第1話 父親の最後の言葉
父親が死ぬ直前、俺は病室にいた。
消毒液の匂いが薄く漂う室内には、心電図の電子音が一定の間隔で響いていた。ベッドの上で横たわる父親は、浅い呼吸を繰り返している。掛け布団から出た腕は痩せ、手の甲には、昔は気にも留めなかった骨や血管が浮いていた。
昔は、もっと大きな人だった。身体も声も大きくて、家の中にいるだけで、嫌でもその存在を意識させられた。何より、あの人はいつも自信に満ちていた。
競馬で負けても、競艇で負けても笑っていた。カジノで大金を失ったときでさえ、「次で取り返せばいい」と、さほど困った様子もなく口にした。
その「次」が来るたびに家族が何を心配し、何を諦めていたのか、父親が考えたことはあったのだろうか。
俺は、そんな父親が嫌いだった。
家族よりも賭け事を優先し、借金を作ったことも一度や二度ではない。それでも笑っていられる無神経さが、子どもの頃から理解できなかった。もう期待しないと思ってからも、あの笑い方を見るたび、腹の底に同じ苛立ちが湧いた。
だから、父親が死んでも泣かないつもりだった。こうしてベッドのそばに立っているのも、最後だから来ただけだと、自分にはそう言い聞かせていた。
「……お前に、言っておかなきゃならないことがある」
かすれた声に顔を向けると、父親がこちらを見ていた。唇がわずかに動き、言葉に続いて細い息が漏れる。
「何?」
俺が聞き返しても、すぐには返事がなかった。父親は呼吸を整えるようにしばらく黙り、それから、俺の目をまっすぐに見据えた。
その目つきに、俺は戸惑った。さっきまでひどく弱って見えていた顔の中で、目だけが異様なほど鋭く、こちらの返事を逃すまいとしているようだった。
「ゲームには……関わるな」
「……ゲーム?」
「絶対にだ」
意味が分からず、俺は父親の顔を見返した。こんなときに何を言い出すのかと思ったが、本人は至って真剣だった。
「何のゲームだよ」
問いかけに答える代わりに、父親の手が伸びてきた。手首を掴まれ、思わず身体が強張る。痩せた腕のどこに残っていたのかと思うほど、その力は強かった。
「もし……誰かから誘われても……」
言葉の途中で息が途切れた。胸が苦しげに上下しているのに、父親は手を離そうとしなかった。俺は掴まれた手首に目を落とし、それからもう一度、その顔を見た。
「絶対に、行くな」
「親父……?」
今まで、これほど必死に何かを言い聞かせられたことがあっただろうか。叱られたときとも、借金のことで言い争ったときとも違う。何を聞けばいいのか分からないまま、俺は父親の次の言葉を待った。
「お前は……何も知らないままでいい」
それが、父親の最後の言葉だった。
俺の手首を掴んでいた指から力が抜け、父親はゆっくりと目を閉じた。呼びかけようとしたとき、心電図の音が変わった。
ほどなく医師と看護師が病室へ駆け込んできた。声を掛けられてベッドの脇を空けても、俺はその場から動けずにいた。目の前で慌ただしく人が動いているのに、頭の中では、さっきの言葉ばかりが繰り返されていた。
ゲームには関わるな。誰かに誘われても、絶対に行くな。
そんなことを言われても、何も分からなかった。どんなゲームなのか、誰が誘いに来るのか。父親は肝心なことを一つも話さず、俺に約束だけを求めた。
手首には、まだ掴まれていた感触が残っていた。
父親が死んだ後も、あの言葉を忘れることはなかった。普段は思い出さずに過ごしていても、何かの拍子に、病室で俺を見上げていた目が浮かんだ。けれど、考えたところで答えは出ず、やがて俺は、確かめようのない疑問として抱えていくようになった。
その意味を知ることになるのは、三年後だった。
父親が何から俺を遠ざけようとしていたのか。そして、あの人自身が、そのゲームに関わっていたことを、俺は知ることになる。
最初は参加者として生き残り、その後は観客として、ほかの誰かが生き残ろうとする姿を見ていたのだと。
病室にいた俺には、まだ想像することさえできなかった。嫌っていた父親について、自分がどれほど何も知らなかったのかも、あの忠告を理解したときには、もう引き返せなくなっていることも。
ゆっくり書いていきます。




