第67話 裏切り
「あの日から、全部変わったの」
G-02に響く雨音を聞きながら、莉奈はそう言った。
さっきまで、幼い頃の蓮との思い出を話していた時には笑っていた。
一緒に遊んだこと。
転んだ自分を蓮がおぶってくれたこと。
夕焼けの下で交わした、何気ない約束。
――ずっと一緒だよ。
その一つ一つを話す莉奈は、本当に幸せそうだった。
けれど今。
その表情は消えている。
「何があったんだ」
蓮が尋ねる。
莉奈はすぐには答えなかった。
膝の上で重ねた指を見つめながら、しばらく黙っている。
やがて。
「私にも分からないんだ」
「分からない?」
「うん」
莉奈は静かに頷いた。
「今でも、本当の理由は知らない」
そして。
莉奈は、自分の記憶に残る最後の日を語り始めた。
*
その日も。
最初は、いつもと変わらない一日だった。
莉奈は朝から機嫌がよかった。
今日は蓮に会える。
それだけで、朝から何度も時計を見ていた。
何をして遊ぼう。
前に途中までしかできなかった遊びを続けようか。
それとも別のことをしようか。
蓮はまた面倒くさそうな顔をするかもしれない。
でも結局は付き合ってくれる。
莉奈はそう思っていた。
そして何より。
前にした約束が嬉しかった。
――ずっと一緒だよ。
子供同士の、何気ない言葉。
それでも莉奈にとっては違った。
父親を失ってから。
自分の周りから何かがなくなることが怖くなっていた。
だから、蓮が「ずっと」と言ってくれたことが嬉しかった。
もういなくならない。
蓮だけは。
そんなふうに信じていた。
約束の時間が近づく。
莉奈は外へ出た。
いつもなら。
しばらく待っていると、遠くから見慣れた二人が歩いてくる。
蓮。
そして、蓮の父親。
けれど。
その日は来なかった。
「……遅い」
最初は、それだけだった。
少しくらい遅れることはある。
莉奈は待った。
十分。
二十分。
三十分。
時間が過ぎていく。
「……蓮」
まだ来ない。
空を見上げる。
今日は雨も降っていない。
何かあったのだろうか。
「おじさん、忘れたのかな」
そんなはずはない。
蓮の父親は、約束した日にはほとんど必ず来た。
来られない時も、何らかの形で知らせてくれていた。
莉奈はそれでも待った。
帰ろうとは思わなかった。
蓮が来るかもしれないから。
自分が帰ったあとに来たら、会えなくなる。
だから。
待った。
やがて日が傾き始めた。
「……遅いよ」
さっきより小さな声だった。
それでも。
莉奈はまだ、蓮が来ると思っていた。
*
結局。
その日、蓮は来なかった。
次の日も。
その次の日も。
莉奈は待った。
だが、蓮の父親も姿を見せなくなった。
「どうして……」
理由は誰も教えてくれなかった。
蓮の家で何かあったのか。
引っ越したのか。
病気になったのか。
自分が何か悪いことをしたのか。
分からない。
最後に会った時。
喧嘩をしたわけでもない。
蓮は普通だった。
蓮の父親も普通だった。
それなのに。
突然。
二人ともいなくなった。
父親がいなくなった時と同じだった。
昨日までいた人が。
次の日には、いなくなる。
莉奈は何度も思った。
――まただ。
また、自分だけ置いていかれた。
それでも。
蓮は違うと思いたかった。
だって。
約束したから。
ずっと一緒だと。
絶対だと。
蓮は言ってくれた。
だから。
何か理由がある。
きっとまた来る。
莉奈はそう信じた。
*
だが。
蓮が戻ってくるより先に。
別の人間が現れた。
その日の夕方。
莉奈は一人で歩いていた。
以前、蓮と遊んだ場所の近くだった。
二人で走った道。
転んだ場所。
並んで座ったベンチ。
そこへ行けば。
もしかすると蓮がいるのではないか。
子供らしい、根拠のない期待だった。
当然。
誰もいなかった。
莉奈はベンチへ座った。
「……嘘つき」
小さく呟く。
「ずっと一緒って言ったのに」
足元へ視線を落とす。
泣きたくなかった。
蓮が来た時。
泣いていたら恥ずかしい。
だから我慢した。
その時だった。
「莉奈ちゃんだね」
知らない声がした。
莉奈は顔を上げた。
少し離れたところに、大人が立っていた。
一人ではない。
その後ろにもいる。
知らない人たちだった。
「……誰?」
答えはない。
代わりに、一人が近づいてくる。
莉奈はベンチから立ち上がった。
「誰ですか」
「迎えに来たんだ」
「誰を?」
「君を」
莉奈の表情が強張った。
「何で?」
「行けば分かるよ」
「嫌」
莉奈はすぐに答えた。
「蓮を待ってるから」
その名前を聞いた瞬間。
大人たちの空気が、ほんの少し変わった。
幼い莉奈にも、それは分かった。
「……蓮を知ってるの?」
返事はない。
「蓮、どこ?」
一歩近づく。
「おじさんもどこ?」
それでも答えない。
「ねえ」
莉奈の声が大きくなる。
「蓮、どこにいるの?」
一人の男が言った。
「もう会わない方がいい」
莉奈の動きが止まった。
「……何で?」
「君には関係のないことだ」
「関係あるよ!」
莉奈は叫んだ。
「蓮は友達だもん!」
返事はない。
「ずっと一緒って約束したもん!」
それでも。
大人たちの表情は変わらなかった。
その冷たさが怖かった。
莉奈は一歩後ろへ下がる。
「……行かない」
誰も答えない。
「私、行かないから」
さらに下がる。
「蓮が来るまで待ってる」
逃げた方がいい。
子供ながらに、そう感じた。
莉奈は踵を返した。
走り出す。
だが。
子供の足で逃げ切れるはずもなかった。
すぐに腕を掴まれた。
「離して!」
莉奈が暴れる。
「離してよ!」
必死に腕を振る。
「蓮!」
叫んだ。
誰も来ない。
「蓮!」
もう一度。
「助けて!」
返事はなかった。
「蓮!」
その名前だけを、何度も呼んだ。
約束した。
ずっと一緒だと。
だから。
呼べば来てくれると思った。
「蓮――!」
声が遠くまで響く。
それでも。
神谷蓮は現れなかった。
*
同じ頃。
蓮の父親は、一人で座っていた。
目の前の机へ両肘をつき、組んだ手へ額を押し当てている。
その表情は、幼い蓮には見せたことのないものだった。
机の上には何もない。
けれど。
男の頭の中には、何度消そうとしても消えない言葉が残っていた。
莉奈。
そして。
蓮。
二人の子供。
どちらも守りたかった。
一人は、自分の息子。
もう一人は。
死んだ男から託された娘。
――娘を頼む。
あの島で聞いた最後の言葉。
何年経っても忘れたことはなかった。
だから見守った。
遠くから。
そして、少しずつ近くから。
笑うようになった莉奈を見た。
蓮と遊ぶ姿も見た。
あの男が生きていれば。
きっと同じように笑っただろうと思った。
だからこそ。
男は今。
顔を上げることができなかった。
「……すまない」
誰もいない部屋で。
その言葉だけが落ちた。
「すまない……」
誰に謝っているのか。
莉奈か。
死んだ父親か。
それとも。
自分自身なのか。
答える者はいなかった。
ただ一つだけ。
男が何かを選んだことだけは確かだった。
何を迫られたのか。
何を守るためだったのか。
そして、その選択に何が必要だったのか。
それを。
莉奈は知らない。
*
「目を開けて」
声が聞こえた。
莉奈はゆっくり目を開いた。
知らない天井だった。
白い。
何もない。
身体を起こす。
「……ここ、どこ?」
返事はない。
小さな部屋だった。
窓はない。
扉が一つ。
莉奈は立ち上がると、その扉へ走った。
開かない。
「開けて!」
叩く。
「ここどこ!」
返事はない。
「帰して!」
何度も叩く。
「蓮のところに帰して!」
やがて。
扉の向こうから声がした。
「神谷蓮のことは忘れなさい」
莉奈の動きが止まった。
「……嫌」
「もう会うことはない」
「嘘」
「忘れなさい」
「嫌!」
莉奈は扉を叩いた。
「蓮は来るもん!」
返事はない。
「約束したもん!」
拳が痛くなる。
それでも叩いた。
「ずっと一緒だって言ったもん!」
涙が出た。
今度は我慢できなかった。
「蓮は嘘つかないもん!」
誰も答えない。
「迎えに来てくれるもん……」
声が小さくなる。
「絶対……来てくれるもん……」
莉奈は扉の前へ座り込んだ。
膝を抱える。
そして。
何度も繰り返した。
「ずっと一緒……」
自分へ言い聞かせるように。
「ずっと一緒だから……」
あの日。
蓮が何気なく口にした言葉だけが。
莉奈の手元に残った。
*
G-02。
「……それから?」
蓮の声は掠れていた。
莉奈は少しだけ笑った。
「それから、蓮には会えなくなった」
「父さんは?」
「会ってないよ」
「一度も?」
「うん」
蓮は俯いた。
何があった。
父親はなぜ莉奈から離れた。
なぜ莉奈は運営側へ連れていかれた。
そして。
なぜ自分には何も話さなかった。
疑問ばかりが増えていく。
「お前は……」
蓮は莉奈を見る。
「父さんを恨んでるのか?」
莉奈は目を丸くした。
「どうして?」
「だって……」
「恨んでないよ」
答えは早かった。
「何があったのか知らないもん」
「でも父さんは突然いなくなったんだろ」
「うん」
「それで、お前は……」
蓮は言葉を詰まらせる。
運営側へ連れていかれた。
その結果が。
今、目の前にいる莉奈だ。
ゲームマスター。
日本刀を持ち。
人を殺すことさえできる。
それでも莉奈は、蓮の父親を恨んでいないと言う。
「おじさんは優しかったよ」
莉奈が言った。
「ずっと私を見ててくれた」
「……」
「だから、きっと何かあったんだと思ってる」
莉奈はそれ以上を知らない。
父親がどんな選択を迫られたのか。
何を失うと脅されたのか。
なぜ莉奈を守り切れなかったのか。
何一つ。
知らないまま。
ただ。
自分に優しくしてくれた記憶だけを信じていた。
「それよりね」
莉奈の声が少し変わった。
「連れていかれてからの方が……嫌だった」
蓮の表情が動く。
「何をされた」
莉奈はすぐには答えなかった。
日本刀の柄へ触れる。
その動作は自然だった。
あまりにも自然で。
蓮は逆に気づいた。
今の莉奈がこれほど武器を扱える理由。
危険な状況でも迷わない理由。
人が死んでも、普通の参加者ほど動揺しない理由。
それらは。
生まれつきではない。
「莉奈」
蓮が呼ぶ。
莉奈は顔を上げた。
「何をされたんだ」
莉奈は少し考えたあと。
笑った。
だが。
それは幼い蓮との思い出を話していた時の笑顔とは、まるで違っていた。
「いっぱい」
「……」
「嫌なこと」
莉奈は自分の手を見る。
「いっぱい、やらされたよ」
その声だけは。
今までよりずっと静かだった。
「最初は泣いたし、逃げようともした」
指先が、日本刀の柄をゆっくり撫でる。
「でもね」
莉奈は蓮を見る。
「逃げられなかった」
雨が。
G-02の屋根を強く叩いた。
「だから覚えたの」
戦うことも。
生き残ることも。
人を傷つけることも。
そして。
エクストラバレットの中で生きる方法も。
莉奈がゲームマスターになるまでには。
まだ。
長い時間が残されていた。




