第19話 残されたもの
「急げ!」
蓮は暗い森を走っていた。背後から、葵と詩織、白石の足音が続いてくる。
張り出した枝が頬を掠め、草が何度も靴に絡んだ。足元を照らす端末の明かりは頼りなく、地面の凹凸も走りながらでは見分けにくかった。それでも、歩く速さに戻すことはできなかった。
拠点の近くにあった特殊物資の印が消えた。誰かが回収したのなら、その人物は建物の近くまで来ていたことになる。
「蓮、待って!」
詩織の声に、蓮は振り返った。少し距離が開いていた。速度を落として待つと、詩織が息を切らせながら追いついてきた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……」
「お前、速すぎるって……」
白石も肩で息をしていた。
「喋れるなら――」
「静かに」
葵の声に、蓮は口を閉じた。
「もう近い」
木々の隙間に、建物の明かりが見えた。
蓮は走るのをやめ、息を整えた。周囲に人影がないか確かめながら、三人へ声を落とした。
「ここからは、ゆっくり行こう」
誰が近くにいるか分からない。四人は互いの位置を確かめながら、建物へ近づいた。
*
入口の扉は閉まっていた。
蓮は壁際に寄り、耳を澄ませた。中から男の声が聞こえた。
「……高橋」
藤堂だった。少し遅れて、高橋が何か答えた。
蓮はようやく息を吐いた。
「俺だ。蓮だ」
中が静かになった。
「蓮?」
佳子の声がして、足音が近づいた。すぐに扉が開き、彼女が姿を現した。
「無事だった――」
言いかけて、佳子は蓮の後ろを見た。詩織と白石、それから葵へ視線が動いた。
「……一緒だったんだ」
「ああ。葵が追ってきてくれた。そのあと、二人とも会えた」
「そう」
佳子は短く答え、もう一度蓮の顔を見た。何か言いたそうだったが、蓮は先に尋ねた。
「こっちは、何もなかったか?」
佳子の表情が変わった。
「……あった。中で話そう」
*
残っていた四人に、目立った怪我はなかった。
黒田と高橋、藤堂、そして佳子の姿を確かめてから、蓮はようやく肩の力を抜いた。
「あの女は?」
黒田が尋ねた。
「途中から、追ってこなくなった」
「どこへ行ったかは分からないんだな」
「ああ」
黒田は頷き、それ以上は聞かなかった。
「何があった?」
蓮が尋ねると、高橋が床へ目を向けた。
壁際に、小さな黒い袋が置かれていた。手のひらより少し大きく、表面に文字や印は見当たらない。
「それは?」
「裏口の近くにあった」
藤堂が説明した。
「割れた窓を確かめて、室内を片づけていたときに、黒田が見つけた」
「最初から置いてあったんじゃないのか?」
「その可能性もあるが、俺は見てない」
黒田が答えた。
「周囲は何度か確認した。あんな場所にあれば、気づいたと思う」
「中身は?」
「開けていない」
白石が袋へ身を寄せかけたが、高橋の顔を見て足を止めた。
蓮は葵を見た。彼女はすでに端末を取り出していた。
「消えた印は、この近くだったんだよな」
「うん」
葵が【特殊物資情報】を開き、建物の周辺を拡大した。
「何があったかは確認してない。だから、この袋と関係あるかどうかは分からない」
高橋が袋を見下ろした。
「誰かが物資を回収して、ここへ来た可能性はある」
「私たちが中にいる間に……?」
詩織が裏口の方へ顔を向けた。
蓮も黙ってそちらを見た。襲撃のあと、全員が室内の煙や割れた窓に気を取られていた。その間に誰かが近づいたとしても、不思議ではなかった。
*
「中を確かめよう」
蓮が言うと、高橋が顔を向けた。
「危険かもしれないぞ」
「ああ。だから、ここでは開けない」
「外へ出そう。全員で囲む必要もない」
黒田の言葉に従い、蓮と黒田、藤堂の三人だけが外へ出た。残る五人は建物の中で待つことになった。
蓮は袋を地面に置いた。二人が距離を取るのを待ってからしゃがみ込み、口を確かめた。
「……開けるぞ」
慎重に袋を広げた。
中には細長いケースと、折り畳まれた紙が入っていた。
蓮は紙を取り出して開いた。手書きの文字があった。
《返してくれてありがとう》
しばらく、その一行から目を離せなかった。
「……あの女だ」
「端末のことか?」
黒田が尋ね、蓮は頷いた。
森で落とした端末を、女が拾ったのだろう。礼を言ってくるということは、やはり彼女のものだった可能性が高い。
「返したつもりはないけどな」
蓮は呟いた。
追われて逃げる途中で落としただけだった。それを、女は自分のために返してもらったと受け取ったのかもしれない。
「ケースは?」
藤堂に言われ、蓮は紙を置いた。
細長いケースを開くと、小型の折り畳みナイフが収まっていた。
「……ナイフだ」
黒田が近づき、手元を見た。
「まだ出すな」
蓮は柄へ伸ばしかけた指を止めた。黒田の視線は、ナイフから手紙へ移った。
「礼のつもりなのかもしれないな」
蓮も二つを見比べた。
自分へナイフを投げつけた女が、今度はナイフを置いていった。普通なら理解できない行動だった。だが、女が森で見せた笑顔を思い出すと、本人は本気で贈り物のつもりなのかもしれないと思えた。
*
建物へ戻り、袋の中身を机に並べた。
「じゃあ、やっぱり端末の持ち主だったんだね」
詩織が手紙を読んで言った。
「ああ。その可能性は高い」
中央広場に残された端末と、森で出会った女。そして建物を襲った相手が、ようやく一つにつながった。
佳子は紙からケースへ目を移した。
「どうして、これを置いていったんだろう」
「護身用、とか?」
白石が言った。
全員に見られ、困ったように肩をすくめる。
「いや、蓮のことを気に入ってるみたいだし……」
「気に入ってる?」
佳子が聞き返した。
「俺に怒るなよ。分かんないけど、そういう感じだったんだろ?」
「怒ってない」
高橋が咳払いをすると、白石はそれ以上言わなかった。
葵はケースの中を見つめていた。
「それ、どうするの?」
蓮はすぐには答えなかった。
拳銃を持った誰かがいる。ナイフで襲ってくる女もいる。誰も武器を持たなければ安全だと、もう言えなくなっていた。
「ひとまず、保管しておく」
「そのまま使うのはやめた方がいい」
高橋が言った。
「あの女が置いたものだ。何か細工してあるかもしれない」
「分かってる。ちゃんと調べてからだ」
蓮はケースを閉じた。
使わずに済むなら、その方がよかった。ただ、先ほど女と向き合ったとき、身を守るものが何もなかったことも覚えていた。
*
話が落ち着いたあと、葵は端末の地図を確かめていた。
「……ねえ」
声に気づき、蓮が近づいた。
「これ、近い」
葵は【特殊物資情報】の印を指した。建物から、それほど離れていない場所だった。
「歩いて十分くらいだと思う」
「何がある?」
葵が印に触れた。
《特殊物資》
《端末アップグレードデータ》
白石がすぐ横へ来た。
「葵が使ったのと同じやつ?」
「たぶん」
ほかの者も画面を覗き込んだ。
同じものなら、もう一台の端末を更新できる。物資の場所も、特殊物資の場所も、葵の画面を借りずに確認できるようになる。それに、一人分のクリア条件を調べる機能も手に入るはずだった。
「行かない」
蓮が言った。
「何で? そんなに近いなら――」
白石の言葉を、高橋が遮った。
「近いからこそ、気をつけた方がいい。罠かもしれない」
蓮も頷いた。
「今夜は、もう外へ出ない。明るくなってから考えよう」
印があること自体、誰かの誘いだという証拠はない。それでも、襲撃を受けた直後に、暗い森へ取りに行く気にはなれなかった。
葵はしばらく地図を見ていたが、やがて画面を閉じた。
*
その夜は、見張りの人数を増やした。
誰も一人では動かず、休む場所も離れすぎないようにした。割れた窓の近くに立つ蓮の隣には、黒田がいた。
外には明かりがほとんど届かない。窓から少し離れた木々は、幹と枝の区別もつかなくなっていた。
「人気者だな」
黒田が不意に言った。
「何の話だ」
「あの女」
「……やめてくれ」
「冗談だ」
蓮は思わず横顔を見た。
「お前も、そういうこと言うんだな」
「たまにはな」
黒田は森を見たままだった。蓮も視線を戻した。
女の名前は、まだ分からない。なぜ自分へ執着するのかも知らない。初めて会ったはずなのに、あの女は名前を呼ぶことにも、近づくことにも、少しもためらわなかった。
端末を取り戻したのなら、もう来なくなるだろうか。
そう考えて、蓮はすぐに否定した。女が追ってきたのは、端末を返せと言うためではなかった。
「蓮、見ろ」
黒田の声に、顔を上げた。
指された方角を見つめる。暗い木々の間で、小さな光が浮かんだ。
端末の画面に似ていた。
蓮が目を凝らしたときには、もう消えていた。
「……今の、見えたか」
「ああ」
二人は黙って待った。
同じ場所を見続けても、再び光ることはなかった。
*
女は一人、森を歩いていた。
手には、取り戻した端末があった。ときどき画面を確かめては、木々の間へ進んでいく。
やがて足を止め、メニューの一つに触れた。
【クリア条件】
表示された内容を、しばらく黙って読んでいた。
その口元に、笑みが浮かんだ。
「大丈夫」
小さく呟いた。
「ちゃんとできるから」
画面を消すと、周囲が再び暗くなった。
女は振り返った。木々の向こうに、蓮たちのいる建物があった。ここから中の様子は見えなかったが、それでもしばらく、その方角を見ていた。
「待っててね」
柔らかな声だった。
「蓮」
名前を呼んだあと、女は端末をしまった。足音を残しながら、さらに森の奥へ歩いていった。




