ手を置かれた。
莉奈は反射的に身体を強張らせた。
「笑って」
後ろから小さな声が飛ぶ。
莉奈は笑った。
「ありがとうございます」
そう言うよう教えられていた。
その場にいる大人たちは満足そうだった。
莉奈は。
一秒でも早く部屋へ帰りたかった。
接待と呼ばれていた。
食事の席に座る。
愛想よくする。
聞かれたことへ答える。
時には訓練の成果を見せる。
まるで。
自分が人間ではなく、出来上がった商品であることを確認されているようだった。
部屋へ戻ると。
莉奈は決められた服を脱いだ。
ベッドへ座る。
笑わなくていい。
返事もしなくていい。
そこで初めて。
顔から表情が消えた。
「……蓮」
名前を呼ぶ。
「会いたい」
それだけは。
何年経っても変わらなかった。
*
そして。
ある日。
莉奈の前へ首輪が置かれた。
それを見た瞬間。
今まで受けてきた訓練の意味が、初めて一つにつながった。
「……これ」
見たことがあった。
資料で。
映像で。
何度も。
エクストラバレット。
父親が帰ってこなかった場所。
そして。
蓮の父親が生きて帰った場所。
「つけてください」
莉奈は首輪を見る。
「嫌です」
久しぶりだった。
その言葉を口にしたのは。
「つけてください」
「これ……爆発するんですよね」
「条件次第では」
「死ぬかもしれない?」
「はい」
莉奈は黙った。
「嫌です」
「参加してください」
「嫌」
「命令です」
「嫌!」
昔の莉奈が。
ほんの一瞬だけ戻った。
「お父さんが死んだゲームでしょ!」
声を荒らげる。
「何で私まで行かなきゃいけないの!」
返事はない。
「私、もう言うこと聞いてるじゃん!」
訓練もした。
人を傷つけることも覚えた。
笑いたくない時に笑うことも覚えた。
何を命令されても。
従うようになった。
「何で!」
涙が溢れる。
「まだ足りないの!?」
答えは冷たかった。
「あなたには役割があります」
「そんなの知らない!」
「ゲームを進行させるための役割です」
「嫌!」
「参加者として入り、必要な場合には内部から進行を促してください」
「嫌だ!」
「それがあなたの役目です」
「私の役目じゃない!」
莉奈は首輪を払い落とした。
金属音が床へ響く。
すぐに押さえられた。
「離して!」
暴れる。
昔のように。
「離してよ!」
逃げようとする。
だが。
もう知っていた。
逃げられないことを。
どれだけ叫んでも。
どれだけ拒否しても。
最後には従わされることを。
そして。
首輪が。
莉奈の首へ装着された。
小さな電子音。
莉奈は震える手で首元へ触れた。
冷たい。
重い。
父親も。
同じものをつけていたのだろうか。
「……お父さん」
初めて。
父親の死が、今までとは違う現実として迫ってきた。
自分も。
同じ場所へ行く。
*
莉奈が初めてゲームマスターとして参加したエクストラバレット。
そこには当然。
蓮はいなかった。
知らない人ばかりだった。
泣いている人。
怒鳴っている人。
端末を何度も確認している人。
誰かと協力しようとする人。
最初から他人を疑っている人。
昔の自分なら。
きっと彼らと同じだった。
怖かった。
逃げたかった。
誰かに助けてほしかった。
でも。
莉奈は違った。
訓練を受けている。
武器の扱いも知っている。
ゲームがどういうものなのかも知っている。
何も知らずに放り込まれた参加者たちより。
ずっと多くを知っていた。
だからこそ。
自分が何のためにここへ入れられたのかも分かっていた。
ゲームが進まなくなったら。
動かす。
参加者が停滞したら。
きっかけを作る。
必要なら。
誰かを追い詰める。
それが。
ゲームマスター。
最初のゲームで。
莉奈は何度も迷った。
助けを求められた。
「お願い!」
知らない女が莉奈の腕を掴んだ。
「一緒に来て!」
怯えている。
昔の自分と同じ目だった。
莉奈は、その手を見る。
「お願い……一人じゃ無理……」
一緒に逃げてあげたい。
そう思った。
けれど。
莉奈には別の役割がある。
「……ごめんなさい」
手を離した。
その後。
その参加者がどうなったのか。
莉奈は知っている。
忘れたこともない。
でも。
次のゲームでは。
最初の時ほど迷わなかった。
さらに次は。
もっと早く判断できた。
人が死んでも。
動けるようになった。
血を見ても。
吐かなくなった。
誰かに銃を向けられても。
冷静に距離を測れるようになった。
刀を握れば。
身体が勝手に動いた。
ゲームが終わる。
生きて帰る。
また訓練。
また命令。
時には接待。
そして。
またゲーム。
何度も。
何度も。
繰り返した。
*
「そのうちね」
G-02で。
莉奈が自分の手を見つめた。
「人が死んでも、あんまり何も感じなくなった」
蓮は何も言えなかった。
「最初は怖かったんだよ」
莉奈は笑う。
「本当に」
「……」
「血を見るのも嫌だったし、人を傷つけるのも嫌だった」
その言葉と。
今の莉奈が結びつかない。
日本刀を持って。
白石を殺した。
佳子を追った。
戦闘になれば、一瞬で相手へ踏み込める。
蓮が見てきた莉奈は。
最初からそういう人間だったわけではない。
そうならなければ。
生きてこられなかった。
「何回、参加したんだ」
蓮が尋ねる。
莉奈は少し考えた。
「……いっぱい」
「覚えてないのか?」
「数えなくなった」
蓮の表情が歪む。
「そんなに……」
「でもね」
莉奈は顔を上げた。
「一つだけ、ずっと変わらなかったよ」
蓮には。
聞く前から分かった。
「蓮のこと」
やはり。
その名前だった。
「嫌なことをやらされた日も」
莉奈は言う。
「誰かを傷つけた日も」
「……」
「ゲームの中で、人が死ぬところを見た日も」
莉奈の声は穏やかだった。
「蓮のことを思い出した」
夕焼け。
公園。
自分を背負って歩く、小さな男の子。
そして。
――ずっと一緒だよ。
「それだけ考えてたら、耐えられた」
「莉奈……」
「いつか会えるって思ってた」
莉奈は微笑む。
「蓮は私を覚えてるって」
蓮の胸が痛んだ。
自分は。
忘れていた。
莉奈が何年も。
何度も。
その記憶だけに縋っていた間。
自分は彼女のことを覚えてすらいなかった。
「ごめん」
蓮が言った。
莉奈は首を傾げる。
「何が?」
「俺……お前のこと」
「忘れてたこと?」
蓮は頷いた。
「いいよ」
あまりにも簡単だった。
「よくないだろ」
「いいの」
「でも――」
「だって」
莉奈は笑った。
「会えたから」
その笑顔を見て。
蓮は言葉を失った。
「ずっと会いたかった」
「……」
「何年も」
莉奈の声が少しだけ弾む。
「どこにいるのかなって考えてた」
そして。
自分の胸へ手を置いた。
「辛い時は、蓮なら迎えに来てくれるって思ってた」
迎えには行かなかった。
行けるはずもなかった。
蓮は莉奈がそんな場所にいることさえ知らなかった。
けれど。
莉奈にとっては関係なかった。
「だからね」
莉奈は蓮を見つめる。
「今回の参加者を見た時、本当にびっくりした」
蓮の背筋に。
わずかな寒気が走った。
「……俺がいたから?」
「うん」
即答だった。
「最初、信じられなかった」
莉奈は嬉しそうに笑う。
「名前を見て」
蓮が眉を寄せる。
観客に表示される参加者情報。
名前。
年齢。
職業。
顔写真。
だがゲームマスターとして入る莉奈も、少なくとも参加する人間の顔を見る機会はあったのだろう。
「顔を見て」
莉奈は続ける。
「すぐ分かった」
「……」
「大人になってたけど」
笑みが深くなる。
「蓮だった」
何年も。
何年も。
待っていた人。
自分が人を傷つけても。
誰かを殺しても。
ゲームを進めても。
その記憶だけは手放さなかった。
その本人が。
自分と同じエクストラバレットへ入ってきた。
「運命だと思った」
莉奈が言った。
蓮は何も答えられない。
「だって、そうでしょ?」
莉奈は幸せそうだった。
「こんなにたくさん人がいるのに」
「……」
「こんなに何回もゲームがあったのに」
「莉奈」
「やっと会えた」
その瞳に。
幼い頃の莉奈と。
今の莉奈が重なる。
「だから今度こそ」
莉奈は笑った。
「ずっと一緒にいられるって思った」
蓮は。
その言葉に返事をすることができなかった。
幼い日の約束。
蓮にとっては。
忘れてしまうほど小さなものだった。
けれど。
莉奈にとっては違った。
痛みに耐える理由になった。
命令へ従う理由になった。
ゲームから生きて帰る理由になった。
何年もの間。
莉奈の中で。
その約束だけが生き続けた。
そして。
生き続けた時間が長すぎた。
純粋だったはずの言葉は。
いつの間にか。
別のものへ変わり始めていた。
莉奈自身さえ。
気づかないほどゆっくりと。
「蓮がいれば」
莉奈は静かに言った。
「私、他には何もいらないよ」
外では。
雨が降り続いていた。




