第18話 二人きり
女の声も、追ってくる足音も聞こえなくなっていた。
蓮は耳を澄ませた。木々の間を抜ける風と虫の鳴き声に、自分たちの呼吸が重なっている。すぐ近くに誰かがいる気配はなかったが、それだけで安心することはできなかった。
「……戻れる?」
葵が端末を見ながら尋ねた。
「ああ。方角は分かる」
蓮も地図を開いた。建物までは、歩いて戻れない距離ではない。問題は、その途中に女がいないかどうかだった。
「あの女のこと、考えてる?」
葵に言われ、蓮は顔を上げた。
「分かるのか」
「さっきから、後ろばっかり見てる」
葵も一度、来た方角へ目を向けた。
「同じ道を戻って、また会ったら面倒だね」
「ああ。少し迂回しよう」
蓮は地図の上で、通ってきた辺りを避ける経路を確かめた。遠回りにはなるが、待ち伏せされているかもしれない場所へ、そのまま戻る気にはなれなかった。
「分かった」
葵が頷き、二人は歩き始めた。
*
月明かりは枝葉に遮られ、足元までほとんど届かなかった。蓮は端末の明かりで地面を確かめながら、木の根や石を避けて進んだ。少し後ろを葵が続いている。
草を踏む音や、小枝の折れる音がするたびに、蓮は歩調を緩めた。自分たちの立てた音だと分かっていても、背後へ意識が向いてしまう。
「ねえ」
しばらくして、葵が口を開いた。
「どうして、建物から出たの?」
蓮は歩きながら振り返った。
「あの女が、蓮を狙ってたのは分かった。でも、一人で逃げる必要があった?」
「佳子に向かおうとしたんだ」
葵が黙った。
「ナイフを拾って、あいつの方を見た。あのままいたら、誰かが巻き込まれると思った」
「だから、自分についてこさせたの?」
「そこまで考えて動いたわけじゃない」
「でも、そういうことでしょ」
思ったより強い声だった。
「一人で森に入って、途中で何かあったら、どうするつもりだったの?」
「結果的には、何もなかった」
「結果の話をしてるんじゃない」
蓮は足を止めた。葵も立ち止まり、こちらを見た。
「……何で怒ってるんだ?」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
葵は答えなかった。端末の明かりが下を向き、表情は見えにくくなった。
数秒して、彼女は視線を逸らした。
「……心配しただけ」
蓮が言葉を返す前に、葵は顔を上げた。
「もういい。行こう」
蓮を追い越し、先へ進んでいく。蓮はその背中を見てから、小さく息を吐いた。
「……悪かった」
葵は振り返らなかった。ただ、歩く速さが少し緩んだ。
*
数分ほど進んだところで、葵の端末が鳴った。
二人は同時に足を止めた。
「また何か消えたのか?」
「違う。近くに、医療物資がある」
葵が画面を見せた。【物資情報】の地図に十字の印があり、触れると《医療物資》と表示された。
「寄る?」
蓮は地図と、建物のある方角を見比べた。二人とも、今すぐ手当てが必要な怪我はしていない。物資の場所を確かめるために、さらに戻る時間を延ばしたくはなかった。
「今は、みんなと合流しよう」
「私も、その方がいいと思う」
葵が画面を切り替えようとしたところで、蓮は尋ねた。
「さっき消えた特殊物資、何だったか分かるか?」
「種類までは見てなかった」
葵は【特殊物資情報】を開いた。
拳銃があった場所にも、蓮を探している間に消えたという場所にも、印は戻っていなかった。
「回収した人間も、分からないんだよな」
「うん」
葵は地図を見つめたまま頷いた。
誰かが二つとも持っているのか、別々の人間が手に入れたのか。それすら分からない。蓮は周囲へ目を向けたが、暗い森から得られるものは何もなかった。
「嫌な感じだね」
「……ああ」
短く答え、再び歩き出した。
*
しばらくすると、葵が後ろから声をかけてきた。
「蓮。一つ聞いていい?」
「何を」
「クリア条件」
蓮は足を止め、振り返った。
「教えてくれない?」
「嫌だ」
「早いね」
「お前だって、教えてないだろ」
「そうだけど」
葵は手元の端末を持ち上げた。
「私、見ようと思えば見られるよ」
蓮はその顔を見た。
【PLAYER INFORMATION】
一人だけ指定して、条件を開示できる機能だった。建物で見たときから、いずれ自分に使われるかもしれないとは考えていた。
「俺に使うつもりか?」
「まだ決めてない」
「だったら、やめてくれ」
「何で?」
「勝手に見られるのは、気分が悪い」
葵がわずかに笑った。
「正直だね」
「喜ぶ奴がいるか?」
「いないかも」
彼女が画面に触れると、見覚えのある説明が現れた。
《参加者を1名指定してください》
《指定した参加者の個別クリア条件を開示します》
《指定可能回数:1回》
《指定後の変更はできません》
蓮は、葵の指先を見ていた。
「一人だけなんだよね」
「ああ。だから、大事に使え」
「蓮に使ったら?」
「もっと、確かめたい相手が出てくるかもしれないだろ」
まだ会っていない参加者がいる。あの女の条件も分からない。誰を選ぶにしても、一度使えば、次はないのだ。
葵は説明を読み直すように画面を見ていたが、やがてメニューへ戻した。
「……そうだね。今は使わない」
蓮は少し意外に思った。
「やめるのか」
「見てほしかった?」
「逆だ」
「じゃあ、いいでしょ」
葵は端末を持ち直し、歩き出しかけたところで蓮を見た。
「でも、候補ではあるから」
「やめろって」
小さな笑い声が返ってきた。
蓮も息を吐いて後を追った。勝手に見ないと約束したわけではない。それでも、画面が閉じられたことに、ひとまず安堵していた。
*
建物まで、もうそれほど遠くないはずだった。
蓮は地図を確かめてから顔を上げ、足を止めた。
「葵、画面を消せ」
葵は聞き返さずに従った。周囲が暗くなり、しばらくは木の幹の輪郭さえ曖昧になった。
「……何かいる?」
小声に、蓮は手を上げて応じた。
前方で、草を踏む音がした。
蓮は近くの木の陰へ寄り、葵も続いた。幹の脇から覗くと、人影が見えた。こちらへ向かって歩いている。
あの女かもしれない。
蓮は息を抑えた。足音が少しずつ近づく。人影が木々の間を通り、すぐ近くまで来た。
「……蓮?」
聞き覚えのある声だった。
蓮は幹の陰から顔を出した。
「詩織?」
「蓮!」
詩織がこちらへ駆けてきた。その後ろから、もう一人が姿を現した。
「いた! よかった……!」
白石だった。
「お前ら、何で来た」
「探しに来たに決まってるだろ。どこまで行ったんだよ!」
「建物にいた方が――」
「いつまでも戻ってこないからだろ」
白石の返事に、蓮は口を閉じた。
詩織が目の前まで来た。何も言わずに腕を掴み、そのまま顔を伏せた。
「……詩織?」
「本当に、心配したんだから」
声がわずかに震えていた。掴まれた腕に指の力が伝わり、蓮はどう返せばいいのか分からなくなった。
「……悪かった」
「もう、勝手にいなくならないで」
「好きで出ていったわけじゃない」
「分かってるけど……」
詩織が顔を上げた。暗がりでも、目元が濡れているように見えた。
蓮が言葉を探していると、少し離れたところから葵の声がした。
「無事だったんだから、まず戻ろう」
詩織がはっとして振り返った。
「あ……葵さんも。ごめん、大丈夫?」
「私は平気」
白石が二人を見比べ、小さく息を吐いた。
「まあ、とにかく戻ろうぜ。佳子なんて、あれから――」
「白石」
詩織が遮った。
「それは、本人が言えばいいから」
「え? 何が?」
「いいから」
蓮は二人を見た。
「佳子がどうした?」
「戻れば分かる」
詩織はそう言って、ようやく蓮の腕を離した。
四人で戻れる。そう思い、蓮が建物の方角を確かめようとしたとき、葵が再び端末を開いた。
「……待って」
その声に、全員が動きを止めた。
「どうした?」
葵は答えず、【特殊物資情報】の地図を拡大した。指を動かし、別の縮尺でも確かめる。
「また一つ、消えてる」
白石の顔から笑みが消えた。
「特殊物資か?」
葵が頷いた。
「建物から近い場所にあった印。さっき確認したときは、まだあった」
蓮は画面を覗き込んだ。葵が指した場所は、拠点からそれほど離れていなかった。
「何が置いてあった?」
「そこまでは見てない」
「誰かが、近くで取ったってこと……?」
詩織が森の先へ顔を向けた。
そこには、佳子と黒田、高橋、藤堂が残っている。
蓮は端末から目を離した。
「急いで戻ろう」
歩き出すと、三人もすぐに続いた。足元を確かめながら、できるだけ速く木々の間を抜けていく。
女が途中で追ってこなくなった理由が、また気になった。見失っただけなのか、ほかに何かをしようとしていたのか。消えた印と関係があるのかどうかさえ分からない。
それでも、建物へ向かう足は速くなっていた。
蓮は前方の暗がりを見据えた。明かりが見えるなら、早く見つけたかった。何も起きていないことを、自分の目で確かめたかった。




