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エクストラバレット  作者: ほむら
1章 エクストラバレット

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第66話 小さな思い出

莉奈が神谷蓮と初めて会った日のことを、今でも覚えている。


空がよく晴れた日だった。


今いる島のような湿った風も、血の匂いも、銃声もない。


首には何もついていない。


誰かの条件を気にする必要もなければ、目の前の人間が自分を殺すかもしれないと疑う必要もなかった。


まだ莉奈が、エクストラバレットという名前さえ知らなかった頃。


その日、莉奈は一人でベンチに座っていた。


足をぶらぶらと揺らしながら、地面にできた自分の影を眺めている。


少し離れた場所から、男が歩いてきた。


何度か会ったことのある人だった。


莉奈は顔を上げる。


「こんにちは」


男――神谷蓮の父親は、少し驚いたあと笑った。


「こんにちは」


最初の頃。


この男は莉奈にとって、ただの知らない大人だった。


いつの間にか近くにいるようになった人。


困った時には助けてくれる。


けれど、どうして自分を気にかけているのかは教えてくれない。


父親の友人なのかと尋ねても、曖昧に笑うだけだった。


莉奈はそんな彼を嫌ってはいなかった。


むしろ。


父親がいなくなってから、自分のことを気にかけてくれる大人がいることが嬉しかった。


けれど、その日はいつもと違った。


男の隣に、もう一人いたからだ。


莉奈とそれほど年の変わらない男の子。


「……誰?」


莉奈が尋ねる。


男の子は少し離れた場所に立ったまま、莉奈を見ていた。


「息子」


蓮の父親が答えた。


「息子?」


「そう」


莉奈はベンチから立ち上がった。


男の子の前まで歩いていく。


じっと顔を見る。


男の子は明らかに困っていた。


「……何」


「名前」


「え?」


「名前、何?」


「蓮」


「れん?」


「うん」


「私は莉奈」


「……うん」


「知ってた?」


「今聞いた」


「そっか」


会話が終わった。


蓮は父親を見る。


助けを求めるような顔だった。


父親は笑いを堪えている。


「仲良くしろよ」


「何で」


蓮が言った。


「何でって……同じくらいの歳だろ」


「だから?」


「遊べばいいだろ」


「別にいい」


蓮はそう言って近くの柵へ歩いていった。


莉奈はその背中を見つめた。


「……嫌われた?」


「いや」


蓮の父親が苦笑する。


「あいつ、あんな感じだから」


「変な子」


「お前も人のこと言えないと思うぞ」


「私は変じゃないよ」


「そうか?」


「うん」


即答したあと。


莉奈は柵のそばにいる蓮を見た。


そして追いかけた。


*


「ねえ」


「……何」


「何してるの?」


「何もしてない」


「じゃあ遊ぼ」


「何するの」


「分かんない」


「分かんないのに誘ったの?」


「うん」


蓮は呆れた顔をした。


莉奈は気にしなかった。


「走る?」


「嫌だ」


「何で?」


「疲れるから」


「じゃあ、かくれんぼ」


「二人で?」


「おじさんも入れればいいよ」


少し離れたところで聞いていた蓮の父親が顔を上げた。


「俺も?」


「うん」


「何で俺まで」


「三人の方が楽しいから」


「俺は休みたいんだけど」


「駄目」


「厳しいな……」


そのやり取りを見て、蓮が少し笑った。


莉奈は見逃さなかった。


「あ」


「何」


「笑った」


「笑ってない」


「笑ったよ」


「笑ってない」


「笑った」


「うるさい」


蓮が顔を背ける。


莉奈は嬉しそうにその横へ並んだ。


最初は、それだけだった。


特別な出来事なんて何もない。


運命的な出会いでもなかった。


蓮にとっては、父親に連れていかれた先で知らない女の子と会った。


おそらく、その程度だった。


けれど莉奈にとっては違った。


父親を失ってから。


どこか空いていた場所へ、少しずつ何かが戻ってくる。


そんな始まりだった。


*


それから、蓮と莉奈は何度か会った。


毎日ではない。


学校が同じだったわけでもない。


家が隣だったわけでもない。


蓮の父親が莉奈の様子を見に行く時。


時々、蓮も一緒についてきた。


最初のうちは、蓮は面倒そうにしていた。


だが何度か会ううちに、それも変わっていった。


「蓮、こっち!」


「待てって」


「遅い!」


「お前が速いんだよ!」


公園を走り回る。


転んで膝を擦りむく。


自動販売機でどちらの飲み物を買うか揉める。


一つしかない菓子を半分に割る。


何でもない時間だった。


大人になれば忘れてしまうような、小さな出来事ばかり。


それでも莉奈は、その一つ一つを覚えていた。


蓮が何を好きだったか。


何を嫌がったか。


どんなことで笑ったか。


自分が転んだ時、蓮がどんな顔をしたか。


「痛い……」


ある日。


莉奈は走っている途中で転んだ。


手のひらと膝を擦りむき、血が滲んでいる。


「だから走るなって言っただろ」


蓮が戻ってくる。


「だって蓮が逃げるから」


「鬼ごっこなんだから逃げるだろ」


「待ってくれてもいいじゃん」


「それじゃ鬼ごっこじゃない」


文句を言いながらも、蓮は莉奈の前へしゃがんだ。


「立てる?」


「無理」


「絶対立てるだろ」


「無理」


「さっきまで走ってたじゃん」


「今は無理」


莉奈が両腕を伸ばす。


蓮は嫌そうな顔をした。


「何」


「おんぶ」


「嫌だよ」


「痛い」


「……」


「歩けない」


「……」


「蓮」


「分かったよ」


結局、蓮は背中を向けた。


莉奈が嬉しそうにしがみつく。


「重い」


「女の子に重いって言っちゃ駄目なんだよ」


「誰が言ったの」


「知らない」


「じゃあ言っていいじゃん」


「駄目」


「面倒くさいな」


そんな二人を少し離れた場所から、蓮の父親が見ていた。


笑っていた。


莉奈が笑っていることを確認するように。


時々、その表情には寂しさが混じっていた。


幼い二人は気づかなかった。


彼の目には。


この光景を見ることができなかった、もう一人の父親の姿が重なっていた。


――帰ったら会わせるか。


あの島で交わした会話。


莉奈の父親は、結局それを見ることができなかった。


それでも。


あの時の言葉だけは、形になった。


自分の息子と。


友が命の最後まで心配していた娘。


二人が今、笑っている。


それだけでよかった。


少なくとも、その時は。


*


莉奈は蓮と会える日を待つようになった。


次はいつ来るのか。


何をして遊ぶのか。


前に話したことを覚えているか。


父親を失ってから、時間はどこか色を失っていた。


周囲の大人は優しかった。


心配もしてくれた。


けれど。


「可哀想な子」


そういう目で見られることが嫌だった。


誰かが自分を見るたびに、父親がいないことを思い出す。


だから莉奈は、だんだん自分のことを話さなくなっていた。


蓮は違った。


父親のことを聞かなかった。


可哀想だとも言わなかった。


莉奈が笑えば一緒に笑う。


怒れば言い返す。


泣けば面倒そうな顔をする。


それが嬉しかった。


蓮と一緒にいる間だけ。


莉奈は、父親を失った少女ではなくなれた。


ただの莉奈でいられた。


だから。


いつの間にか。


蓮と会うことが、莉奈にとって一番楽しみなことになっていた。


*


ある日の夕方。


二人は並んで座っていた。


遊び疲れたあとだった。


空が赤く染まり始めている。


少し離れたところでは、蓮の父親が誰かと電話をしていた。


莉奈は膝を抱えながら夕焼けを見ていた。


「ねえ、蓮」


「何」


「次いつ来る?」


「知らない」


「何で知らないの?」


「父さんが決めるから」


「じゃあ聞いて」


「今?」


「うん」


「電話してるじゃん」


「終わったら」


「分かったよ」


莉奈は満足そうに頷いた。


少し沈黙が続く。


「蓮」


「今度は何」


「大人になっても遊ぶ?」


蓮が怪訝そうな顔をする。


「何それ」


「大人になったら会わなくなるのかなって」


「何で?」


「分かんない」


莉奈は足元を見る。


「大人って忙しそうだから」


「そうなの?」


「たぶん」


「じゃあ遊ばないんじゃない?」


何気なく答えた。


その瞬間。


莉奈の顔が曇った。


「……そっか」


蓮が気づく。


「何」


「別に」


「何で怒ってるの」


「怒ってない」


「怒ってるじゃん」


「怒ってない!」


「じゃあ何」


莉奈は答えなかった。


蓮は困ったように父親を見る。


まだ電話中だった。


助けてくれそうにない。


仕方なく、莉奈の横顔を見る。


「……大人になっても会えばいいじゃん」


莉奈が顔を上げた。


「本当?」


「うん」


「ずっと?」


「ずっとって?」


「ずっとは、ずっと」


「よく分かんない」


「じゃあ、ずっと一緒にいる?」


蓮にとって。


その問いに深い意味などなかった。


子供同士の会話。


明日も遊ぶ。


次も会う。


その延長でしかない。


だから蓮は、少し考えただけで答えた。


「いいよ」


莉奈の顔が明るくなる。


「本当に?」


「うん」


「約束?」


「約束」


「絶対?」


「絶対」


それでも莉奈はまだ確認する。


「ずっと一緒?」


蓮は笑った。


「ずっと一緒だよ」


莉奈は動かなかった。


ほんの数秒。


それから。


「……うん!」


満面の笑みを浮かべた。


蓮は、その言葉をすぐに忘れてしまったのかもしれない。


子供の頃に交わした、何気ない約束。


次の日には別のことを考え。


何年も経てば、思い出すことさえなくなる。


けれど。


莉奈は違った。


「ずっと一緒だよ」


その言葉を。


莉奈は何度も心の中で繰り返した。


帰る時も。


眠る前も。


次に蓮と会うまでの間も。


ずっと。


*


G-02。


雨音の中。


莉奈は静かに笑っていた。


「……覚えてない?」


蓮は何も答えられなかった。


どこかで聞いたような気がする。


けれど。


記憶として掴めない。


「ごめん」


蓮は正直に答えた。


「思い出せない」


「そっか」


莉奈は笑ったままだった。


しかし、その笑顔の奥に寂しさがあることくらい、蓮にも分かった。


「私は覚えてるよ」


莉奈が言う。


「全部」


「……全部?」


「蓮が初めて私に会った時、すごく面倒くさそうな顔してたことも」


「そんな顔したのか、俺」


「したよ」


「悪かった」


「あと、私がおんぶしてって言ったら嫌そうな顔した」


「それも?」


「でも最後はしてくれた」


莉奈は嬉しそうだった。


まるで昨日のことを話しているように。


「それから」


少しだけ声が柔らかくなる。


「ずっと一緒だって言ってくれた」


蓮は莉奈を見る。


今まで理解できなかったものが、ほんの少しだけ形を持ち始めた。


なぜ莉奈が自分を知っているように話したのか。


なぜ初対面のはずなのに、あれほど距離が近かったのか。


「だから……俺だったのか」


「うん」


「俺だから助けるって」


「うん」


莉奈は迷わなかった。


「ずっと蓮だったよ」


その言葉に、蓮は何も返せなかった。


しかし。


まだ分からない。


もし二人がそれほど仲良くなっていたのなら。


なぜ自分にはほとんど記憶がないのか。


なぜ莉奈は今、ゲームマスターとしてこの島にいるのか。


そして。


なぜ二人は離れたのか。


蓮は莉奈を見る。


「……そのあと、何があった」


莉奈の笑顔が止まった。


ほんの一瞬だった。


だが。


確かに変わった。


「俺たちがそんなに一緒にいたなら、何で会わなくなった?」


「……」


「父さんも、お前のことを見てたんだろ」


莉奈は膝の上で指を組んだ。


「何で終わったんだ」


長い沈黙。


外の雨だけが、二人の間を埋めている。


やがて。


莉奈が小さく答えた。


「分からない」


「……分からない?」


「うん」


蓮が眉を寄せる。


莉奈は、今度は笑わなかった。


「ある日、突然だったから」


「何が」


莉奈は蓮を見る。


その瞳から。


さっきまでの幸せそうな色が消えていた。


「全部」


莉奈は静かに言った。


「あの日から、全部変わったの」


そして。


莉奈の記憶の中にある最後の幸せな夕焼けが、ゆっくりと暗闇へ沈んでいった。

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