第2話 目覚め
鳥の鳴き声に混じって、遠くから波の音が聞こえていた。寄せては返すその響きをぼんやりと聞きながら、蓮はゆっくりと目を開いた。
最初に見えたのは、木々の隙間からのぞく薄暗い空だった。夜が明けてから、それほど時間は経っていないらしい。森には白い靄が残り、湿った土と草の匂いが漂っていた。
「……ここ、どこだ?」
身体を起こした途端、背中に鈍い痛みが走った。顔をしかめて手をつくと、掌に湿った落ち葉が貼りついた。どうやら、地面に直接寝かされていたらしい。
服についた土を払いながら周囲を見回しても、目に入るのは木と草ばかりだった。鬱蒼とした茂みが視界を遮り、その向こうに何があるのかも分からない。少なくとも、自分でこんな場所へ来た記憶はなかった。
蓮は額を押さえ、最後に覚えていることを探った。昨日は何をして、どこにいたのか。誰かと会っただろうか。思い出そうとしても、ここで目を覚ますまでの経緯だけが、どうしてもつながらなかった。
眠っていたのか、酒を飲んでいたのか。それとも、何か別のことがあったのか。
考えながら顔を動かしたとき、首元に硬いものが触れた。
「なんだ、これ……」
反射的に手を伸ばすと、冷たい金属の感触が指先に伝わった。首を一周するように、見覚えのない輪が取り付けられている。指を差し込もうとしても隙間はほとんどなく、後ろまで探ってみたが、留め具らしいものも見つからなかった。
両手をかけて引っ張ると、首の皮膚が引きつれた。痛みに力を緩めても、輪の位置は少しも変わっていなかった。
「……悪趣味すぎるだろ」
誰が、何のためにこんなものをつけたのか。考えようにも、手掛かりがなさすぎた。首元から手を下ろした蓮は、そのとき初めて、少し離れた地面に黒いものが落ちていることに気づいた。
立ち上がり、周囲を警戒しながら近づく。落ち葉の上に置かれていたのは、薄型の黒い端末だった。
「……タブレット?」
拾い上げると、電源はすでに入っていた。画面の中央には、見覚えのない名前が表示されている。
《EXTRA BULLET/エクストラバレット》
「エクストラ……バレット?」
口に出してみても、思い当たるものはなかった。数秒後、画面が自動的に切り替わり、五つの項目が並んだ。
【プレイヤー】
【クリア条件】
【ゲームルール】
【地図】
【端末アルファベット】
ゲームという単語を見た瞬間、胸の奥に嫌な感覚が広がった。知らない森で目を覚まし、首には外せない輪がついている。その状況で示される言葉として、ひどく不穏に思えた。
蓮は少しためらってから、【ゲームルール】に触れた。
《ゲームルール》
《参加者 15名》
《制限時間 72時間》
《首輪が無い状態で72時間生き残ればゲームクリア》
《ゲームクリア者には賞金10億円が与えられます》
《複数のゲームクリア者が存在する場合、賞金はクリア者で分配されます》
《ゲーム中、法律は適用されません》
「……法律が、適用されない?」
蓮の指が止まった。
参加者十五人、制限時間七十二時間。賞金十億円という額にも現実味はなかったが、最後の一文を読むと、笑って済ませる気にはなれなかった。
法律が適用されないとは、どういう意味なのか。何をしても構わないと言っているのか。それとも、何をされても誰も助けてくれないということなのか。
顔を上げても、周囲には変わらず木々が立ち並んでいた。説明する人間はどこにもおらず、手元の端末だけが、一方的に続きを示していた。
《禁止区域への侵入など、ゲームルールに違反した場合、首輪が作動します》
《首輪はいかなる手段を使って外しても構いません》
首輪が作動する。その曖昧な表現が気になり、蓮は画面を送った。下には、解除方法についての説明が続いていた。
《首輪の解除について》
《首輪の解除条件を満たした状態で、PLAYER TERMINALを首輪に読み込ませてください》
《条件を満たしている場合、首輪は解除されます》
《条件によっては、解除条件を満たしたとき自動で首輪は解除されます》
《条件を満たしていない状態でPLAYER TERMINALを読み込ませた場合――》
《首輪は爆発します》
蓮は無意識に首元へ手を伸ばした。
指先に触れた金属は、先ほどと同じように冷たかった。重さも形も変わっていないはずなのに、急に喉元を圧迫されているような気がした。さっきまで力任せに引っ張っていたことを思い出し、ゆっくりと手を離す。
「ふざけんなよ……」
呟いて説明を閉じたが、画面から消えた言葉は頭に残った。
こんなものを、そのまま信じる気にはなれない。だが、嘘だと断定できる根拠もなかった。試しに端末を首輪へ近づけることなど、考えただけで身体が強張る。本当に爆発する可能性が少しでもあるなら、確かめるために命を賭けるわけにはいかなかった。
蓮は気持ちを落ち着けようと息を吐き、次に【地図】を開いた。
画面には、海岸線に囲まれた島の地形が表示された。山や森のほか、いくつかの建物が点在している。現在地らしき印は見つかったが、ほかの参加者の位置を示すものはなかった。
本当に十五人いるのだろうか。いるとしても、どこにいて、どんな人間なのか、何一つ分からない。
しばらく地図を眺めていると、島の中央付近にある名称が目に留まった。
「中央広場……」
蓮は現在地からそこまでの位置関係を確かめ、森の奥へ顔を上げた。
ここに留まっていても、状況が分かるとは思えなかった。ほかにも同じように目を覚ました人間がいるなら、何が起きているのか確かめようとするはずだ。地図に載っている中央広場なら、誰かが向かう可能性はある。
「……行ってみるしかないか」
端末を持ち直すと、蓮は木々の間へ足を踏み入れた。
*
森の中には、道らしい道がなかった。
地面から突き出した木の根を避け、背の高い草をかき分けて進む。歩きやすい場所を選んでいるうちに、いつの間にか進路がずれていた。何度も端末の地図を確認していなければ、とうに方向を見失っていただろう。
時折、遠くから波の音が聞こえた。木々に遮られて海は見えなかったが、その響きに、画面で見た島の形を思い出した。
やがて、大きな木の根元に人影があることに気づき、蓮は足を止めた。
誰かが倒れていた。
身体が強張り、端末を握る手に力が入った。人に会えれば何か分かるかもしれないと思っていたのに、いざ見つけると、すぐには近づけなかった。
ゲーム中、法律は適用されない。
画面で読んだ一文が頭をよぎった。蓮は距離を取ったまま様子をうかがったが、相手は動かなかった。
「……おい」
呼びかけても返事はない。周囲へ目を向けても、ほかに人の気配はなかった。
蓮は慎重に距離を詰めた。木の根元に横たわっていたのは、若い女だった。目を閉じたまま、こちらが近づいても反応しない。
「大丈夫か?」
もう一度声をかけ、顔をのぞき込む。胸元がわずかに上下しているのを確かめて、蓮は小さく息を吐いた。呼吸はしていた。
そのすぐ近くに、黒い端末が落ちていた。蓮は自分の手元と見比べた。同じ形をしている。
「……参加者か」
何か分かることがあるかもしれないと思い、端末へ手を伸ばしかけた。だが、触れる直前で止めた。
自分のものではないし、何が表示されるかも分からない。端末ごとに違う情報が入っているなら、勝手に触らない方がいいだろう。
「……やめとくか」
手を引いて女へ視線を戻すと、その目が開いた。
真正面から目が合い、蓮は動きを止めた。女も状況が分からないのか、こちらを見つめたまま固まっていたが、やがてその表情に恐怖が広がった。
「いやっ!」
「待て」
女は勢いよく上体を起こし、蓮から逃れるように後ずさった。
「来ないで!」
「待てって。落ち着け」
「来ないでって言ってるでしょ!」
蓮がその場に留まっても、女はさらに離れようとした。立ち上がりかけた足が、地面の端末を踏みつけた。
バキッ、と乾いた音が響いた。
「……え?」
女の動きが止まった。ゆっくりと足元へ目を落とすと、黒い端末の画面に、大きな亀裂が走っていた。
「あ……」
蓮も言葉を失った。女は足をどけ、自分が踏んだものを戸惑ったように見下ろしていた。
「……なに、これ?」
「俺が持ってるのと同じだ」
「同じ……?」
蓮は距離を保ったまま、自分の端末を見せた。女はその手元と、足元の端末を交互に見た。
「これ……私の?」
「たぶんな。俺も目が覚めたとき、近くに落ちてた」
「……何なの、これ」
女は恐る恐る端末を拾い上げた。画面は真っ暗だった。側面を押し、何度も画面に触れたが、反応はなかった。
「……壊れた?」
「まあ……思いっきり踏んだからな」
女が黙り込んだので、蓮は言い添えた。
「責めてないから」
彼女は泣きそうな顔で、亀裂の入った画面を見つめていた。
目を覚ましたら知らない森にいて、すぐそばには見知らぬ男がいた。そのうえ、自分のものらしい端末まで壊してしまったのだ。混乱するのも無理はない。蓮自身、目を覚ましてから、まだ何一つ納得できていなかった。
「とりあえず落ち着け。俺も全部分かってるわけじゃない」
女が顔を上げた。
「……あなたも?」
「ああ。俺もここで目が覚めたばかりだ」
蓮は自分の首元を指した。
「これも最初からついてた」
女も自分の首へ手を伸ばした。そこで初めて気づいたらしく、指が金属に触れた瞬間、表情が凍りついた。
「……なに、これ……」
慌てて輪を引っ張り始めたが、外れなかった。彼女は何度か指の位置を変え、やがて蓮へ助けを求めるような目を向けた。
「俺の端末には、ゲームって書いてあった」
「ゲーム?」
「ああ。『エクストラバレット』っていうらしい」
「……何それ」
「俺も知りたい」
女は周囲を見回した。薄暗い森のどこを見ても、見覚えのあるものは見つからないようだった。不安そうに視線をさまよわせた末、再び蓮を見た。
「ここ……どこなの?」
「地図を見る限り、島みたいだ」
「島……?」
小さく聞き返したあと、女は口を閉じた。壊れた端末を持つ手に力が入り、その顔から血の気が引いていった。
「……帰れるの?」
蓮は答えに詰まった。
大丈夫だと言うことはできた。帰れると励ませば、少しは安心させられるかもしれない。だが、方法も分からないまま、そんな約束をする気にはなれなかった。
「……分からない」
今、答えられるのはそれだけだった。
女は壊れた端末を握りしめ、しばらく黙っていた。蓮も何と声をかければいいか分からずにいると、やがて彼女がためらいながら口を開いた。
「……七瀬」
「え?」
「七瀬詩織」
名乗ったあとも、彼女は蓮の反応をうかがっていた。蓮は肩の力を少し抜き、自分も名前を伝えた。
「神谷蓮」
「……蓮?」
「ああ」
詩織はまだ警戒している様子だったが、それも当然だった。こんな場所で最初に会った相手を、名前を聞いただけで信用できるはずがない。蓮も無理に距離を縮めようとはせず、その場に留まった。
そのとき、詩織の手元で画面が光った。
「え……?」
二人は同時に目を落とした。大きな亀裂の走った液晶に激しいノイズが流れ、その中に、白いアルファベットが一文字だけ浮かんでいた。
《A》
「……A?」
詩織が呟いた直後、画面は再び真っ暗になった。
「ちょっと……待って」
彼女は何度も画面に触れたが、もう何も映らなかった。側面を押してみても変わらず、困惑した顔を蓮へ向けた。
「今の、何?」
「分からない」
蓮は自分の端末へ視線を落とした。最初の画面には、確かに【端末アルファベット】という項目があった。まだ開いていないため、何が表示されるのかは知らないが、今見えた文字と関係しているのかもしれなかった。
単に端末を区別するための記号なのか。それとも、何か別の意味があるのか。今の時点では、判断のしようがなかった。
蓮は中央広場のある方角へ目を向けた。
「俺は中央広場に行く」
「……中央広場?」
「地図に載ってる。ここにいるより、何か分かるかもしれない」
詩織は壊れた端末を見下ろし、それから周囲の森へ目を向けた。
一人でここに残るか、見知らぬ男についていくか。どちらを選んでも不安なのだろう。すぐに返事はなく、蓮は黙って待った。
しばらく迷った末、詩織は端末を大事そうに抱え、ゆっくりと立ち上がった。
「……私も行く」
蓮は頷いた。詩織が壊れた端末をバッグへしまうのを待ち、地図を確かめて歩き出す。背後から足音が続いてきたので、振り返ると、彼女は少し距離を取ってついてきていた。
蓮は前へ向き直り、二人が通れそうな場所を探しながら草をかき分けた。
島に連れてこられた十五人のうち、こうして二人が出会った。互いについて知っているのは、まだ名前だけだった。それでも、先ほどまで一人で歩いていた森には、もう一人分の足音が響いていた。
七十二時間という制限も、十億円という賞金も、蓮にはまだ現実のものとして受け止めきれなかった。首に触れる金属の感触だけが、歩くたびに意識へ戻ってくる。
それらが、これから待ち受けるものの、ほんの一部にすぎないことを、二人はまだ知らなかった。
中央広場へ向かうその足取りも、『エクストラバレット』というゲームの始まりにすぎなかった。




