第63話 もう1人のゲームマスター
雨は、森全体を覆うように降り続いていた。
葉を叩く雨音は時間が経つにつれて大きくなり、枝から落ちた水が地面を濡らし、乾いていた土を柔らかな泥へ変えている。
その森の中を、莉奈は一人の男を支えながら歩いていた。
神谷蓮。
意識はまだ戻っていない。
爆発の跡が残る場所で見つけた時から、一度も目を覚ましていなかった。
蓮の片腕を自分の肩へ回し、その身体を支える。空いた手には日本刀を持ったまま、滑りやすくなった斜面を慎重に進んでいく。
自分より大きな男を運ぶのは、莉奈にとっても楽ではない。
蓮の足が木の根へ引っかかるたびに立ち止まり、身体を抱え直す。それでも、置いていくという選択肢は最初からないようだった。
「もう少しだからね」
返事はない。
「大丈夫。ちゃんと連れていくから」
莉奈は肩へ預けられた蓮の顔を見た。
雨に濡れた前髪が額へ張りついている。
呼吸はある。
爆発に巻き込まれたせいで身体のあちこちに傷を負っているものの、少なくとも今は生きている。
しばらく進んだところで、莉奈は大きな木のそばに蓮を座らせた。
自分まで転べば、蓮を運ぶことができなくなる。
「ちょっと休もうか」
意識のない蓮へ話しかけながら、幹へ身体を預けさせる。
その時だった。
蓮の服のそばから、端末の一部が覗いていることに気づいた。
「……端末」
莉奈はそれを取り出した。
画面は生きている。
少し考えたあと、莉奈は端末を操作した。
蓮がどんな条件を与えられているのか。
それを本人から聞いたことはない。
画面を進め、個別クリア条件を開く。
《INDIVIDUAL CLEAR CONDITION》
続いて表示された文章を読み、莉奈の指が止まった。
《AとEのPLAYER TERMINALを破壊してください》
「……AとE」
もう一度読む。
Aについては分からない。
だが。
もう一方は違った。
E。
その文字には覚えがある。
莉奈は自分の端末を取り出した。
画面に表示されている識別文字を確認する。
《E》
視線を蓮の端末へ戻す。
《AとEのPLAYER TERMINALを破壊してください》
「……私だ」
莉奈の表情が変わった。
だが、そこに恐怖はなかった。
むしろ。
少しずつ、その顔が明るくなっていく。
「よかった……」
自分の端末なら、どうするかを自分で決められる。
首輪を外す前に壊されるのは困る。
だが、自分の条件を達成して首輪さえ外してしまえば、その後は必要ない。
蓮へ渡せる。
蓮自身の手で壊してもらえる。
そうすれば、この条件を一つ進められる。
「私なら、蓮を一つ助けてあげられる」
莉奈は眠ったままの蓮へ小さく笑いかけた。
そして端末を戻そうとした時。
そこに表示されている識別文字が目に入った。
H。
莉奈の動きが止まった。
「……H?」
今度は、明確に意味のある文字だった。
莉奈は自分の端末を操作する。
そこに表示された、自分自身の個別クリア条件。
《HのPLAYERを指定地点G-02まで生存した状態で同行させてください》
莉奈は画面を見たまま動かなかった。
それから、ゆっくりと蓮を見る。
「……蓮が、Hだったんだ」
それまでは知らなかった。
自分の条件に指定されたHのPLAYERが誰なのか。
だが今、蓮の端末を直接確認したことで初めて分かった。
自分がG-02まで連れていかなければならない相手。
それが蓮だった。
莉奈はしばらく黙っていた。
やがて、その口元に笑みが浮かぶ。
「そっか……」
不思議なくらい、条件が噛み合っている。
自分は蓮をG-02まで連れていけばいい。
そこで首輪を外す。
そうすれば、自分のE端末を蓮へ渡すことができる。
「じゃあ、一緒に行こう」
莉奈は二つの端末をしまうと、再び蓮の身体を支えた。
「私も助かるし……蓮の条件も一つ進められるから」
意識のない蓮を連れ、莉奈は再び雨の森を歩き始めた。
*
森を抜けた先に、小さな施設があった。
コンクリートの壁には苔が広がり、ひび割れた部分から雑草が伸びている。長い間使われていないのか、入口付近には落ち葉や土が入り込んでいた。
そのそばにある標識へ、莉奈が目を向ける。
《G-02》
「着いたよ、蓮」
返事はない。
莉奈は蓮を支えたまま施設へ入った。
数歩。
さらに奥へ進んだところで、端末から電子音が鳴った。
――ピッ。
莉奈は足を止める。
蓮を壁際へ座らせ、倒れないよう身体を預けさせると、自分の端末を取り出した。
《G-02 到達確認》
表示が切り替わる。
《対象PLAYERの生存を確認》
続いて。
《個別クリア条件達成》
そして。
《首輪解除が可能です》
莉奈は画面を見つめた。
「……できた」
首輪へ手を触れる。
端末を近づけ、認証を開始する。
一瞬だけ、莉奈の表情が硬くなった。
条件を達成したはずなのに首輪が外れない。
すでに、このゲームではそんな異常が起きている。
だから、表示を見るまでは安心できない。
《AUTHENTICATION COMPLETE》
首元で小さな機械音がした。
ロックが外れる。
莉奈は両手を首へ回し、ゆっくりと首輪を外した。
金属の重みが消える。
「……外れた」
手の中の首輪を見つめる。
爆発することもない。
エラーも起きていない。
莉奈は首輪を床へ置いた。
これでいい。
これでもう、自分の端末を失っても問題ない。
莉奈は蓮の隣へ座ると、その顔を見つめた。
「蓮」
濡れた前髪を指先で払う。
「私の端末、あげるからね」
返事はない。
「起きたら、自分で壊して」
莉奈は嬉しそうに笑った。
「そうしたら、一つ終わるから」
*
どれほど時間が経ったのか。
蓮の意識へ最初に入り込んできたのは、雨の音だった。
屋根を叩く音。
外の木々へ落ちる音。
どこかから流れ込んだ水が、床へ滴る音。
ゆっくり目を開く。
「……っ」
身体を動かそうとした瞬間、背中に鈍い痛みが走った。
脇腹も痛む。
頭も重い。
蓮は顔をしかめながら周囲を見た。
灰色の天井。
コンクリートの壁。
知らない場所。
「……どこだ、ここ……」
掠れた声が漏れる。
直後。
記憶が戻ってきた。
森。
聡子。
相馬。
銃声。
聡子の身体へ何発もの弾丸が撃ち込まれた。
それでも彼女は相馬へ銃を向けた。
そして最後に――。
――生きてください。
「……古瀬さん」
蓮の目が見開かれた。
地雷。
爆発。
吹き飛んだ腕。
その後、相馬を撃とうとした。
相馬が何かを投げた。
もう一度、爆発。
身体が吹き飛ばされ、木へ叩きつけられた。
そこから先がない。
「古瀬さん!」
反射的に身体を起こそうとする。
「っ……!」
背中に激痛が走り、動きが止まった。
「無理しちゃ駄目だよ」
すぐ近くから声がした。
蓮は顔を上げた。
「……莉奈?」
そこに莉奈が座っていた。
日本刀もそばにある。
そして。
蓮はすぐに違和感へ気づいた。
莉奈の首元。
「お前……首輪」
「起きた?」
「首輪、どうした」
莉奈は床を指した。
外された首輪が置かれている。
「外れたよ」
蓮は首輪を見たあと、改めて周囲を確認した。
「ここは?」
「G-02」
「G-02……?」
自分で来た記憶はない。
「何で俺がここにいる」
「私が連れてきたの」
「お前が?」
「うん。蓮、倒れてたから」
蓮の表情が変わる。
「……古瀬さんは?」
莉奈は少し黙った。
「私が行った時には、蓮が倒れてた。周りは爆発した跡だらけで……人の身体も落ちてたよ」
蓮の拳へ力が入る。
分かっている。
あの爆発を、自分は目の前で見た。
それでも。
「……相馬は」
「いなかった」
「逃げたのか……」
あれだけ撃たれていた。
それでも生きている可能性がある。
その瞬間、蓮の頭に別の二人が浮かんだ。
「詩織と葵は?」
「分からない」
「拠点には行ってないのか?」
「うん。蓮を見つけて、そのままここへ来たから」
蓮は壁へ手をついた。
「戻らないと」
立ち上がろうとする。
「っ……!」
身体が崩れる。
莉奈がすぐに支えようとした。
「無理だって」
「触るな」
蓮はその手を払った。
「葵は脚を撃たれてる。詩織も一緒に残してきた。相馬が生きてるなら、あそこだって安全じゃない」
「でも、今の蓮じゃまともに歩けないよ」
「だからって……」
「少し休んで」
莉奈は静かに言った。
「戻るにしても、その身体じゃ途中で倒れるだけだから」
蓮は反論しかけたが、言葉が出なかった。
実際、立つことさえできなかった。
荒い呼吸を整えながら、再び床へ座る。
そこで、改めて莉奈の首輪を見る。
「……条件をクリアしたのか」
「うん」
「ここで?」
「そうだよ」
蓮は周囲を見る。
G-02。
自分は意識を失っていた。
そして莉奈は、自分をここまで連れてきた。
「俺が関係してるのか」
莉奈は少し笑った。
「蓮のおかげ」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
「条件は?」
「秘密」
「何でだよ」
「もう終わったからいいでしょ」
「俺が関係してるならよくないだろ」
蓮は莉奈を見る。
「俺をG-02まで連れてきた。それでお前の首輪が外れた。関係あるんだろ?」
莉奈は答えなかった。
ただ、どこか楽しそうに蓮を見ている。
「……何なんだよ」
「蓮って、そういうところ変わらないね」
蓮の表情が止まった。
「……変わらない?」
「うん」
「どういう意味だ」
「何でもない」
「いや、お前――」
「はい」
莉奈が話を遮るように、端末を差し出した。
蓮の端末だった。
「これ、返す」
「……何でお前が持ってる」
「倒れてた時に拾ったから」
蓮は受け取る。
嫌な予感がした。
「中、見たのか?」
「見たよ」
「どこまで」
「クリア条件」
「……勝手に見るなよ」
「でも、見てよかった」
莉奈は悪びれた様子もなく、自分の端末を取り出した。
画面を蓮へ向ける。
《E》
蓮の目が止まった。
「……E?」
「うん」
莉奈は笑う。
「私がE」
蓮は反射的に自分の端末を見た。
表示されている個別クリア条件。
《AとEのPLAYER TERMINALを破壊してください》
Aについては、最初から分かっていた。
この島で最初に出会った少女。
意識を取り戻した直後、混乱して逃げ出した詩織が落とし、踏みつけてしまった端末。
その画面に表示されていた文字を、蓮は見ている。
A。
七瀬詩織。
だから2nd STAGEでこの条件を与えられた時から、蓮は理解していた。
Aが誰なのかは分かっている。
分からなかったのは、もう一つ。
E。
そして今、そのEが目の前にいる。
「お前だったのか……」
「うん」
莉奈はE端末を差し出した。
「壊していいよ」
「……は?」
「私の首輪はもう外れたから」
莉奈は床へ置かれた首輪を見る。
「端末はもういらない」
蓮は差し出された端末と莉奈を交互に見る。
「本気か?」
「本気」
「これを壊したら戻せないぞ」
「分かってるよ」
「だったら何で……」
蓮には理解できなかった。
莉奈は自分をG-02まで運んだ。
その結果、首輪を外した。
そして今度は、自分の端末まで差し出そうとしている。
「何でそこまで俺を助けるんだよ」
莉奈は不思議そうに蓮を見る。
「助けたいから」
「だから、何でだ」
「蓮だから」
迷いのない答えだった。
「それじゃ分からない」
「私は分かるよ」
莉奈は笑った。
まただ。
以前から何度も感じていた違和感。
初めて会ったはずなのに、莉奈は自分を知っているように話す。
そして先ほども言った。
――変わらない。
「……お前、俺と前に会ったことあるのか?」
莉奈の表情が、ほんの少しだけ変わった。
だが、答えは返ってこなかった。
「それは、あとで話す」
再びE端末を差し出す。
「今はこっち」
蓮はしばらく動かなかった。
莉奈が何を考えているのかは分からない。
だが、首輪が外れている以上、この端末を破壊することで莉奈が首輪解除の機会を失うことはない。
そして自分にとっては、確実に条件を一つ進められる。
蓮はE端末を受け取った。
「……本当にいいんだな」
「うん」
蓮はしばらく端末を見つめたあと、コンクリートの床へ叩きつけた。
硬い音が施設内へ響く。
一度では壊れない。
もう一度。
画面へ大きな亀裂が走る。
さらに床の角へ打ちつけると、外装が割れ、画面の光が消えた。
完全に沈黙する。
数秒後。
蓮の端末から電子音が鳴った。
《PLAYER TERMINAL E》
《破壊を確認しました》
続いて。
《INDIVIDUAL CLEAR CONDITION》
《進行状況:1 / 2》
蓮はその表示を見つめた。
一つ。
終わった。
そして残るのは――。
《PLAYER TERMINAL A》
蓮の表情から、条件を一つ進めた安堵が消えた。
A。
詩織。
あとは詩織の端末を壊せば、自分の条件は達成される。
だが、簡単に壊していいはずがない。
詩織にも個別クリア条件がある。
その内容を蓮は知らない。
Aの端末が詩織自身の首輪を外すために必要になる可能性もある。
自分が助かるためだけに壊してしまえば、今度は詩織が助からなくなるかもしれない。
「……あとAだけだね」
莉奈が言った。
蓮の表情が硬くなる。
「Aは詩織だ」
「……あの女?」
莉奈の声がわずかに変わった。
蓮はそれに気づきながらも続ける。
「最初に会った時から知ってる。あいつの端末がAだ」
「じゃあ、壊せば蓮は助かるね」
「そんな簡単な話じゃない」
蓮はすぐに否定した。
「詩織の条件が分からない。あいつだって首輪を外すには端末が必要かもしれない」
自分の条件を満たすために、詩織の生存手段を奪う。
そんなことを簡単に決められるはずがなかった。
莉奈は黙って蓮を見ていた。
「……やっぱり蓮だね」
「何がだよ」
「何でもない」
また同じ言葉だった。
蓮は眉を寄せたが、それ以上追及しなかった。
今は別のことが頭から離れない。
聡子。
相馬。
そして、このゲームそのもの。
蓮は端末を握ったまま、壁へ背中を預けた。
「……莉奈」
「なに?」
「少し、話していいか」
「うん」
蓮はしばらく言葉を探した。
聡子から聞いたこと。
相馬が口にしたこと。
自分自身がこの島で見てきたこと。
それらを一つずつ頭の中で整理する。
「古瀬さんから、いろいろ聞いた」
莉奈は黙っている。
「このゲームには、参加者に混じって……ゲームを進める側の人間がいるって」
ゲームマスター。
聡子はそう呼んでいた。
参加者として島へ入りながら、停滞したゲームを内側から動かす人間。
「それから、前にもこのゲームへ参加したことがある奴がいるってことも聞いた」
莉奈は驚かなかった。
蓮はその表情を見ながら続ける。
「相馬も言ってた。最初の条件は達成したはずなのに、首輪が外れなかったって」
SYSTEM ERROR。
あの言葉が頭から離れない。
相馬は確かに条件を達成したと言っていた。
それなのに助からなかった。
そして最初の死亡者が出たあと、個別条件そのものが別のものへ変えられた。
「俺たちは、何が正しいのかも分からない」
蓮は低い声で言った。
「条件を達成しろって言われて、命懸けでやって……達成したと思ったら首輪が外れない奴までいる」
手の中の端末へ目を落とす。
「途中で条件まで変えられる」
最初は、全員が助かる可能性があった。
少なくとも蓮たちはそう信じて動いていた。
だが今は違う。
自分の条件ですら、他人の端末を破壊しなければ達成できない。
詩織の端末を。
「しかも、参加者の中に運営側の人間まで入れてる」
聡子は最後まで、全てを話せなかった。
言えないことがある。
そう言っていた。
それでも最後には――蓮へ生きろと言った。
「古瀬さんは、全部は話せないって言ってた」
蓮の声が少しだけ沈む。
「それでも、最後に俺へ生きろって言った」
莉奈は静かに聞いていた。
「俺には分からないんだ」
蓮は顔を上げる。
「運営が何を考えてるのかも、何のためにこんなことをやってるのかも」
この島で何人も死んだ。
条件に追い詰められた人間もいる。
相馬のように、条件を達成したはずなのに助からなかった人間もいる。
それを考えるほど、胸の奥に湧き上がるものがあった。
怒りだった。
「……狂ってるよ」
莉奈が蓮を見る。
「このゲーム」
蓮は吐き捨てるように言った。
「全部、狂ってる」
首輪をつける。
死ぬかもしれない条件を与える。
達成しても助かるとは限らない。
途中で条件を変える。
そして、それを進めるための人間まで参加者の中へ紛れ込ませる。
「こんなの、ゲームじゃないだろ」
雨音が施設の中へ響く。
蓮は莉奈を見た。
「……お前はどう思う?」
その問いを聞いた瞬間。
莉奈の表情が、ほんの少しだけ変わった。
すぐには答えない。
床へ置かれた自分の首輪へ視線を落とす。
それから、蓮へ戻す。
「……蓮」
「なんだ」
「私ね」
先ほどまでとは少し違う声だった。
「まだ蓮に言ってないことがあるんだ」
蓮の眉が寄る。
「何だよ」
莉奈は黙った。
聡子なら、ここで言えないと答えたのかもしれない。
だが莉奈は違った。
迷うように一度だけ目を伏せたあと、再び蓮をまっすぐ見た。
「私も実は――」
ほんの短い間。
そして。
「ゲームマスターなんだ」
蓮は何も言えなかった。
外では、雨が降り続いていた。




