第55話 邪魔するもの
白石悠真は森の中を歩いていた。
小屋を飛び出してから、どれくらい経ったのか分からない。
最初はただ走っていた。
黒田が追ってくるかもしれない。
そう思い、何度も後ろを振り返りながら森の奥へ逃げ続けた。
だが、追ってくる気配はなかった。
長い銃を持っていたとはいえ、黒田は負傷していた。美月と佳子も小屋に残っている。
追ってくる余裕などないのだろう。
それが分かると、白石はようやく速度を落とした。
「……くそ」
木の幹へ手をつき、荒い呼吸を整える。
頭の中から佳子の顔が消えない。
――最低。
――軽蔑してる。
思い出すたびに腹の底が熱くなる。
「何なんだよ……」
自分だって好きでこんな島に来たわけじゃない。
好きで藤堂を置いてきたわけでもない。
助けを探しに行った。
それなのに藤堂は死んだ。
自分が戻れない間に。
そして佳子は、その最期を見たという。
「だったら……」
白石は奥歯を噛んだ。
「だったら助けろよ……」
自分でも筋の通らない怒りだと分かっていた。
それでも止められなかった。
どうして自分だけ責められる。
どうして自分だけが最低なんだ。
相馬は人に銃を撃っている。
この島ではすでに何人も死んでいる。
それなのに自分だけが、あんな目で見られた。
黒田にも銃を向けられた。
「ふざけんなよ……」
白石は再び歩き始めた。
何かを考えていなければ、藤堂の顔が浮かぶ。
だから佳子への怒りを考えた。
美月への苛立ちを考えた。
黒田への屈辱を考えた。
その方が楽だった。
しばらく歩いた時だった。
前方から物音がした。
白石は足を止める。
誰かいる。
反射的に太い木の陰へ身体を隠した。
足音。
ゆっくり近づいてくる。
白石は息を潜めた。
木々の隙間から、人影が見えた。
女だった。
1人。
白石は目を細める。
「……莉奈?」
間違いない。
以前にも見た女。
蓮に異様な執着を見せていた莉奈だった。
莉奈は白石には気づかず、森の中を歩いている。
そして、その手には――。
「……刀?」
白石の視線が止まった。
鞘に収められているが、見間違えようがない。
日本刀。
どこで手に入れたのかは分からない。
だが武器だ。
白石は自分の手を見る。
今の自分にはまともな武器がない。
この先、誰かに襲われれば抵抗することすら難しい。
黒田のような銃を持った相手ならなおさらだ。
莉奈は1人。
女。
刀さえ奪えれば――。
そこまで考えたところで、佳子の顔が浮かんだ。
――軽蔑してる。
白石の拳に力が入った。
「……くそ」
莉奈へ視線を戻す。
あの女も同じだ。
きっと自分を見れば、佳子と同じ目をする。
だったら。
白石は木陰から出た。
「おい」
莉奈が足を止める。
ゆっくり振り返った。
白石を見る。
「……誰?」
その一言で、白石の眉が動いた。
「白石だよ」
「ああ」
莉奈は興味なさそうに答えた。
「いたね、そんな人」
「……お前」
白石の苛立ちが増す。
莉奈はそれ以上話すつもりもないのか、再び歩き出そうとした。
「待てよ」
「何?」
「その刀、どこで手に入れた」
莉奈の視線が腰元へ落ちる。
「これ?」
「ああ」
「関係ないでしょ」
「よこせよ」
莉奈が白石を見る。
数秒の沈黙。
「……嫌」
「お前1人で持ってても仕方ないだろ」
「何で?」
「危ないだろうが」
莉奈は首を傾げた。
「だから持ってるんだけど」
「そういう意味じゃねえよ」
白石が一歩近づく。
「俺が持ってた方が使える」
莉奈の目が僅かに細くなった。
「使える?」
「ああ」
「あなたが?」
その言い方が気に障った。
「何だよ」
「別に」
「馬鹿にしてんのか?」
「してない」
莉奈は白石の横を通り過ぎようとした。
その態度が、佳子と重なった。
自分など相手にする価値もない。
そう言われているように感じた。
「待てって言ってんだろ!」
白石が莉奈の肩を掴んだ。
莉奈の足が止まる。
「……触らないで」
低い声だった。
「刀よこせ」
「離して」
「よこせって言ってんだよ!」
白石は莉奈の肩を引き、自分の方へ向かせた。
同時に、刀へ手を伸ばす。
莉奈の手が白石の手首を掴んだ。
「触らないでって言った」
「離せ!」
白石が腕を振る。
莉奈の手が外れた。
そのまま白石は刀の柄を掴もうとする。
莉奈が半歩後ろへ退いた。
白石の手が空を切る。
「お前――!」
白石がさらに踏み込んだ。
莉奈は腰を落とした。
左手で鞘を押さえる。
右手が柄へ掛かる。
白石の動きが一瞬止まった。
「……抜くのかよ」
莉奈は答えない。
「俺を斬る気か?」
「近づかないで」
「できるのかよ」
白石が笑った。
「人を斬れるのか?」
莉奈の目が白石を見る。
その表情に怯えはなかった。
それが、さらに白石を苛立たせた。
「脅してるだけだろ」
一歩。
白石が近づく。
「やめた方がいいよ」
莉奈が言った。
「うるせえ」
さらに一歩。
「最後に言うけど」
莉奈の右手が柄を握り直した。
「来ないで」
白石は止まらなかった。
むしろ莉奈へ向かって一気に踏み込んだ。
刀を抜かれる前に腕を押さえる。
そう考えた。
白石の右手が莉奈の手首へ伸びる。
その瞬間。
鞘から刃が走った。
白石には何が起きたのか分からなかった。
銀色の軌跡が視界を横切る。
直後、右腕に焼けるような痛みが走った。
「ぐあっ!」
白石は反射的に後ろへ退いた。
右前腕が切られている。
血が流れ始めた。
「てめえ……!」
莉奈は抜いた日本刀を両手で構えていた。
呼吸は少し乱れている。
だが逃げない。
「本当に……斬りやがったな」
「近づかないでって言った」
「ふざけんな!」
白石が怒鳴った。
近くに落ちていた太い枝を拾う。
片手で握り、莉奈へ向ける。
「殺してやる!」
莉奈の眉が僅かに動いた。
白石が枝を振り上げ、走り出した。
莉奈の頭を狙って振り下ろす。
莉奈は身体を横へずらした。
枝が肩の横を通過する。
白石はそのまま横薙ぎに振る。
莉奈が刀で受ける。
硬い音が森に響いた。
枝の先端が裂けた。
「っ!」
莉奈が一歩退く。
白石は止まらない。
枝を捨て、そのまま距離を詰めた。
刀は近づけば使いにくい。
そう考えた。
莉奈の両腕を掴もうとする。
右手で刀を持つ腕へ。
左手で肩へ。
莉奈が後ろへ下がる。
白石の指が服を掴んだ。
「捕まえた!」
白石が莉奈を引き寄せる。
莉奈の体勢が崩れた。
刀の切っ先が地面へ向く。
白石はその腕を押さえようとした。
だが莉奈は刀を手放さなかった。
身体を白石の横へ滑らせる。
掴まれた服が引っ張られる。
白石の身体が半歩前へ流れた。
その横を抜けながら、莉奈が刀を振った。
刃が白石の脇腹を切り裂く。
「がっ……!」
白石が身体を折った。
服が裂ける。
血が滲み、すぐに赤い範囲が広がっていった。
「てめぇ……!」
それでも白石は倒れなかった。
痛みより怒りの方が強かった。
莉奈へ向き直る。
「女のくせに……!」
莉奈の表情が変わった。
「……何?」
白石が突っ込む。
莉奈は刀を構え直す。
だが白石は止まらない。
左手で莉奈の刀を持つ腕へ掴みかかった。
莉奈が刃を引く。
白石の掌が切れた。
それでも掴もうとする。
「うおおおっ!」
莉奈が身体を捻った。
白石の左手をかわす。
一歩踏み込み――刀を振る。
今度は浅くなかった。
刃が白石の胴を深く切り裂いた。
「……っ」
白石の身体が止まった。
目が大きく開く。
何が起きたのか理解できないような顔で、自分の身体を見る。
服が赤く染まっていく。
手で押さえる。
指の間から血が溢れた。
「……嘘だろ」
膝が落ちる。
莉奈は刀を構えたまま、白石から距離を取った。
「俺……」
白石は地面へ片手をついた。
「こんな……」
息を吸おうとしても、上手く入らない。
頭の中に藤堂が浮かんだ。
腹を撃たれ、地面に倒れていた藤堂。
あの時、自分は言った。
助けを呼んでくる。
待ってろ。
そう言って離れた。
「藤堂……」
声が掠れる。
戻れなかった。
藤堂は死んだ。
そして自分も――。
「……俺……」
白石の身体が傾いた。
そのまま地面へ倒れる。
しばらく身体が僅かに動いていた。
やがて、それも止まった。
森が静かになった。
莉奈は動かなかった。
刀を握ったまま、白石を見ている。
自分の呼吸だけが聞こえる。
「……死んだ?」
返事はない。
莉奈は慎重に近づいた。
白石は動かない。
莉奈はその顔を見下ろした。
初めてだった。
自分の手で、人を殺した。
もっと何か感じると思っていた。
恐怖。
後悔。
吐き気。
罪悪感。
けれど――。
「……この人が悪いんだよね」
莉奈は呟いた。
自分は何度も警告した。
来るなと言った。
刀に触るなと言った。
それでも白石が襲ってきた。
だから斬った。
「邪魔したから」
その言葉を口にした時、妙にしっくりきた。
莉奈は刀へ目を落とした。
刃に血が付いている。
白石の血。
少し前まで生きていた人間の血。
それでも手は震えていなかった。
莉奈の頭に浮かんだのは、別の人間だった。
蓮。
最初に会った時から気になっていた。
もっと話したかった。
もっと自分を見てほしかった。
なのに。
蓮の周りには、いつも誰かがいる。
女。
邪魔な女たち。
「……詩織」
最初に浮かんだ。
蓮のそばにいる女。
そして――。
「佳子」
その名前を口にした時、莉奈の目が細くなった。
佳子。
蓮と話している時の距離。
蓮が佳子を見る目。
佳子が蓮を見る目。
思い出すだけで胸の奥がざわつく。
「やっぱり……邪魔」
今までなら、そこから先へ進むことには僅かな迷いがあった。
殺す。
言葉にすることはできても、本当に人を殺すことがどういうことなのか分かっていなかった。
けれど今は違う。
足元には白石がいる。
自分が斬った。
そして死んだ。
それでも自分は立っている。
ゲームは続いている。
何も終わっていない。
「……そっか」
莉奈は小さく笑った。
「邪魔なら、いなくすればいいんだ」
女だけではない。
今日の白石のように、自分を邪魔する人間。
蓮のところへ行く邪魔をする人間。
自分から何かを奪おうとする人間。
「そういう人も……いらない」
莉奈の中で、何かが静かに形を変えていった。
この島では法律など適用されない。
ゲームのルールにも、殺してはいけないとは書かれていない。
だったら。
「蓮の近くにいる女は、いらない」
刀を握り直す。
「邪魔する人も、いらない」
莉奈はもう一度、佳子の顔を思い浮かべた。
詩織も邪魔だ。
他の女も邪魔になるかもしれない。
けれど――佳子だけは違う。
蓮と親しそうにしていた。
自分が近づこうとした時も、蓮のそばにいた。
あの女だけは。
「佳子は……絶対に殺す」
その言葉に、今度は迷いがなかった。
莉奈は白石の死体から目を離した。
刀についた血を落とし、再び鞘へ収める。
もう白石には興味がなかった。
彼は蓮とは関係ない。
ただ、自分を邪魔したから死んだ。
それだけ。
莉奈は森の先を見る。
「待っててね、蓮」
静かな声だった。
「邪魔なもの、全部なくすから」
そして莉奈は、白石の死体を森の中に残したまま歩き出した。




