第17話 襲撃
「女?」
建物へ戻った蓮の話に、高橋が顔を上げた。
「ああ。首輪をしていた。名前は聞いたが、答えなかった」
「端末は?」
「失くしたと言ってた」
全員の視線が、部屋の隅にある机へ向いた。そこには、中央広場で拾った端末が置かれていた。
「……それじゃないの?」
白石が呟いた。
「まだ分からない」
「その女は、これについて何か言ってたか?」
高橋の問いに、蓮は首を振った。
「何も。端末を見つけなかったかとも聞かれなかった」
「それも変だな」
蓮も同じことを考えていた。失くしたのなら、誰かに尋ねるくらいはするはずだった。自分が持っていることを知っていたのなら、なおさらだ。
だが、女が口にしたのは、蓮がいたから見ていたという、意味の分からない言葉だった。
「ほかには?」
黒田に促され、蓮は少し間を置いた。
「俺の名前を知ってた。名乗る前から」
詩織が顔を上げた。
「じゃあ、やっぱり……」
「私たちを見てたんだろうね」
葵が言った。
森の物音も、窓際の足跡も、あの女によるものだったのかもしれない。すべてが同じ相手の仕業だと決めることはできなかったが、少なくとも、誰かが建物の周囲をうかがっていたことは確かになった。
「私のことも、見てたらしい」
佳子が腕を組んだ。
「名前までは知らないみたいだけど」
「何か言われたの?」
詩織に聞かれ、佳子は蓮を見た。
「私と、あまり仲良くしない方がいいって言ったんでしょ」
蓮が頷くと、白石が二人を見比べた。
「何それ。どういうこと?」
「俺にも分からない」
「いや、気になるだろ、普通」
「今は、そこを面白がる話じゃない」
高橋に言われ、白石は口を閉じた。佳子の顔にも笑みはなかった。
「……怖いね」
詩織が小さく言った。葵も黙って頷いた。
蓮は机から持ち主不明の端末を取り上げた。
あの女のものなのだろうか。そうだとして、なぜ取り戻そうとしなかったのか。考えても、彼女が何を望んでいるのか分からなかった。
「今夜は、一人で動かない方がいい」
顔を上げて言うと、誰も反対しなかった。
*
日が落ちると、窓の向こうは急速に暗くなった。
室内の明かりが届くのは建物のすぐ近くまでで、その先には木々の影が重なっていた。蓮は入口から外を見るたびに、昼間と同じ場所だということを確かめるように、幹や茂みの位置を目で追った。
見張りは二人ずつ、時間を決めて交代することになった。正面だけでなく、窓や裏手にも注意を払い、物音がしても一人では確かめに出ない。話し合ったことを互いに確認し、休める者から横になった。
それから一時間、二時間と過ぎたが、外に変化はなかった。
「……来ないね」
入口近くに座っていた詩織が言った。
「来ない方がいい」
蓮は森を見たまま答えた。
「それはそうだけど」
詩織は膝を抱え直した。しばらく黙っていたが、やがて顔を向けた。
「さっきの人、前から蓮を知ってたんじゃないの?」
「会ったことはない」
「見覚えも?」
「ない」
「そっか……」
詩織は入口の向こうへ視線を戻した。
「何か、嫌だね」
「何が?」
「うまく言えないけど……蓮だけ見られてるみたいで」
蓮は返事をしなかった。自分も同じことを感じていたからだった。
そのとき、裏手から大きな音が響いた。
蓮は立ち上がった。休んでいた者たちも顔を上げ、黒田が廊下へ向かった。高橋と藤堂も続く。
「待て、外へは――」
蓮が声をかけた直後、反対側でガラスが割れた。
詩織が身を縮めた。何かが窓から飛び込み、床を跳ねて転がった。小さな金属製の缶だった。
「離れろ!」
蓮が叫ぶと同時に、缶から白い煙が噴き出した。
白石が咳き込み、口元を覆った。煙は床近くを広がり、すぐに立ち上ると、部屋の向こうを覆い隠した。
「外へ出るな!」
高橋の声がした。
蓮も袖を口に当てたが、煙を吸い込んで咳が出た。目を細めても、数歩先が見えない。
「詩織!」
「ここ!」
「佳子は!」
「大丈夫!」
返事のする方へ身体を向けた。足音と、家具にぶつかる音が重なっている。誰がどこにいるのか分からず、蓮は壁を頼りに動こうとした。
「蓮」
女の声がした。
身体が止まった。
入口近くに、人影があった。流れる煙の隙間から顔が見えた瞬間、蓮は息を詰めた。
森で会った女だった。
「やっと、二人で話せる」
「お前……!」
蓮が身構えると、女の腕が動いた。
反射的に身体を逸らした。何かがすぐ脇を通り、背後の壁へ当たった。硬い音に続き、床で金属が跳ねた。
目を落とすと、小さなナイフがあった。
「蓮!」
佳子の声に、蓮は顔を上げた。
「来るな!」
女の笑みが消えた。声のした方へゆっくり顔を向ける。
「……また」
低く呟いたあと、女は蓮へ視線を戻した。
「こっち来て」
「行くわけないだろ」
「どうして?」
問い返す顔には、蓮が拒む理由を分かろうとする様子がなかった。
「みんな、邪魔なのに」
「何を言ってる」
「蓮と話したいだけ」
「だったら、こんなことする必要ないだろ!」
「来てくれないから」
女が踏み込んだ。
蓮は身を捻った。伸びてきた手が腕を掠め、服を掴みかけた。振りほどこうとしながら肩を押すと、女はよろめいて一歩下がった。
「逃げないで」
「ふざけるな!」
女は怒らなかった。押された肩へ触れ、蓮を見て笑った。
「やっぱり優しい。殴らないんだ」
蓮は言葉を失った。床にはナイフがある。部屋には煙が広がり、仲間の姿も見えない。それなのに、女はそんなことを確かめていた。
「蓮、どこ!」
佳子の声とともに、煙の向こうで人影が動いた。
女がそちらを見た。
「来ないで」
声が変わった。
「佳子、止まれ!」
蓮が叫ぶ間に、女は身を屈めた。床のナイフへ手を伸ばしている。
考えるより先に、蓮は二人の間へ入った。このまま佳子が近づけば、女が何をするか分からなかった。詩織も、ほかの者も同じ部屋にいる。
女の注意が自分へ戻ったのを見て、蓮は入口へ向き直った。
外へ飛び出す。
「蓮!?」
背後で佳子が叫んだ。その声に重なって、足音が追ってきた。
「蓮、待って!」
女の弾む声を聞き、蓮は振り返らずに森へ走った。
*
木々の間へ入ると、急に足元が見えなくなった。
枝が頬を掠め、草が靴に絡んだ。幹を避けながら走っても、どこに足を置けるのか分からない。背後の足音は途切れず、女の声も近かった。
「待ってよ!」
建物から離れていることは分かっていた。だが、今戻れば女も戻ってしまう。蓮は息を切らしながら、木々の隙間へ身体を滑り込ませた。
下り坂に出た。
地面の傾きに気づいたときには、踏み込んだ靴が滑っていた。体勢を戻そうとして腕を伸ばすと、肩のバッグが枝に引っかかった。
強く引かれ、肩紐が切れた。
バッグが落ち、中身が斜面へ散らばった。水のボトルが転がり、保存食が草の間へ落ちる。その中に、二台の端末が見えた。
蓮は足を止めた。
数歩戻り、自分の端末を掴んだ。もう一台へ手を伸ばそうとしたとき、すぐ後ろから声がした。
「蓮」
近かった。
蓮は手を引き、持ち主不明の端末を残して走り出した。
*
しばらくして、背後から声がしなくなった。
蓮はそれでも足を止められず、何度か振り返りながら進んだ。やがて息が続かなくなり、太い木へ手をついた。
荒い呼吸を抑え、耳を澄ませた。
足音は聞こえなかった。人影もない。建物の明かりさえ、どちらにあるのか分からなくなっていた。
蓮は握りしめた端末を起動した。【地図】を開くと、建物から離れた場所に現在地が表示された。
「……こんなところまで」
戻る方向は分かった。だが、女がどこにいるのかは分からない。同じ道をたどれば、待ち伏せされているかもしれなかった。
バッグも、拾った端末も落としてきた。
蓮は木にもたれ、息を吐いた。
佳子たちは無事だろうか。煙を吸い込んだ詩織や白石は。黒田たちが女と鉢合わせていなければいいと思ったが、確かめる方法がなかった。
女の目的は、自分だった。
それだけは、もう疑いようがなかった。名前を呼び、自分へ近づこうとし、佳子が来るとナイフを拾おうとした。理由が分からないまま、向けられる執着だけがはっきりしていた。
「……何なんだよ」
茂みが擦れた。
蓮は木から身体を離した。
足音が近づいてくる。一人分だった。端末を持つ手に力が入り、もう一方の手で周囲を探ったが、すぐに使えそうなものは見当たらない。
木の陰から人影が現れた。
「……蓮!」
聞き覚えのある声に、蓮は目を見開いた。
「葵?」
「やっと見つけた……!」
葵は肩で息をし、片手に端末を握っていた。
「何で、ここに」
「追いかけてきたの。どんどん奥へ行くから、途中で見失って……」
言葉の合間に、苦しそうに息を継いだ。
「ほかのみんなは?」
「建物にいる。佳子も追おうとしたけど、黒田が止めた」
蓮はようやく肩の力を抜いた。
「そうか……」
「何が、そうかよ」
葵が睨んだ。
「どれだけ探したと思ってるの」
「……悪い」
葵は何か言いかけたが、蓮の顔や腕へ目を向けた。
「怪我は?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
葵は息を吐き、周囲の暗がりを確かめた。
「あの女は?」
「途中から、ついてこなくなった」
「じゃあ、まだ近くにいるかもしれないね」
自然と二人の声が小さくなった。
蓮は端末で建物の方向を確かめた。
「戻ろう」
葵はすぐには動かなかった。自分の画面を見つめている。
「どうした?」
「探してる途中で、特殊物資の地図も見たの」
蓮は顔を上げた。
葵が画面を向けた。
「また一つ、消えてる」
地図には、残っている印がいくつかあった。葵が指した場所には、何も表示されていなかった。
「さっきまでは、ここにあった」
「回収されたのか」
「たぶん」
拳銃に続いて、別の物資もなくなった。
何が置かれていたのか、誰が持ち去ったのかは分からない。自分たちが煙に包まれ、森を走っている間にも、島のどこかでは誰かが動いていた。
蓮は画面から顔を上げ、暗い木々の間を見た。今は一刻も早く戻りたかった。
*
斜面の途中に、女が立っていた。
足元には散らばった保存食と、一本の水があった。その少し先で、端末が地面に伏せられていた。
女はゆっくりとしゃがみ、拾い上げた。
画面についた土を指で払い、縁に残った汚れも丁寧に拭った。
「……見つけた」
失くした自分の端末だった。
胸元へ引き寄せたあと、女は顔を上げた。見ていたのは画面ではなく、蓮が逃げていった方角だった。
「でも、逃げちゃった」
責めるような言い方ではなかった。暗い森を見つめる口元に、笑みが浮かんだ。
「次は逃がさないからね」
女は立ち上がった。
首元の金属がかすかに光り、手の中では端末の画面が明るくなった。
そこに表示された彼女自身の情報を、蓮たちはまだ誰も知らなかった。




