第58話 強襲
小屋の扉を閉めると、黒田は一度だけ中を振り返った。
佳子は美月のすぐそばに座っている。
先ほどまで震えていた美月は、少しだけ落ち着きを取り戻しているように見えた。それでも膝を抱えるようにして身体を小さくしており、視線はほとんど上がらない。
黒田が近づいただけで怯えさせてしまったことを思えば、今は佳子に任せるしかなかった。
「少し周りを見てくる」
そう告げた黒田に、佳子が心配そうな顔を向ける。
「本当に大丈夫ですか? 傷……」
「遠くには行かない」
左の上腕と脇腹には、相馬に撃たれた傷が残っている。
応急処置こそしているものの、動けば痛む。特に脇腹は身体を捻るだけでも鈍い痛みが走った。
それでも、ここに留まり続ける以上、周囲の状況を確認しないわけにはいかなかった。
相馬がどこにいるのかも分からない。
三浦がどうなったのかも分からない。
そして、この島にはまだ危険な参加者がいる。
黒田はG施設で手に入れたライフルを手にすると、小屋の外へ出た。
「何かあっても、すぐ外に出るな」
「……はい」
「黒田さんも、ちゃんと戻ってきてください」
佳子の言葉に、黒田は小さく頷いた。
扉が閉まる。
森の中には、湿った風が流れていた。
空は先ほどよりも暗い。
まだ雨は降っていないが、厚い雲が山の上を覆い始めている。風が木々の葉を揺らすたび、低くざわめくような音が辺りに広がった。
黒田はライフルを下げたまま、ゆっくりと小屋の周囲を歩く。
足跡。
折れた枝。
草が不自然に倒れている場所。
誰かが近くを通っていないか、一つずつ確認していく。
元警察官だった頃なら、もっと冷静に見られただろう。
だが今は身体が思うように動かない。
左腕に力を入れるたび傷が疼き、歩く振動だけでも脇腹に痛みが響く。
それでも黒田は足を止めなかった。
小屋から離れすぎない範囲を円を描くように確認していく。
やがて――。
黒田の足が止まった。
前方。
木々の隙間に、人影があった。
黒田は反射的にライフルを持ち上げる。
人影も止まった。
数十メートルほど先。
細い木の幹の間に、女が立っている。
長い髪。
華奢な身体。
そして、その手には――日本刀。
「……莉奈」
黒田の表情が険しくなった。
忘れるはずがない。
以前、一度襲われている。
あの時も、まともな会話が成立する相手ではなかった。
莉奈も黒田に気づいている。
しかし逃げようとはしなかった。
日本刀を片手に下げたまま、ゆっくりとこちらへ身体を向ける。
黒田はすぐには動かなかった。
ライフルの銃口も、まだ完全には莉奈へ向けない。
相手が危険なのは分かっている。
だからといって、人間へ銃を撃つこととは別問題だった。
だが――。
黒田の視線が、莉奈の服へ落ちた。
「……血?」
赤黒い染みが付着している。
一滴や二滴ではない。
服の一部には、明らかに新しい血が飛び散っていた。
さらに、莉奈が持つ日本刀。
刃にも赤いものが残っている。
雨にも洗い流されていない、生々しい血だった。
黒田の目が細くなる。
誰の血だ。
怪我をしたのか。
いや。
莉奈自身が出血しているようには見えない。
なら――。
誰かを斬った。
その可能性が真っ先に浮かんだ。
もちろん、それだけで誰かが死んだとは断定できない。
この島では誰もが負傷している。
誰かと戦っただけかもしれない。
だが、黒田は莉奈に一度襲われている。
そして今、彼女は血のついた日本刀を持って立っている。
警戒する理由としては十分すぎた。
「莉奈」
黒田が低い声で呼びかける。
返事はない。
「その血、誰のだ」
莉奈は答えなかった。
ただ、じっと黒田を見ている。
その視線に、黒田は背筋が冷えるような感覚を覚えた。
恐怖ではない。
相手が何を考えているのか、まったく読めない。
「そこで止まれ」
莉奈が、一歩進んだ。
黒田はライフルを構える。
「止まれ」
さらに一歩。
「……警告したぞ」
それでも止まらない。
莉奈の足取りは速くない。
むしろ不自然なほど静かだった。
だが、確実に距離を縮めてくる。
黒田の指に力が入る。
撃つのか。
人を。
警察官だった頃でさえ、銃を撃つという判断は簡単なものではなかった。
まして今は、法律も秩序も失われた島だ。
だからこそ、自分まで簡単に一線を越えていいとは思えない。
だが小屋には佳子と美月がいる。
自分がここで止めなければ、この女があの2人のところへ向かう可能性がある。
黒田は一度だけ息を吐いた。
「……止まれ!」
莉奈が地面を蹴った。
その瞬間、黒田は引き金を引いた。
銃声が森を裂く。
莉奈の身体が横へ流れた。
弾丸がその脇を抜け、後方の木へ食い込む。
「な……」
避けた。
黒田が驚くより早く、莉奈が走り出す。
木から木へ。
一直線には来ない。
黒田の視線から外れるように進路を変えながら、一気に距離を詰めてくる。
黒田は再び銃口を向けた。
傷んだ左腕が震える。
「来るな!」
もう一度、銃声。
莉奈が木の陰へ滑り込む。
外れた。
次に姿が見えた時には、距離が半分以下になっていた。
「くそっ……!」
黒田は後退しながら銃口を向ける。
だが莉奈は止まらない。
日本刀を持ったまま、低く身体を沈めるようにして踏み込んできた。
近い。
近すぎる。
黒田はライフルを莉奈との間へ割り込ませた。
その直後。
銀色の軌跡が走った。
甲高い音が響く。
黒田の手に異様な衝撃が伝わった。
莉奈が横を通り抜ける。
黒田は反射的に距離を取った。
そして、自分の手にあるライフルを見る。
一瞬、理解できなかった。
銃口側が――ない。
地面へ金属片が落ちる。
切断された銃身の一部だった。
「……銃身を、斬った?」
黒田が目を見開く。
あり得ない。
少なくとも、黒田の知る普通の日本刀で簡単にできることではない。
莉奈が持つ刀を見る。
刃こぼれしているようにも見えない。
血に濡れた刃が、曇った空の下で鈍く光っている。
特殊な武器。
このゲームの運営が用意したものなら、常識を当てはめる方が間違っているのかもしれない。
莉奈が振り返った。
黒田は迷わなかった。
今の自分では勝てない。
傷を負っているうえに、ライフルまで使えなくなった。
ここで意地を張れば死ぬ。
そして自分が死ねば、小屋の2人も危ない。
黒田は切断されたライフルを捨てると、森の中へ走った。
脇腹が激しく痛む。
それでも足を止めない。
わざと小屋とは違う方向へ進む。
莉奈の気配が後ろから追ってくる。
黒田は木々の間を縫い、斜面を下り、倒木を越えた。
途中で方向を変える。
さらにもう一度。
自分を追わせて、小屋から遠ざける。
呼吸が乱れる。
傷口が熱を持っている。
それでも黒田は走った。
しばらくして、後方の気配が薄くなった。
黒田は木の陰に身を寄せる。
息を殺して待つ。
何も聞こえない。
風。
木々のざわめき。
自分の荒い呼吸。
「……撒いたか」
確信はなかった。
だが、これ以上離れるわけにはいかない。
黒田は大きく迂回しながら、小屋へ戻ることにした。
*
「黒田さん?」
小屋の扉が開いた瞬間、佳子が立ち上がった。
黒田の顔を見て、その表情が変わる。
「どうしたんですか?」
「夢篠、橘」
黒田は荒い呼吸のまま室内へ入り、扉を閉めた。
「ここを出るぞ」
「え?」
「今すぐだ」
美月も顔を上げる。
黒田は壁際へ置いていた荷物へ手を伸ばした。
佳子が近づく。
「何があったんですか?」
「莉奈だ」
その名前を聞いた瞬間、佳子の表情が強張った。
「……莉奈?」
「ああ。近くにいる」
黒田は短く答えながら、使える物をまとめようとする。
「血のついた日本刀を持ってた。誰の血かは分からない。だが、俺を見つけて近づいてきた」
「戦ったんですか?」
「撃った。外した」
佳子が息を呑む。
「それから――」
黒田は一瞬言葉を切った。
自分でも、まだ信じきれていなかった。
「ライフルの銃身を斬られた」
「……え?」
「刀でだ」
佳子の顔から血の気が引く。
美月も不安そうに黒田を見ていた。
「普通の刀じゃない。あれを相手に、この小屋に籠もるのは危険だ。すぐ移動する」
黒田は佳子を見る。
「夢篠。さっき渡したものは持ってるな」
佳子は小さく頷き、黒田から受け取った小型拳銃とナイフがあることを確認する。
「橘、立てるか」
黒田がそう言った瞬間、美月の肩がわずかに震えた。
それを見て、黒田はすぐに動きを止めた。
近づかない。
「……自分で立てるか」
言い直す。
美月は唇を噛みながら頷いた。
「はい……」
佳子が美月のそばへ行く。
「一緒に行こう」
美月が佳子の手を取った。
その時だった。
ぞくり、と黒田の背中を嫌な感覚が走った。
音がした。
小屋の外。
何かが木材を擦ったような、細い音。
黒田が扉を見る。
「下がれ!」
叫んだ直後――。
扉に一本の線が走った。
佳子が美月を抱くようにして後退する。
次の瞬間、扉が斜めに裂けた。
木片が室内へ飛び散る。
さらにもう一閃。
古い木製の扉が耐えられるはずもない。
大きく切り裂かれ、崩れ落ちる。
外から湿った風が吹き込んだ。
そして。
壊れた入口の向こうに、莉奈が立っていた。
「……っ」
佳子の呼吸が止まる。
莉奈は何も言わない。
血に濡れた日本刀を下げたまま、室内を眺めている。
黒田。
美月。
そして佳子。
3人を順番に確認するような視線。
「橘を連れて逃げろ」
黒田が小さく言った。
「でも――」
「行け」
莉奈が一歩入ってくる。
黒田は武器を失っている。
それでも迷わなかった。
莉奈が刀を振れる距離へ入る前に、一気に床を蹴った。
「うおおっ!」
黒田が莉奈へ飛びかかる。
身体ごと押さえ込むつもりだった。
だが莉奈は半歩身体をずらした。
黒田の腕が空を切る。
脇腹の傷が痛み、体勢が崩れる。
その横を莉奈がすり抜けた。
黒田へ追撃する――。
そう思った。
違った。
莉奈の動きが止まった。
顔が上がる。
その視線の先。
佳子がいた。
莉奈の表情が変わった。
それまで黒田を見ていた目から、他のすべてが消えていく。
美月すら見ていない。
ただ佳子だけを見つめている。
唇が、ほんのわずかに動いた。
「……見つけた」
佳子の背筋を冷たいものが走った。
「夢篠、逃げろ!」
黒田が叫ぶ。
莉奈が動いた。
黒田ではない。
一直線に佳子へ向かう。
「佳子……!」
美月の声が上がる。
黒田が横から莉奈へ飛びつこうとした。
莉奈は振り向きもしなかった。
黒田の身体へ蹴りを放つ。
「ぐっ!」
腹部を蹴られ、黒田がよろめく。
それでも倒れない。
莉奈はもう黒田を見ていなかった。
佳子へ向けて日本刀を振り上げる。
佳子が美月を押す。
「走って!」
2人が出口とは反対側へ逃げようとする。
莉奈が追う。
その足首を――。
黒田が掴んだ。
「……っ!」
莉奈の身体が前へ崩れる。
床へ手をつき、日本刀の切っ先が木板を削った。
「今だ!」
黒田が叫ぶ。
佳子は美月の手を掴んだ。
「行くよ!」
「う、うん……!」
2人は壊れた入口から外へ飛び出す。
森へ。
振り返らない。
莉奈が起き上がろうとする。
黒田は両手でその足を離さなかった。
「行かせるか……!」
莉奈が初めて黒田を見下ろした。
苛立ち。
それまでほとんど感情のなかった顔に、わずかな不快感が浮かぶ。
「離して」
「断る」
莉奈が足を振る。
黒田は食らいつく。
傷ついた左腕に力が入らない。
それでも離さない。
佳子たちの足音が遠ざかっていく。
あと少し。
少しでも遠くへ。
莉奈は一度、逃げていく佳子の方向を見た。
そして黒田へ視線を戻す。
次の瞬間。
莉奈の足が黒田の脇腹へめり込んだ。
「がっ……!」
相馬に撃たれた傷。
そこを正確に蹴られた。
激痛が身体を突き抜ける。
黒田の指から力が抜ける。
「く……そ……!」
莉奈は拘束から足を引き抜いた。
黒田へ止めを刺そうとはしなかった。
日本刀を握り直すことすらしない。
すぐに身体の向きを変える。
佳子が逃げた方向へ。
「待て……!」
黒田が床に手をつき、立ち上がろうとする。
だが脇腹の痛みで身体が言うことを聞かない。
莉奈はそのまま小屋を飛び出した。
木々の向こうへ消えていく。
「待て……莉奈!」
返事はない。
黒田は歯を食いしばった。
追わなければならない。
分かっている。
だが、立てない。
拳を床へ叩きつける。
「ちくしょう!」
叫びが、壊れた小屋の中に響いた。
外では風が強くなっていた。
黒い雲に覆われた空から、最初の一滴が落ちる。
そしてもう一滴。
雨が、降り始めようとしていた。




