第65話 約束
「蓮と私が最初に会った時のことを話す前にね」
莉奈は、静かにそう切り出した。
「その前の話をしないといけないの」
「その前?」
「うん」
雨はまだ降り続いている。
G-02の古びた施設の中で、蓮は壁へ背中を預けたまま莉奈を見ていた。
「私たちが会うより、もっと前」
莉奈は少しだけ目を伏せる。
「蓮のお父さんと、私のお父さんが出会った時の話」
蓮の表情が変わった。
「……父さん?」
「うん」
「何で、そこで父さんが出てくる」
莉奈は答えなかった。
代わりに、遠い記憶を探るように目を閉じた。
「私も全部を知ってるわけじゃないよ。お父さんから直接聞けたことなんて、ほとんどないから」
「……」
「だから、あとから聞いたこともあるし、知らないこともいっぱいある」
そこで一度言葉を切った。
そして。
「でも、一つだけ間違いないことがある」
莉奈は蓮を見た。
「二人が初めて会った場所は――エクストラバレットだった」
蓮の目が見開かれた。
*
それは、今よりずっと前に行われたエクストラバレットだった。
島も違う。
参加者も違う。
与えられた条件も、今と同じではない。
けれど一つだけ変わらないものがあった。
首輪。
端末。
そして、生きて帰れる保証などどこにもないということ。
当時、二人の男は互いの名前すら知らなかった。
一人は、神谷蓮の父親。
もう一人は、莉奈の父親だった。
彼らは友人としてゲームへ参加したわけではない。
仕事仲間でもなければ、昔からの知り合いでもない。
このゲームへ放り込まれなければ、生涯出会うことさえなかったかもしれない。
最初の出会いも、決して穏やかなものではなかった。
林の中。
莉奈の父親は木へ背中を預けながら、近づいてくる男へ警戒した目を向けていた。
手には拾った鉄製の棒を握っている。
「そこで止まれ」
その声を聞き、蓮の父親は足を止めた。
二人の間には十分な距離があった。
「何もしない」
「それを信じろって?」
「信じなくていい」
「だったら近づくな」
「分かった」
蓮の父親は本当にそれ以上近づかなかった。
莉奈の父親は、しばらく相手を観察した。
首には自分と同じ首輪。
服は泥で汚れている。
腕にも傷がある。
少なくとも、運営の人間には見えなかった。
もっとも、このゲームでは見た目だけで誰かを信用できるはずもない。
「……一人か?」
やがて莉奈の父親が尋ねた。
「ああ」
「仲間は?」
「いない」
「最初から?」
「途中で別れた」
それ以上は説明しなかった。
莉奈の父親も聞かなかった。
数秒の沈黙。
蓮の父親が先に口を開いた。
「水は持ってるか」
鉄棒を握る手に力が入る。
「何で聞く」
「向こうにある」
蓮の父親が森の奥を指した。
「飲めそうな水があった。容器があるなら汲める」
「……何で俺に教える」
「死にそうな顔してるから」
莉奈の父親は思わず自分の顔へ触れた。
「余計なお世話だ」
「そうか」
蓮の父親はそれだけ言うと、歩き出そうとした。
「待て」
足が止まる。
「……どっちだ」
蓮の父親が振り返る。
「水」
少しだけ笑った。
それが二人の始まりだった。
*
最初から信頼していたわけではない。
むしろ最初のうちは、互いに疑っていた。
食料を見つけても、どちらかが先に口へ入れる。
眠る時も、完全に同時には眠らない。
端末の個別条件についても、すぐには話さなかった。
それでも。
一日。
二日。
共に行動する時間が長くなるにつれて、少しずつ変わっていった。
危険な場所では互いに周囲を見る。
片方が負傷すれば、もう片方が支える。
物資を見つければ分ける。
どちらか一人だけなら通れなかった場所も、二人なら越えられた。
そして何より。
二人とも、できる限り人を殺したくなかった。
それが大きかった。
エクストラバレットという異常な場所で、同じ考えを持つ人間と出会えた。
ただ生き残るだけではなく。
できることなら、一緒に生きて帰る。
いつしか二人の間には、そんな暗黙の約束ができていた。
夜。
二人は小さな建物の中で身体を休めていた。
外では風が吹いている。
蓮の父親が壁へ背中を預けながら尋ねた。
「帰ったら何する」
莉奈の父親は眉を寄せた。
「急に何だよ」
「別に」
「こんな場所で帰った後の話か?」
「こんな場所だからするんだろ」
莉奈の父親は呆れたように笑った。
それから、少し考える。
「……娘に会う」
蓮の父親が顔を向けた。
「娘いるのか」
「ああ」
その瞬間だけ。
莉奈の父親の表情から、この島へ来てから身についた警戒が消えた。
「まだ小さい」
「名前は?」
「莉奈」
「莉奈か」
「可愛いぞ」
「親ならみんなそう言う」
「本当に可愛いんだよ」
莉奈の父親は笑った。
「俺が帰ったら、たぶん泣く」
「喜んで?」
「いや」
少し間を置く。
「遅いって怒って」
蓮の父親が吹き出した。
「怖い娘だな」
「誰に似たんだろうな」
「お前じゃないのか」
「俺はもっと優しい」
「それはない」
二人の笑い声が、小さな建物の中へ響いた。
この島へ来てから初めてだったのかもしれない。
普通の人間のように笑えたのは。
「お前は?」
今度は莉奈の父親が尋ねる。
「何が」
「家族」
蓮の父親は少し黙った。
それから答えた。
「……息子がいる」
「お前もか」
「ああ」
「何歳だ」
「まだ小さいよ」
「名前は?」
「蓮」
「蓮か」
莉奈の父親は笑う。
「じゃあ、帰ったら会わせるか」
「誰と誰を」
「うちの莉奈と、お前の蓮」
「何でそうなる」
「親同士が命懸けで生き残った仲なんだ。子供同士も仲良くなるかもしれないだろ」
「気が早い」
「いいじゃないか」
「まず俺たちが帰らないと始まらない」
「だったら帰ればいい」
あまりにも簡単に言った。
蓮の父親は呆れたように笑った。
「簡単に言うな」
「帰るんだよ」
莉奈の父親は真っすぐ前を見た。
「二人で」
その言葉に。
蓮の父親も頷いた。
「ああ」
その時は本当に、そうなると思っていた。
*
だが。
エクストラバレットは、そんな約束を守らせてくれる場所ではなかった。
ゲームが進むにつれ、参加者は減っていった。
疑い。
裏切り。
負傷。
そして死。
二人も何度も危険な状況へ追い込まれた。
それでも互いを見捨てなかった。
だからこそ。
最後まで二人で帰れるのだと、どこかで信じていた。
しかし――。
莉奈の父親は、生きて帰ることができなかった。
何が起きたのか。
誰に何をされたのか。
莉奈はその全てを知らない。
父親がどんな条件を与えられていたのかも。
最後に誰と戦ったのかも。
どんな顔で死んだのかも。
莉奈自身は見ていない。
ただ。
一つだけ。
後になって知ったことがあった。
死ぬ直前。
莉奈の父親は、蓮の父親へ娘のことを話していた。
「……神谷」
息をするだけでも苦しかった。
身体はもう動かない。
蓮の父親は、そのそばに膝をついていた。
「喋るな」
「……無理だな」
「黙れ」
「自分の身体くらい……分かる」
「まだ終わってない」
「終わってるよ」
「終わってない!」
蓮の父親が声を荒らげる。
「二人で帰るって言っただろ」
「……そうだったな」
莉奈の父親は弱く笑った。
「だから立て」
「神谷」
「立てって」
「頼みがある」
「聞かない」
「莉奈を……」
その名前が出た瞬間。
蓮の父親の動きが止まった。
「やめろ」
「俺が帰れなかったら……」
「やめろって言ってるだろ」
「娘を……」
莉奈の父親は、震える手を動かした。
蓮の父親の腕を掴む。
ほとんど力は残っていない。
それでも必死だった。
「一人にしないでくれ」
「……」
「ずっとじゃなくていい」
息が途切れる。
それでも言葉を続ける。
「たまにでいい……ちゃんと生きてるか……見てやってくれ」
「自分で見ろ」
「神谷……」
「自分で帰って、自分で見ろ!」
莉奈の父親は、ほんの少しだけ笑った。
「……お前なら」
「やめろ」
「任せられる」
「やめろ!」
「頼む」
その言葉を最後に。
腕から力が抜けた。
蓮の父親は、しばらく動かなかった。
握られていた自分の腕を見つめていた。
やがて。
力を失った友の手を、自分の手で握った。
「……ふざけんなよ」
返事はない。
「俺は子守りするためにここへ来たんじゃないぞ」
返事はなかった。
「自分で帰れよ……」
声が震えた。
「莉奈って子に……自分で会いに行けよ」
それでも。
もう、答える声はなかった。
二人で帰るという約束は。
そこで終わった。
*
ゲームを生き延びたあと。
神谷蓮の父親は、約束を忘れなかった。
すぐに莉奈の前へ現れたわけではない。
父親を失ったばかりの幼い少女の前へ突然現れ、自分は父親と一緒に死のゲームへ参加していたなどと言えるはずもなかった。
そもそも、エクストラバレットのことを普通に話せる状況でもない。
だから。
最初は遠くからだった。
莉奈がどこで暮らしているのか。
ちゃんと生活できているのか。
困っていることはないか。
危険な目に遭っていないか。
できる範囲で確かめた。
莉奈の父親から託された言葉。
――ちゃんと生きてるか、見てやってくれ。
その約束を守るように。
一度だけではない。
何年も。
神谷蓮の父親は、莉奈を気にかけ続けた。
自分にも家庭がある。
息子がいる。
それでも莉奈のことを忘れることはなかった。
ある日。
少し離れた場所から、幼い莉奈が歩いている姿を見つけた。
小さな身体。
父親によく似たところがあるのかどうかさえ、遠目では分からない。
けれど。
あの男が最後まで気にしていた娘なのだと分かった。
莉奈が途中で立ち止まる。
何かを落としたらしい。
しゃがみ込み、拾おうとする。
その様子を見ながら、蓮の父親は無意識に一歩前へ出ていた。
だが。
止まった。
今、自分が声をかけてどうする。
何と名乗る。
君のお父さんと、死のゲームで知り合った。
君のお父さんは自分の目の前で死んだ。
そんなことを言えるはずがない。
結局、その日は声をかけなかった。
ただ。
莉奈が無事に帰っていくところまで見届けた。
それだけだった。
別の日も。
また別の日も。
必要以上に近づかない。
けれど、見失わない。
父親の代わりになれるとは思っていなかった。
なる資格があるとも思っていなかった。
ただ、約束したから。
あの島で。
最後に。
娘を頼むと。
だから見守った。
莉奈が知らないところで。
ずっと。
*
「……父さんが」
蓮の声が、現在のG-02へ戻した。
莉奈は静かに蓮を見ていた。
「私を見てたんだって」
「……そんな話、一度も聞いてない」
「蓮には言ってなかったんじゃない?」
「何で……」
蓮は言葉を失った。
父親がエクストラバレットへ参加していたことは知っている。
だが、その中で誰と出会ったのか。
何があったのか。
何を背負って帰ってきたのか。
そんなことは何も知らなかった。
「私もね」
莉奈が続ける。
「お父さんたちの間で何があったのか、全部知ってるわけじゃないよ」
蓮が顔を上げる。
「さっき話したことだって、あとから知ったことがほとんど」
「誰から聞いた」
「それも……あとで話す」
莉奈は少しだけ笑った。
だが、その笑みには昔を懐かしむような色があった。
「少なくとも私は、ずっとあとになるまで知らなかった」
「何を?」
「蓮のお父さんが、どうして私を気にかけてくれてたのか」
蓮は黙った。
「私のお父さんと友達だったから、なんて簡単な話じゃなかった」
莉奈は床へ視線を落とした。
「二人は、エクストラバレットで会った」
その言葉を、ゆっくり繰り返す。
「そこで一緒に生きようとして……私のお父さんだけ帰ってこなかった」
雨音が響く。
「そして蓮のお父さんは、帰ってきた」
蓮は拳を握った。
責めるような言い方ではなかった。
莉奈の声には、父親への憎しみもない。
むしろ逆だった。
「でもね」
莉奈の表情が少し柔らかくなる。
「蓮のお父さんは、約束を守ってくれたんだよ」
「……約束」
「私を一人にしないでくれって」
蓮は何も答えられない。
「ずっと近くにいたわけじゃない。毎日会ってたわけでもない」
莉奈は言う。
「でも、見ててくれた」
知らないところで。
父親を失った少女が生きていることを。
ずっと。
「それでね」
莉奈は蓮を見る。
「ある日、蓮のお父さんは遠くから見てるだけじゃなくなったの」
蓮の胸がわずかにざわつく。
「何があった」
「私と話したんだよ」
莉奈は微笑んだ。
「初めて」
そして、その先を思い出したのか。
莉奈の顔に、今までとは違う笑みが浮かんだ。
ゲームの中で見せる笑顔ではない。
血も。
首輪も。
端末も。
何もなかった頃の表情。
「それから少しして」
莉奈は言った。
「蓮のお父さんが、一人の男の子を連れてきた」
蓮は動かなかった。
莉奈は、そんな蓮を見つめている。
「その子、最初は私のこと全然気にしてなかった」
「……」
「私が話しかけても、面倒くさそうな顔して」
莉奈が小さく笑う。
「でもね。私はすぐ好きになったよ」
蓮の喉がわずかに動く。
「その子の名前は――」
莉奈は、もう答えを知っている蓮へ告げた。
「神谷蓮」
雨の向こう。
さらに昔。
二人がまだ子供だった頃の記憶が、ゆっくりと開き始めていた。




