第59話 普通に生きたかった
蓮と聡子が拠点として使っている建物へ戻った時、空はすでに厚い雲に覆われていた。
森の向こうから吹き込んでくる風は湿り気を帯び、先ほどまでとは明らかに空気が変わっている。遠くで木々がざわめくたび、今にも雨が降り出しそうな気配が濃くなっていた。
だが今の蓮にとって、天候を気にしている余裕はなかった。
「蓮!」
建物へ入るなり、詩織が立ち上がった。
その手には、蓮が出発前に渡しておいた拳銃が握られている。
蓮がこの島へ来て間もない頃に拾い、そのままバッグへ入れて持ち歩いていたものだ。自分自身、一度も撃ったことはない。それでも負傷した葵と詩織だけを残していく以上、何も持たせないよりはいいと考えて渡した。
しかし突然立ち上がった詩織の手に銃があるのを見て、葵がすぐに声を上げた。
「詩織、銃!」
「あ……」
詩織は自分でも忘れていたように手元を見て、慌てて銃口を床へ向けた。
「ご、ごめん」
「いいよ。ただ、びっくりしただけ」
葵は壁に背中を預けたまま答えた。
その顔には疲労が色濃く残っている。
撃たれた右脚は、蓮たちが出ていった時よりも明らかに悪化していた。応急処置はしていたものの、満足な医療品がない状態では限界があった。
蓮は白い医療箱を持ち上げた。
「見つけた。医療品」
葵の表情がわずかに緩む。
「……よかった」
「ただ、それだけじゃなかった」
蓮は聡子と一度視線を交わした。
詩織が眉を寄せる。
「何かあったの?」
「相馬に会った」
空気が変わった。
葵も身体を起こそうとする。
「相馬に?」
「ああ」
蓮は医療箱を床へ置きながら、森で起きたことを説明した。
物資情報を頼りに医療品の場所へ向かったこと。
目的の白い箱を見つけたこと。
そして、その下に隠されるように黒いケースがあったこと。
「中に銃が入ってた」
蓮が傍らへ置いた大きなリボルバーへ、詩織の視線が向く。
通常の拳銃とは明らかに違う。
銃身も、全体の作りも、異様なほど大きい。
「……それ?」
「ああ」
「すごく大きいね……」
「撃ってみて分かった。見た目だけじゃない」
蓮は自分の両手を見た。
一度撃っただけなのに、あの衝撃はまだ腕の奥に残っているような気がする。
「帰ろうとしたところで相馬が出てきた。あいつ、前とは違う武器を持ってた」
「どんな?」
葵が聞く。
「連続で撃てる小型の銃だ。かなりの数を撃ってきた」
詩織の顔が強張る。
「それで……?」
「こっちも撃った」
蓮が大きなリボルバーを見る。
「初めてだったけどな」
「当たったの?」
「いや」
蓮は首を振った。
「外した。相馬じゃなくて、近くの木に当たった」
そこで言葉を止める。
あの瞬間を思い返す。
引き金を引いた直後の衝撃。
腕ごと持っていかれるような感覚。
そして、弾丸を受けた木。
「……木が倒れた」
「え?」
詩織が聞き返した。
「幹が大きく抉れて、そのまま倒れた。相馬もそれを見て逃げた」
葵が大きなリボルバーを見つめる。
「何それ……」
「俺にも分からない。このゲーム用に用意された特殊な武器なんだと思う」
蓮がそう言うと、詩織の視線が聡子へ移った。
「聡子さんは大丈夫だった?」
「は、はい」
聡子はいつものように、少し控えめに頷いた。
「私は……蓮さんの後ろにいましたから」
「古瀬さんが先に教えてくれたんだ」
蓮が続ける。
「この銃は反動が普通じゃないって。下手に撃ったら腕を痛めるかもしれないって」
詩織が感心したように聡子を見る。
「詳しいんですね」
「えっ」
聡子の肩がわずかに跳ねた。
「い、いえ……その……」
少し困ったように視線を泳がせる。
「私、そういうのが好きで……」
「そういうの?」
「銃とか、軍用品とか……」
聡子は小さく笑った。
「いわゆる……ミリオタ、みたいな」
「へえ……」
詩織は素直に納得したようだった。
葵も特に追及しない。
蓮もその場では何も言わなかった。
ただ――。
胸の奥に残った小さな違和感だけは、消えなかった。
*
葵の治療には、それなりの時間がかかった。
持ち帰った医療品の中から使えるものを選び、傷の状態を確認する。
幸い、これまでよりはまともな処置ができた。
それでも葵の右脚がすぐに元通りになるわけではない。
「しばらく無理に歩くなよ」
蓮が言うと、葵は苦笑した。
「そんな余裕あるのかな、このゲーム」
「なくてもだ。無理して動けなくなったら、もっと困る」
「……分かった」
素直に答えたものの、納得している顔ではなかった。
詩織もその横に座る。
「私がいるから」
「詩織に守られるのも、なんか変な感じ」
「何それ」
少しだけ空気が和らぐ。
だが、蓮は笑えなかった。
相馬が近くにいる。
しかも、あれだけの武器を持っている。
一度退いたからといって、このまま消えてくれる保証はない。
「俺、もう一度周りを見てくる」
詩織がすぐに顔を上げた。
「また行くの?」
「ああ。相馬がどこへ行ったかも気になる」
「でも……」
「遠くまでは行かない」
そう言ってから、蓮は聡子を見る。
「古瀬さん」
「はい?」
「一緒に来てもらっていい?」
聡子は一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに頷く。
「……分かりました」
詩織が何か言いたそうにしている。
蓮はそれに気づきながら、先に言った。
「拳銃はそのまま持っててくれ」
「……うん」
「葵から離れるなよ」
「分かってる」
蓮は大きなリボルバーを持ち、聡子とともに建物を出た。
*
森へ入ってしばらくは、2人ともほとんど話さなかった。
風が強くなっている。
頭上では枝葉が激しく擦れ合い、時折、小さな葉が舞い落ちてくる。
蓮は周囲を警戒しながら歩いていた。
だが意識の半分は、隣を歩く聡子へ向いている。
ずっと考えていた。
最初は小さな違和感だった。
ひとつだけなら、偶然で済ませられた。
だが、それが重なりすぎている。
蓮が足を止めた。
聡子も少し先で立ち止まり、振り返る。
「蓮さん?」
「古瀬さん」
「はい」
蓮はすぐには続けなかった。
聡子が不思議そうに見ている。
「……ありがとう」
「え?」
「ちゃんと言ってなかったから」
蓮は聡子を見る。
「何度も助けてもらった」
聡子の表情がわずかに揺れた。
「そんな……」
「詩織の端末も直してくれた。俺たちが困ってる時も、いろいろ助けてくれた」
「私は……できることをしただけです」
「それでもだ」
蓮は言った。
「感謝してる。本当に」
聡子はしばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ笑う。
「……どういたしまして」
その笑顔を見て、蓮の胸が痛んだ。
できれば、聞きたくなかった。
疑いたくもなかった。
それでも――聞かなければならない。
「だからこそ、教えてほしい」
聡子の笑みが消える。
「……何をですか?」
「古瀬さんは、何者なんだ?」
風が木々を揺らした。
聡子は動かない。
「どういう……意味ですか?」
「最初は気にしてなかった」
蓮はゆっくり言葉を続ける。
「でも、おかしいことが多すぎる」
聡子の顔から少しずつ表情が消えていく。
「詩織の壊れた端末を直した時もそうだ。佐伯さんの端末を使えば直せるって、すぐに判断した」
「それは……」
「真由のことも知ってた」
聡子が黙る。
「俺も詩織も葵も知らなかった名前だ。なのに古瀬さんだけ知ってた」
「前に会ったことがあるって……」
「そう言ってたな」
蓮は頷いた。
「特殊な物資や装置にも妙に詳しい。今日だってそうだ」
蓮は手にしている大きなリボルバーへ視線を落とした。
「俺はこれを見ても、何なのか分からなかった」
聡子は何も言わない。
「でも古瀬さんは、俺が撃つ前から反動が危険だって分かってた」
「さっき言ったじゃないですか。私はそういうものが好きで……」
「それだけなのか?」
聡子の言葉が止まった。
蓮はゆっくりと大きなリボルバーを持ち上げた。
銃口を聡子へ向ける。
聡子の目が見開かれる。
「……蓮さん」
「撃ちたいわけじゃない」
蓮の声は低かった。
「だから答えてくれ」
銃を持つ手に力が入る。
「古瀬聡子」
聡子の目をまっすぐ見る。
「あんたは何者なんだ?」
長い沈黙が落ちた。
風の音だけが聞こえる。
聡子は銃口を見た。
それから蓮を見る。
逃げようとはしなかった。
怒りもしない。
ただ、どこか悲しそうな顔をした。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「私、嘘つくの……あんまり上手じゃなかったですね」
「古瀬さん?」
聡子が息を吸った。
何かを決意したように、口を開く。
その時だった。
――カチッ。
小さな音。
蓮には、それが何の音なのか分からなかった。
だが聡子は違った。
身体が固まった。
顔から血の気が引く。
「……え?」
蓮が眉を寄せる。
「古瀬さん?」
「動かないで!」
突然の声だった。
これまで聞いたことがないほど強い口調。
蓮の足が止まる。
聡子は自分の足元を見ていた。
片足が、落ち葉の積もった地面の上に置かれている。
その下。
わずかに人工物らしきものが見えていた。
聡子の呼吸が浅くなる。
「……嘘」
「何だ?」
「来ないでください」
「だから何が――」
「地雷です」
蓮の表情が変わった。
「……は?」
「たぶん……踏みました」
聡子は足を動かさない。
「絶対に近づかないでください」
蓮は反射的に周囲を見る。
「外せないのか?」
「分かりません。でも……今、足を動かすのは危険です」
「だったら何か――」
「蓮さん」
聡子が静かに呼んだ。
先ほどまでの強い声ではなかった。
「離れてください」
「ふざけるな」
蓮は銃を下げた。
「何か方法があるかもしれない」
「来ないで!」
再び聡子が叫ぶ。
蓮が止まる。
「……お願いです」
聡子の声が震えていた。
「ここで蓮さんまで巻き込まれたら……意味がない」
「意味って何だよ」
聡子は答えなかった。
「さっきの質問にも答えてないだろ」
「……そうですね」
「古瀬さん」
聡子は足元を見たまま、少しだけ笑った。
「こんな状況になってから話すなんて……ずるいですよね」
「何の話だ」
しばらく沈黙してから、聡子は顔を上げた。
「このゲームには……ゲームマスターがいます」
蓮の眉が動く。
「ゲームマスター?」
「はい」
「何だ、それ」
「ゲームを……進めるための存在です」
聡子は言葉を選ぶように話した。
「ゲームが止まらないようにする。必要なら参加者を誘導する。状況を動かす」
蓮は何も言わなかった。
これまでの聡子の行動が、頭の中を駆け巡る。
妙に多い知識。
端末。
物資。
真由の名前。
特殊な装置。
そして――時折見せていた、普通の参加者とは思えない判断。
「まさか……」
聡子が目を伏せる。
「15人の中にいるのか?」
沈黙。
それだけで十分だった。
蓮の目が見開かれる。
「……古瀬さん」
聡子は小さく頷いた。
「ごめんなさい」
風が吹く。
聡子の髪が揺れた。
「私が……その1人です」
蓮は言葉を失った。
銃を向けて問い詰めた時、何かを隠しているとは思っていた。
だが、ここまでとは思っていなかった。
「じゃあ……最初から?」
「はい」
「俺たちと同じ参加者じゃなかったのか?」
聡子はすぐには答えない。
「参加者として入っています。でも……役割が違います」
「ゲームを進めるため?」
「……はい」
蓮の奥歯が噛み締められる。
怒りがないわけではない。
だが、それ以上に混乱していた。
目の前にいる聡子は、これまで何度も助けてくれた。
それも全部演技だったのか。
「じゃあ、今までのことも全部――」
「違います」
聡子がすぐに遮った。
「全部が嘘だったわけじゃありません」
「何を信じろっていうんだよ」
「……そうですよね」
聡子は寂しそうに笑った。
「信じられないですよね」
蓮は何も言えない。
聡子は続けた。
「もう一つ……伝えておきます」
「まだあるのか」
「この15人の中には、今回が初めてじゃない人がいます」
蓮が顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「2回目の人がいます」
「2回目……?」
「以前にも、このゲームに参加したことがある人です」
蓮の背筋に冷たいものが走る。
「誰だ」
聡子は答えなかった。
「古瀬さん。誰なんだ」
「……それは」
聡子が一瞬だけ迷う。
しかし首を横に振った。
「今は言えません」
「今はって……!」
「でも、覚えておいてください」
聡子は蓮を見つめた。
「このゲームは……蓮さんが思っているより、ずっとおかしい」
蓮は父の言葉を思い出した。
――あのゲームには関わるな。
何度も頭をよぎった言葉。
その意味が、また少しだけ重くなる。
「古瀬さんは……何を知ってるんだ」
「全部は話せません」
「まだ隠すのか?」
「……はい」
聡子の答えは静かだった。
「ごめんなさい」
蓮は苛立ちを抑えられなかった。
「だったら、何で今こんな話をした」
聡子は少しだけ考えた。
そして、穏やかな顔で答えた。
「蓮さんに……生きてほしいからです」
「……俺に?」
「はい」
「なんで」
聡子は答えようとして、言葉を止めた。
視線が少し遠くなる。
「私だって……」
声が震えた。
「こんなこと、やりたくなかった」
蓮が黙る。
「人が死ぬところなんて、見たくなかった」
聡子の目に涙が浮かぶ。
「誰かを疑わせたり、怖がらせたり……争うように仕向けたり」
それでも足は動かせない。
少しでも体勢を変えれば何が起きるか分からない。
だから聡子は、ただその場所に立ち続ける。
「私……もっと普通に生活したかった」
その声は、ゲームマスターのものではなかった。
ただの1人の女性の声だった。
「普通に朝起きて……仕事して」
聡子は小さく笑った。
「帰りに買い物して……休みの日にはどこかに出かけて」
涙が頬を伝う。
「誰かとご飯食べて」
蓮は何も言えなかった。
「それでよかったんです」
聡子が呟く。
「本当に……それだけでよかった」
森の中に、2人の声だけが残っていた。
蓮は聡子を見る。
今まで見てきた彼女と、ゲームマスターだと告白した彼女が、頭の中でうまく重ならない。
「だったら……なんで」
蓮が聞く。
「なんでゲームマスターなんかやってるんだよ」
聡子は目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「答えになってない」
「そうですね」
それ以上は言わなかった。
いや。
言えないのかもしれない。
蓮には、その違いすら分からなかった。
「とにかく助ける」
蓮が周囲を見る。
「何か使えるものを探す。枝でも、石でも――」
「蓮さん」
「動くなよ」
「蓮さん!」
聡子の声が響いた。
蓮が振り返る。
「離れてください」
「嫌だ」
「お願いです」
「嫌だって言ってるだろ」
「私は――」
聡子が一度言葉を止める。
そして、蓮をまっすぐ見た。
「私は、蓮さんに生きてほしい」
「だからって古瀬さんを置いていけるかよ」
「置いていってください」
即答だった。
蓮の顔が歪む。
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないです」
聡子の声も震える。
「怖いですよ」
初めてだった。
聡子が、はっきりと自分の恐怖を口にした。
「死にたくないです」
涙を拭うことすらできない。
「私だって……死にたくない」
「だったら!」
「だから蓮さんまで死なないで!」
蓮の言葉が止まった。
聡子は息を整えようとする。
「お願いします」
足元は動かない。
一歩も。
「離れて」
蓮は拳を握った。
「……古瀬さん」
「もっと」
「でも――」
「もっと離れてください」
聡子の声は弱い。
それでも、拒否を許さない強さがあった。
蓮は一歩下がった。
聡子がそれを見ている。
もう一歩。
さらに一歩。
距離が開いていく。
聡子の姿が少しずつ遠くなる。
「そのまま」
聡子が言った。
「お願いだから……生きて」
蓮は答えられなかった。
ただ聡子を見つめたまま、ゆっくりと距離を取る。
森を吹き抜ける風が、2人の間を通り抜けていった。
聡子は地雷を踏んだ足を、最後まで微動だにさせなかった。




