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エクストラバレット  作者: ほむら
1章 エクストラバレット

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第62話 雨の中の逃走

雨は、初めのうちは木々の葉を小さく叩く程度だった。


しかし頭上を覆う雲は時間とともに厚みを増し、まだ昼間だというのに森の中は夕暮れのように薄暗い。風が吹くたびに枝葉が大きく揺れ、溜まった水滴が一斉に降り注いでくる。


湿った土の匂いが濃くなり、足元の落ち葉も少しずつ滑りやすくなっていた。


「美月、こっち!」


佳子は美月の手を掴んだまま、木々の間を必死に走っていた。


小屋を飛び出してから、どれほど走ったのか分からない。


背後で黒田が莉奈を押さえてくれた。


その隙に逃げろと言われた。


だから走った。


一度も振り返らずに。


いや――振り返ることができなかった。


黒田がどうなったのか。


莉奈を止められたのか。


それを確かめたい気持ちはある。だが、もし振り返った先に日本刀を持った莉奈がいたら。もし黒田が倒れていたら。


そんな想像が頭をよぎるたび、佳子は前だけを見るしかなかった。


「はっ……はっ……」


隣を走る美月の呼吸が激しく乱れている。


佳子自身も苦しかった。


喉は焼けるように乾き、息を吸うたびに胸の奥が痛む。それでも速度を落とせない。


木の根を跨ぎ、低い枝を腕で払いながら斜面を下っていく。


「佳子……」


「止まらないで!」


「でも……黒田さんが……」


「分かってる!」


思わず強い声が出た。


佳子だって黒田が心配だった。


黒田はすでに怪我をしている。


左腕も脇腹も負傷し、さらに莉奈との戦いでライフルまで壊された。それでも自分たちを逃がすため、あの小屋に残ったのだ。


今すぐ戻りたい気持ちはある。


だが戻れば、黒田が身体を張って作ってくれた時間を無駄にすることになる。


「今は逃げよう!」


佳子は美月の手を握り直した。


「黒田さんなら……きっと大丈夫だから!」


根拠などなかった。


黒田なら大丈夫。


そう信じたいだけだった。


けれど、そう思わなければ足を前へ出し続けることすらできなかった。


その時だった。


背後から、何かが聞こえた。


雨音に混じる、不自然な音。


枝が折れた。


続いて、濡れた落ち葉を踏む足音。


佳子の表情が強張った。


黒田ではない。


なぜか、そう直感した。


「……来た」


「え……?」


美月が振り返ろうとする。


「見ないで! 走って!」


佳子は美月の腕を引いた。


2人はさらに速度を上げる。


しかし、降り始めた雨が森そのものを変え始めていた。


乾いていた落ち葉は水を含み、その下の土まで柔らかくなっている。傾斜へ足を置くたびに靴底が滑り、思うように前へ進めない。


焦れば焦るほど足元がおろそかになる。


そして――。


「あっ……!」


美月のつま先が、地面から盛り上がった木の根に引っかかった。


身体が前へ投げ出される。


「美月!」


手を繋いでいた佳子まで引っ張られ、体勢を崩した。


肩から地面へ倒れ込み、濡れた土が服へべったりと張りつく。


「痛っ……」


佳子は痛みを無視して身体を起こした。


「美月、大丈夫!?」


「う、うん……」


美月も立ち上がろうとする。


だが、その動きが途中で止まった。


佳子も気づいた。


木々の間。


雨に霞む森の向こうに、人影がある。


ゆっくりと近づいてくる。


その手には、細長い刀身。


「……そんな」


佳子の喉から掠れた声が漏れた。


莉奈だった。


服には血が付着し、日本刀にもまだ赤黒いものが残っている。


走ってはいない。


慌ててもいない。


ただ逃げ道など最初から存在しないとでもいうように、こちらへ歩いてくる。


その姿が、かえって恐ろしかった。


「美月、立って!」


佳子が腕を掴む。


美月も莉奈を見た。


顔から血の気が引いていく。


「佳子……」


「早く!」


美月が立とうとする。


だが濡れた斜面で足を滑らせ、再び膝をついてしまった。


佳子はすぐに身体を支えようとした。


「ほら、掴まって!」


その手首を、美月が掴んだ。


「……行って」


「え?」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


美月の手は震えている。


手だけではない。


肩も。


唇も。


身体全体が小さく震えていた。


「先に……行って」


「何言ってるの。早く立って」


「違う!」


美月が声を張った。


佳子の動きが止まる。


美月は怖がっていた。


当然だった。


真由の死を目の前で経験し、その後も銃撃から逃げ、さらに小屋では白石に襲われた。


心が休まる時間など、ほとんどなかった。


それでも美月は、震えながら佳子を見ていた。


「私が……残る」


「何言ってるの!」


「だって……」


美月は莉奈へ視線を向けた。


そこでようやく、ずっと感じていた違和感を言葉にする。


「狙われてるの……佳子でしょ」


佳子は答えられなかった。


小屋でもそうだった。


莉奈は黒田と戦っていた。


美月もその場にいた。


それなのに、小屋へ踏み込んできた莉奈の意識は途中から完全に佳子へ向けられていた。


黒田が足を掴んで止めなければ、あの刀は佳子へ振り下ろされていた。


「だったら……私が邪魔すれば」


美月は震える息を吐いた。


「少しくらい、時間を稼げるかもしれない」


「駄目」


佳子は即座に否定した。


「佳子」


「駄目!」


今度ははっきりと叫んだ。


美月の腕を掴み、無理にでも立たせようとする。


「そんなことできるわけないでしょ! 一緒に逃げるの!」


「でも……」


「でもじゃない!」


美月の目に涙が浮かんだ。


脳裏に、これまでの出来事が次々と蘇ってくる。


真由が倒れた時。


自分の手にはナイフがあった。


殺すつもりなどなかった。それでも結果として、真由は自分の持っていた刃に倒れた。


その後もそうだった。


銃声が響いた時。


三浦が自分を呼んでくれた。


振り返りたかった。


戻りたかった。


けれど身体が動かなかった。


小屋でも。


白石に襲われた時、自分では何もできなかった。


黒田に助けられた。


三浦に助けられた。


そして佳子にも助けられた。


「私……何もできてない」


美月が呟いた。


「そんなことない」


「あるよ」


涙が頬を伝う。


雨と混ざり、その境目さえ分からなくなった。


「ずっと……誰かに助けてもらってばっかりだった」


「今そんな話してる場合じゃ――」


「だから!」


美月が佳子の手を振りほどいた。


佳子の目が見開かれる。


「今度は私がやるから!」


声は震えていた。


勇敢だから残るのではない。


怖くないからでもない。


本当は逃げたい。


莉奈の持っている刀を見るだけで、足が竦む。


それでも美月は立ち上がった。


「美月……」


「早く行って」


美月は佳子を見なかった。


見れば、決心が崩れてしまいそうだった。


「お願いだから……行って」


莉奈が近づいてくる。


距離はもう、それほど残されていない。


佳子は唇を噛んだ。


美月を置いていきたくない。


けれど、このまま2人でいれば追いつかれる。


「……絶対逃げてよ」


美月の肩が小さく揺れた。


「美月も絶対逃げて!」


佳子はそう叫び、走り出した。


一歩。


二歩。


足を前へ出すたび、振り返りたい衝動に駆られる。


それでも前を見る。


美月が作ってくれた時間を無駄にはできない。


やがて佳子の姿が木々の向こうへ消えていった。


美月はその背中を見送った。


「……大丈夫」


自分自身へ言い聞かせる。


声は震えていた。


「私が……止める」


莉奈が近づいてくる。


美月は両腕を広げるようにして、その進路へ立った。


「来ないで」


声が小さい。


莉奈は止まらない。


「佳子を追わないで!」


今度は大きく叫んだ。


莉奈との距離が縮まる。


日本刀が見える。


美月の身体が強張った。


斬られる。


そう思った。


目を閉じそうになる。


だが必死に耐えた。


「行かせないから……!」


莉奈が目の前まで来る。


美月は身構えた。


しかし。


莉奈は刀を振らなかった。


歩調すらほとんど変えず、美月の横を通り過ぎていく。


「……え?」


美月は呆然と振り返った。


莉奈は一度もこちらを見なかった。


その視線は、佳子が逃げた方向だけに向けられている。


まるで最初から、美月などそこに存在していなかったかのように。


「待って!」


美月は慌てて莉奈へ腕を伸ばした。


掴もうとした指先を、莉奈は身体をわずかにずらすだけで避けた。


足は止めない。


「待ってよ!」


追わなければ。


そう思ったのに、美月の脚から力が抜けた。


その場へ膝をつく。


莉奈の背中が遠ざかっていく。


「……何で」


自分は相手にすらされなかった。


死ぬと思った。


怖かった。


それでも佳子を助けようとした。


なのに莉奈にとって、自分は斬る価値のある障害ですらなかった。


「佳子……」


涙が溢れた。


美月は両手を泥についた。


「ごめん……」


肩を震わせる。


「ごめんなさい……」


その泣き声は、次第に強くなっていく雨音へ呑み込まれていった。


*


佳子は森の中を走り続けていた。


どれほど走ったのか分からない。


息を吸っているはずなのに足りない。


胸の奥が焼けるように痛み、太腿も重くなっている。


それでも止まれなかった。


後ろから聞こえる足音。


美月が残ってくれた。


それなのに足音は消えなかった。


つまり――。


「美月……」


佳子の顔が歪む。


何が起きたのかは分からない。


莉奈が美月を斬ったのか。


それとも、美月の横を抜けてきただけなのか。


確認することはできなかった。


怖かった。


もし振り返って、莉奈の刀に美月の血がついていたら。


その光景を想像しただけで、足が震えそうになる。


斜面を駆け下りる。


足が滑った。


「っ……!」


佳子は咄嗟に木の幹へ手をつき、転倒だけは免れた。


雨脚はさらに強くなっている。


濡れた髪が頬へ張りつき、額から流れる水が目へ入る。


手の甲で乱暴に拭った。


その間にも、足音は近づいてくる。


逃げ切れない。


そう判断した佳子は、走りながら腰へ手を伸ばした。


黒田から渡された、小さな拳銃。


硬い感触を確かめ、引き抜く。


手が震えた。


今まで銃をまともに撃ったことなどない。


ましてや人へ向けるなど、考えたこともなかった。


だが、今は違う。


このまま何もしなければ殺される。


佳子は足を止め、振り返った。


莉奈がいる。


雨の中を走ってくる。


その姿を見た瞬間、恐怖で身体が硬くなった。


それでも両手で拳銃を持ち上げる。


「来ないで!」


莉奈は止まらない。


「来ないでって言ってるでしょ!」


佳子は目を閉じそうになるのを堪え、引き金を引いた。


乾いた銃声が雨音を裂いた。


反動で腕が跳ねる。


弾丸は莉奈の身体から大きく外れ、近くの木の幹を抉った。


莉奈は一瞬だけそちらへ目を動かしたが、足を止めることはなかった。


「……っ!」


佳子はもう一度銃を向ける。


だが照準など定まらない。


銃口が自分でも分かるほど震えている。


その間にも莉奈は距離を縮めてくる。


「くっ……!」


佳子は撃つことを諦め、再び走り出した。


怖い。


ただ、怖い。


背中へいつ刀が振り下ろされるか分からない。


なぜここまで自分が狙われるのか。


その理由を、佳子は完全には知らない。


それでも一つだけ思い当たるものがあった。


「……蓮」


莉奈は異常なほど蓮に執着している。


初めて会った時からそうだった。


蓮を見る時だけ、莉奈は別人のような顔をする。


だから――蓮の近くにいる自分が邪魔なのだ。


「そんなの……知らないよ……!」


佳子は歯を食いしばり、さらに足を動かした。


その時だった。


――ドン。


遠くから、低く重い音が響いた。


佳子は思わず足を緩めた。


「……何?」


銃声とは違う。


もっと大きい。


森の奥から腹へ響くような音。


爆発。


莉奈も一瞬だけ顔を上げた。


そのわずかな反応を見た佳子は、音のした方向へ目を向けた。


誰かいる。


何が起きているのかは分からない。


危険かもしれない。


それでも、一人で莉奈から逃げ続けるよりは可能性がある。


「誰か……!」


佳子は進路を変えた。


爆発音のした方向へ走る。


木々を抜け、ぬかるんだ斜面を越えていく。


しばらくして。


もう一度――。


轟音が響いた。


「きゃっ!」


佳子は思わず頭を庇った。


地面まで微かに震えたように感じる。


周囲の木々から鳥が一斉に飛び立ち、雨空へ消えていった。


今度は先ほどより近い。


「お願い……誰かいて……!」


何が待っているのかも分からないまま、佳子は走った。


やがて、湿った森の匂いに別の臭いが混ざり始めた。


焦げた土。


火薬。


そして、鼻の奥へまとわりつくような血の臭い。


佳子は無意識に速度を落とした。


木々の間から見えてきた景色が、それまでとは明らかに違っていた。


折れた枝が散乱している。


地面の一部が大きく抉れ、土が周囲へ飛び散っている。


爆発が一度だけではなかったことは、離れた位置に残る複数の痕跡からも分かった。


「……何、これ」


佳子は呆然と呟いた。


誰かがここで戦った。


しかも、ついさっきまで。


「誰かいませんか!」


返事はない。


雨音だけが返ってくる。


「お願い! 誰か――」


その声が途中で途切れた。


少し先。


木の根元近くに、人が倒れていた。


佳子は目を凝らした。


見覚えのある服。


髪。


泥に汚れていても、間違えるはずがない。


「……え」


胸が大きく脈打った。


「蓮……?」


次の瞬間には走り出していた。


「蓮!」


神谷蓮が地面に倒れている。


目を閉じ、動かない。


傍らには、見たことのない大きなリボルバーが泥にまみれて転がっていた。


「蓮!」


佳子は駆け寄り、その場へ膝をつこうとした。


だが。


視界の端に何かが入った。


動きが止まる。


泥の中。


人間の腕が落ちていた。


「……っ」


喉が詰まった。


それだけではない。


爆発で抉れた地面の周囲には、泥や折れた枝に混じって、直視することを躊躇うようなものが散らばっている。


身体の一部。


雨がそこに付着した血を薄め、赤い水となって土の窪みへ流れ込んでいた。


「な……に……これ……」


佳子は口元を押さえた。


胃の奥から何かが込み上げてくる。


誰なのか分からない。


なぜこんな状態になったのかも分からない。


ただ一つ。


ここで誰かが死んだ。


それだけは嫌でも理解できた。


「蓮……」


佳子は必死に意識を蓮へ戻した。


今はこっちだ。


蓮はまだ原形を保っている。


倒れているだけかもしれない。


生きているかもしれない。


「蓮、起きて……」


震える手を伸ばす。


肩へ触れようとした、その時。


背後で。


濡れた落ち葉が踏まれた。


佳子の身体が硬直した。


ゆっくり振り返る。


雨の向こうに、莉奈が立っていた。


右手には、あの日本刀。


「……っ!」


佳子は反射的に拳銃を向けた。


しかし莉奈は、佳子を見ていなかった。


その目が大きく見開かれている。


視線は佳子の横を通り越し――地面に倒れている蓮へ向けられていた。


「……蓮?」


その声を聞いた瞬間、佳子は違和感を覚えた。


先ほどまで自分を追っていた時とは、声がまるで違う。


冷たさも。


殺意も。


何もない。


「蓮……!」


莉奈が駆け出した。


「来ないで!」


佳子は拳銃を向ける。


それでも莉奈は止まらない。


「蓮に近づかないで!」


引き金へ指を掛ける。


だが撃てなかった。


莉奈は佳子へ襲いかからなかった。


蓮のそばまで来ると、刀を持ったまま膝をつき、空いている手を伸ばした。


「蓮」


頬へ触れる。


続いて首元へ指を当て、呼吸を確かめる。


数秒。


莉奈の表情が強張る。


そして――。


「……生きてる」


その一言とともに、張りつめていた顔がわずかに緩んだ。


「蓮……よかった」


佳子は拳銃を向けたまま、その様子を見ていた。


莉奈は本気で安心している。


少なくとも今、蓮を殺そうとしているようには見えなかった。


むしろ。


大切な人間をようやく見つけた。


そんな表情にすら見える。


今なら逃げられる。


佳子の頭に、その考えが浮かんだ。


莉奈の意識は完全に蓮へ向いている。


自分には背中すら見せている。


走れば逃げられるかもしれない。


けれど。


「……蓮」


置いていけない。


こんな状態の蓮を、莉奈に任せて逃げる。


そんなことができるはずがなかった。


佳子は拳銃を握り直した。


「蓮から離れて」


莉奈の動きが止まる。


ゆっくりと顔が上がった。


佳子を見る。


その瞬間。


蓮へ向けていた穏やかな表情が消えた。


冷たい視線。


小屋で自分を追ってきた時と同じ目だった。


佳子の背筋を冷たいものが走る。


莉奈の手が、日本刀の柄へ掛かる。


親指が鍔の近くへ触れ、いつでも刃を振るえるように握りが変わった。


佳子は拳銃を両手で構え直す。


「……来ないで」


銃口が震えていた。


それでも下ろさない。


莉奈はゆっくり腰を上げかけた。


だが――。


途中で、蓮を見た。


泥の中に倒れた蓮。


再び佳子を見る。


そして、もう一度蓮へ視線を落とす。


短い沈黙だった。


それでも佳子には、その数秒がひどく長く感じられた。


やがて莉奈は、柄へ掛けていた手から力を抜いた。


日本刀を手放したわけではない。


刀そのものは確かに保持したまま。


ただ、今ここで佳子を斬るために構えようとしていた手を、柄から離した。


「……え?」


佳子の口から声が漏れる。


莉奈は佳子を殺すことより、蓮を選んだ。


刀を持ったまま、空いた腕を蓮の身体へ回す。


「何するの」


返事はない。


「蓮をどうするつもり!?」


莉奈は蓮の上半身を起こした。


意識のない蓮の腕を自分の肩へ回し、身体を支える。


小柄な身体には決して楽な重さではないはずだ。それでも莉奈は蓮を落とさないよう、慎重に立ち上がった。


「待って!」


佳子が一歩進む。


その瞬間だけ、莉奈の目が佳子へ向いた。


刀はまだ持っている。


それだけで、佳子の足は止まった。


追えば斬られる。


理屈より先に、身体がそう理解していた。


「蓮を置いていって」


佳子は必死に声を絞り出した。


「お願いだから……蓮を連れていかないで」


莉奈は答えなかった。


代わりに、肩へ預けた蓮の顔を見た。


雨で濡れた前髪が額へ張りついている。


莉奈はそれを指先でそっと払った。


その仕草には、先ほどまで日本刀を振るって佳子を追っていた人間とは思えないほどの優しさがあった。


「……やっと」


小さく呟く。


「やっと見つけた」


その言葉は佳子へ向けられたものではない。


蓮だけに向けた言葉だった。


莉奈は蓮を支えながら歩き始めた。


「待って!」


佳子が叫ぶ。


莉奈は振り返らない。


「蓮!」


返事はない。


意識のない蓮の足が地面を擦る。


莉奈はそれでも止まらず、森の奥へ進んでいく。


「蓮!」


追わなければ。


佳子はそう思った。


一歩だけ前へ出る。


だが、その先へ足が動かなかった。


莉奈が怖い。


追えば、今度こそ殺される。


自分が撃った弾丸は一発も当たらなかった。


一方で莉奈は、黒田のライフルすら日本刀で壊している。


それでも。


蓮を連れていかれる。


「……蓮」


佳子は唇を噛んだ。


迷っている間にも、2人の姿は雨の向こうへ遠ざかっていく。


やがて莉奈と蓮は、木々の間へ完全に消えた。


佳子だけがその場に残された。


雨は爆発で荒れた地面を濡らし続けている。


足元には、誰かの身体の一部。


少し離れた場所には、蓮が持っていたらしい大きなリボルバー。


何が起きたのか。


誰が死んだのか。


蓮はなぜ倒れていたのか。


莉奈は蓮をどこへ連れていくのか。


何一つ分からなかった。


ただ一つだけ確かなのは――。


莉奈が蓮を連れ去ったということ。


「……どうしよう」


佳子は震える手で拳銃を握った。


この場所に留まり続けるわけにはいかない。


先ほどの爆発を起こした人間が、まだ近くにいる可能性もある。


莉奈だって、蓮をどこかへ運んだあとに戻ってくるかもしれない。


佳子は周囲を見回した。


雨に霞む木々。


その向こうに、かろうじて人工物らしき輪郭が見えた。


古びた建物。


ここからなら、それほど遠くない。


「……あそこ」


佳子は一度だけ、莉奈と蓮が消えた方向を振り返った。


「蓮……」


助けに行きたい。


だが今の自分では、莉奈には勝てない。


まずは生き延びる。


そして誰かを探す。


一人では無理でも、何か方法があるかもしれない。


佳子は濡れた頬を腕で拭った。


そして拳銃を握ったまま、建物へ向かって走り始めた。


背後で雨に打たれ続ける爆発跡は、少しずつ木々の向こうへ見えなくなっていった。

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