第16話 森の女
誰かに見られているような感覚は、入口へ戻ってからも消えなかった。
森で聞こえた物音も、順に揺れていた草も、それだけなら動物の仕業かもしれない。窓の近くに残された足跡も、藤堂が建物を見つけたときのものという可能性があった。
それでも、蓮は何度も同じ場所へ目を向けていた。木々の陰に、何かを見落としている気がした。
「蓮」
佳子に呼ばれ、振り返った。彼女は入口の内側に立っていた。
「そろそろ交代だって」
「ああ」
答えながらも、視線はすぐ森へ戻った。佳子も隣へ来て、薄暗くなった木々の間を見た。
「……まだ気になる?」
「少しな」
「足跡のこと?」
「それもある。銃を持ってる奴が近くにいるかもしれないし」
佳子はしばらく黙って森を見つめ、それから蓮へ顔を向けた。
「一人で調べに行かないでね」
「さっきから、そればっかりだな」
「行きそうだから言ってるの」
「行かない」
佳子は疑うように蓮を見た。蓮が見返すと、ようやく小さく息を吐いた。
「……ならいい。何かあったら呼んで」
「ああ」
佳子が中へ戻ったあと、蓮はもう一度、森へ目を向けた。葉の擦れる音が聞こえるだけで、人の姿はなかった。
*
交代を済ませてから、日が落ちきる前に建物の周囲を確認することになった。森へ入るのではなく、壁沿いを回り、近くに不審なものがないか確かめるだけだった。
裏手へ回った蓮は、端末で現在地を見た。建物と、それを囲む森が表示されている。地図を眺めても、そこに誰かが潜んでいるかどうかは分からなかった。
画面を消したとき、森の中で枝の折れる音がした。
蓮は顔を上げた。
「誰だ」
返事はなかった。木の幹と、重なった枝葉の向こうへ目を凝らす。
「黒田か?」
やはり応答はない。
その代わり、木々の間を影が横切った。ほんの一瞬だったが、草の揺れとは違う動きに見えた。
蓮は追わなかった。暗くなり始めた森へ一人で入るのは危険だった。まず戻って知らせようと、身体の向きを変えた。
「待って」
女の声がした。
蓮は足を止め、ゆっくり振り返った。
太い木の陰から、若い女が姿を現した。薄暗くて表情は見えにくかったが、首元には金属の輪が光っていた。
蓮は距離を取り、手元へ目を向けた。
「そこで止まれ」
女は素直に足を止めた。蓮の顔を見つめ、少し目を細めた。
「……怖い顔」
「端末は?」
「いきなり?」
「参加者なら持ってるだろ」
女は小さく首を傾げた。
「持ってない」
「ない?」
「うん。失くしちゃった」
口元に薄い笑みが浮かんでいた。
蓮は背負ったバッグを意識した。中央広場で見つけた端末が入っている。だが、それを口にする前に、女の顔をもう一度見た。
「どこで失くした」
「さあ。忘れた」
「忘れた?」
女は頷いた。
蓮には、その軽さが理解できなかった。地図も、自分の条件も確認できなくなったはずなのに、困っている様子がない。詩織が壊れた画面を見つめていたときの不安とは、あまりに違っていた。
「名前は?」
女は答えず、蓮を見ていた。
顔から首輪へ、端末を持つ手へと視線が動き、また顔へ戻った。何かを確かめるような目つきだった。
「……何だ」
「やっぱり」
女の笑みがわずかに深まった。
「神谷蓮」
蓮は言葉を失った。
まだ名乗っていなかった。目の前の女と話した覚えもない。
「何で、俺の名前を知ってる」
「聞こえたから」
「どこで」
「みんなが呼んでた」
蓮は女の背後へ視線を走らせた。ほかに人影は見えなかった。
「いつから見てた?」
女は答えなかった。
「建物の周りにいたのか?」
「警戒しすぎ」
「質問に答えろ」
「嫌」
あっさりと拒まれた。拗ねたような口調だったが、蓮は笑えなかった。
建物までは走れば戻れる。声を張れば、見張りにも届くはずだった。そう確かめてから、蓮は尋ねた。
「ほかにも一緒にいる奴は?」
「一緒にいる奴?」
女の表情が、わずかに変わった。
「いないよ」
「一人か」
「うん。蓮は?」
「何が」
「あの人たち、仲間?」
女が建物へ目を向けた。
「今は一緒にいる」
「ふうん」
女は建物を見たまま、続けた。
「女の子もいたね。髪の長い子」
蓮は眉を寄せた。
「もう一人いた。あと、ずっと端末を見てる子も」
佳子と詩織、それに葵だろうか。たまたま建物を見かけただけで、そこまで気に留めるものだろうか。
「何が目的だ」
「別に」
「だったら、何で見てる」
女は少し考えるように目を上げ、それから蓮へ視線を戻した。
「あなたがいたから」
「……俺?」
「うん」
意味が分からなかった。
初めて会った相手なのに、女は親しい人間に話しかけるように名前を呼ぶ。その距離の近さが、蓮を落ち着かなくさせた。
女が一歩近づいた。
「止まれ」
強く言うと、また足を止めた。
「何もしないよ」
「信用できると思うか?」
「思わない」
即答し、女は楽しそうに笑った。
「でも、蓮は優しいんだね」
「何が」
「端末をなくした人を見つけても、いきなり襲ったりしない」
蓮は女の顔を見つめた。
失くしたと言われただけで、襲う理由などない。そう返そうとして、言葉が止まった。今の言い方には、それ以上の何かがあるように感じられた。
自分が端末を持っていることを、知っているのだろうか。
「お前――」
「蓮!」
建物の方から声がした。
佳子だった。
「どこまで行ってるの!」
女の笑みが消えた。
声のした方へ向いた目が、急に冷たく見えた。
「……また、あの子」
「何?」
蓮が聞き返すと、女はすぐに口元を緩めた。
「何でもない」
そのまま一歩、木の陰へ下がった。
「待て。名前くらい言え」
「まだいい」
「まだ?」
「また会えるから」
女は蓮を見たまま、後退した。
蓮が足を踏み出しかけると、女は立ち止まった。
「蓮」
薄暗い木々の間で、その声だけがはっきり聞こえた。
「その子と、あんまり仲良くしない方がいいよ」
「……どういう意味だ」
「じゃあね」
「待て!」
女は身を翻した。
蓮も反射的に数歩追ったが、木々の間を迷いなく抜けていく姿は、すぐに見えなくなった。追いつこうとすれば、こちらも森へ入らなければならない。
蓮は足を止めた。
「くそ……」
暗い茂みを見つめていると、背後から足音が近づいた。
「蓮、何してるの?」
佳子だった。
「人がいた」
彼女の表情が変わった。
「参加者?」
「首輪をつけた女だ」
「どこ?」
「逃げた」
佳子は蓮の視線を追い、森を見た。
「……追わなくていいの?」
「ここから一人で追うのは危険だ」
佳子は頷いた。それでも、蓮が黙ったままでいるのを不審に思ったらしく、顔を覗き込んできた。
「何を言われたの?」
蓮は少し迷った。
佳子と仲良くするなという言葉が、頭に残っていた。忠告なのか、ただこちらを惑わせたいだけなのかも分からない。
「俺の名前を知ってた」
「え?」
「名乗る前から。みんなが呼ぶのを聞いたと言ってた」
佳子の顔が強張った。
「じゃあ、私たちを見てたってこと?」
「たぶんな。お前たちのことも話してた」
佳子は森へ目を戻した。
「……気持ち悪いね」
声を落とし、少し間を置いて尋ねた。
「ほかには?」
「端末を失くしたと言ってた」
佳子が蓮を見た。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「まさか、蓮が持ってるやつ……」
「まだ分からない。本人のものだと確かめたわけじゃない」
蓮はバッグへ手を添えた。
女は端末を失くしたと言った。だが、探しているとも、見つけたら返してほしいとも言わなかった。こちらが持っていることを知らないのかもしれない。それなら、なぜ今まで姿を見せず、建物の周囲にいたのだろう。
考えても、女の笑った顔ばかりが浮かんだ。
「戻ろう。みんなに話す」
佳子が頷いた。
二人は建物へ向かった。蓮は途中で一度振り返ったが、森に人影はなかった。
*
女は、離れた木の陰から二人を見ていた。
佳子が蓮の隣を歩き、何かを話しかけている。蓮が顔を向け、短く答えた。その様子を追ううちに、女の口元から笑みが薄れていった。
視線が佳子に止まった。
「……邪魔」
低く落ちた声には、蓮と話していたときの柔らかさがなかった。
だが、二人が建物へ近づく頃には、女はまた笑っていた。
「まあ、いいか」
佳子から視線を外し、蓮の背中を見つめる。
「次は、二人で話そうね」
誰にも届かない声で、女は囁いた。
「蓮」




