第147話 ふたたび交わる銃口
藤崎奈緒は、廃屋の壁に背中を預けたまま、右手に巻かれた包帯を睨んでいた。
痛い。
じっとしていても、傷口の奥から脈打つような痛みが伝わってくる。少しでも指を動かそうとすれば、手のひらから手首にかけて鋭い痛みが走った。
「……最悪」
奈緒は小さく吐き捨てた。
応急処置は済ませた。
傷口を消毒し、ガーゼを当て、片手と歯を使ってどうにか包帯を巻いた。弾丸は貫通しているようだったが、骨や腱が無事かどうかまでは分からない。
処置の途中、何度も声を上げそうになった。
今も包帯には血が滲んでいる。
奈緒は救急用品の袋から痛み止めを取り出し、水と一緒に飲み込んだ。
薬が効くまでには時間がかかる。
それくらい分かっている。
それでも、何かせずにはいられなかった。
「……ほんっと、ムカつく」
今回は手ひどくやられた。
銃で手を撃たれ、身体のあちこちにも痛みが残っている。おまけに、あの場所から逃げ出す羽目になった。
相手はただの参加者のはずだった。
運営側の人間である自分が、参加者相手にここまで追い詰められるなど、考えてもいなかった。
しかも、目的を果たすどころか、余計な怪我まで増やされている。
奈緒は包帯を巻いた手を持ち上げ、顔をしかめた。
「……次に会ったら、絶対に殺してやる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
しかし、今すぐ動き回る気にはなれなかった。
利き手が使えないのは想像以上に厄介だった。左手で拳銃を扱うことはできるが、普段と同じように撃てるわけではない。
奈緒は何度か銃を構え直したあと、諦めて膝の上へ下ろした。
少し休もう。
薬が効いて、痛みが多少でも和らいでから動けばいい。
そう考えて目を閉じたときだった。
外から、かすかに人の声が聞こえてきた。
奈緒は顔を上げた。
続いて、砂利を踏む足音。
一人ではない。
奈緒はゆっくりと立ち上がり、窓のそばへ移動した。
割れたガラスの残る窓枠から外を覗く。
廃屋の並ぶ道を、三人の参加者が歩いていた。
先頭に男が一人。その後ろに女が二人。
奈緒は男の顔を見た瞬間、眉をひそめた。
「……あいつ」
御堂隼人だった。
以前、遭遇したときにも厄介な相手だった。
こちらの動きをよく見ており、簡単には隙を見せない。銃を向けても怯まず、逃げ道を塞ぐように動いてくる。
今の状態では、できれば関わりたくなかった。
奈緒は窓から身を引こうとした。
だが、その前に隼人が足を止めた。
「……待て」
後ろを歩いていた美羽と結衣も立ち止まる。
「どうしたの?」
美羽が尋ねると、隼人は廃屋へ視線を向けたまま答えた。
「誰かいる」
奈緒は舌打ちした。
隼人はゆっくりと建物へ近づいた。
「そこにいるんだろ。出てこいよ」
奈緒は返事をしなかった。
隼人の後ろでは、美羽が不安そうに周囲を見回している。結衣は少し離れた場所に立ち、二人の様子を窺っていた。
「美羽、結衣。下がってろ」
「……誰か知ってる人?」
「前に会ったことがある。あまり歓迎したくない相手だ」
隼人は拳銃を取り出した。
奈緒は窓から撃つことも考えたが、隼人はすでに壁際へ移動していた。
あの位置では狙いにくい。
奈緒は裏口へ向かった。
建物の外へ出て、横の細い通路を抜けようとする。
しかし、角を曲がったところで声がした。
「……やっぱりお前か」
奈緒は足を止めた。
通路の先に、隼人が立っていた。
拳銃を構え、こちらを見ている。
「……最悪」
奈緒は吐き捨てた。
「またあんたなの?」
「こっちの台詞だ」
隼人は奈緒を見つめた。
「久しぶりだな」
「別に会いたくなかったけど」
「奇遇だな。俺もだよ」
奈緒は左手に持った拳銃を下げず、隼人との距離を測った。
正面には隼人。
背後は廃屋の壁。
簡単には逃げられそうになかった。
「……何してるんだ、こんなところで」
「散歩よ。悪い?」
「その手で?」
隼人の視線が、奈緒の右手に向けられた。
血の滲んだ包帯。
奈緒は反射的に手を身体の後ろへ引いた。
だが、隼人はすでに気づいていた。
「……誰かにやられたみたいだな」
「……だったら何?」
「誰にやられた?」
奈緒は不機嫌そうに隼人を睨んだ。
わざわざ説明する義理はない。
だが、隼人が包帯を見ていることが気に障った。
「……男一人に、女二人。三人組よ」
「三人組?」
「ええ。男に手を撃たれたの。おかげでこのざまよ」
奈緒は包帯の巻かれた手をわずかに持ち上げた。
隼人はその手を見つめた。
「……そいつら、まだ生きてるのか?」
「さあね。逃がしたから」
「お前が逃がした?」
「……うるさいわね」
奈緒は苛立ったように拳銃を握り直した。
隼人はその動きを見て、わずかに身構える。
奈緒がどれほど危険な相手かは、以前の遭遇で分かっていた。
それでも、今は右手を負傷している。
少なくとも、前回よりは不利なはずだった。
「その怪我じゃ、まともに撃てないだろ」
「……そうかしら?」
「無理して撃ち合う必要はない。銃を置け」
奈緒は薄く笑った。
「随分、自信満々ね」
「もう逃げられないぞ」
「……だったら、撃てば?」
隼人の表情が険しくなった。
「……何?」
「私を殺したいんでしょ? だったら撃てばいいじゃない。どうして撃たないの?」
奈緒は挑発するように顎を上げた。
隼人は引き金にかけた指へ力を込めた。
その瞬間だった。
奈緒が身体を横へ滑らせた。
銃声が響く。
「ぐっ……!」
隼人の腕に鋭い痛みが走った。
奈緒が左手で放った弾丸が、拳銃を構えていた腕を掠めるように貫いたのだ。
衝撃で身体が傾き、隼人は思わず後退した。
「隼人!」
美羽の悲鳴が聞こえた。
隼人は歯を食いしばり、負傷した腕を押さえた。
指先は動く。
だが、拳銃を持ち直そうとすると激痛が走り、狙いが定まらなかった。
「……くそっ!」
奈緒はその様子を見て、口元を歪めた。
「ほら。人の心配してる場合じゃなかったでしょ?」
隼人は奈緒から目を離さず、背後の美羽を呼んだ。
「美羽!」
「な、何!?」
「これを使え!」
隼人は拳銃を持ち替え、美羽の方へ投げた。
拳銃は地面に落ち、砂利の上を滑って美羽の足元で止まった。
「拾え! あいつを撃つんだ!」
美羽は足元を見た。
黒い拳銃が、そこにある。
手を伸ばせば届く距離だった。
けれど、身体が動かなかった。
「……え?」
「早くしろ! 撃たないとこっちが殺される!」
隼人の声に、美羽はようやくしゃがみ込んだ。
拳銃を拾い上げる。
想像していたよりも重かった。
両手で握り、奈緒の方へ向ける。だが、腕が震えて照準が定まらない。
奈緒がこちらを見た。
その視線とぶつかった瞬間、美羽の指が止まった。
「……む、無理……」
美羽は小さく呟いた。
「美羽!」
「だって……人を撃つなんて……!」
撃たなければならない。
隼人が怪我をしている。
目の前の女は、また銃を向けようとしている。
頭では分かっていた。
それでも、引き金を引いた先で何が起きるのかを考えると、指が動かなかった。
奈緒は美羽の様子を見て、嘲るように笑った。
「……そうよね。普通は撃てないわよね」
その言葉に、美羽の肩が震えた。
隼人は負傷した腕を押さえながら、一歩前へ出ようとした。
そのときだった。
「貸して!」
隣から伸びた手が、美羽の拳銃を奪い取った。
「……結衣!?」
白川結衣だった。
結衣は拳銃を両手で握り、奈緒へ向けた。
その顔は青ざめていた。
唇も震えている。
けれど、美羽とは違い、銃口を下げようとはしなかった。
「……やめて」
結衣が言った。
奈緒は笑みを消した。
「……何?」
「もう……やめてよ……!」
結衣の声は震えていた。
誰かが撃たれるところなど、もう見たくなかった。
琴音が死んだときのことも、島で見てきたものも、忘れられないまま胸の奥に残っている。
それなのに、目の前ではまた誰かが殺されようとしている。
「……撃たないで!」
結衣は叫び、引き金を引いた。
銃声が廃屋の間に響いた。
「っ……!」
奈緒の顔が横へ弾かれた。
弾丸は頬を掠め、背後の壁へ突き刺さった。
ほんの一瞬、奈緒は何が起きたのか理解できなかった。
頬に触れると、指先に血がついた。
熱い。
皮膚が裂けている。
「……あんた」
奈緒はゆっくりと顔を上げた。
結衣は撃った反動で身体を強張らせ、銃口を向けたまま立ち尽くしていた。
「……私を撃ったの?」
その声に、美羽の背筋が冷たくなった。
奈緒の表情から、先ほどまでの余裕が消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、むき出しの怒りだった。
「……ふざけないでよ」
奈緒は血のついた指を見つめた。
手を撃たれた。
逃げ回る羽目になった。
ようやく傷の手当てをしたところで、今度は頬まで撃たれた。
しかも、目の前にいるのは、銃の扱いも知らないような少女だった。
「……あんたみたいなのに……!」
奈緒が拳銃を持ち上げた。
隼人は咄嗟に叫んだ。
「結衣! 逃げろ!」
結衣は我に返り、後退した。
そのとき、奈緒の視線が彼女の首元へ向けられた。
首輪がない。
奈緒の動きが一瞬止まった。
目の前の少女は、首輪を外している。
つまり、第一ステージで条件を達成した参加者かもしれない。
奈緒は結衣の顔を見つめた。
頬の痛みが、さらに強く感じられた。
「……そう」
低い声が漏れた。
「……あんた、首輪外してるんだ」
結衣は反射的に首元へ手を伸ばした。
その仕草を見た瞬間、奈緒の口元が歪んだ。
「……ちょうどいいじゃない」
「……え?」
「私を撃ったこと、後悔させてあげる」
奈緒が銃口を向けた。
隼人は負傷した腕を押さえながら、彼女へ飛びかかろうとした。
「おい! 相手は俺だろ!」
だが、奈緒は振り向かなかった。
彼女の視線は結衣だけを捉えていた。
銃声が響く。
「きゃっ!」
結衣は悲鳴を上げ、身を屈めた。
弾丸が背後の壁に当たり、破片が飛び散った。
「結衣! 走って!」
美羽が叫んだ。
結衣は拳銃を握ったまま、廃屋の間を走り出した。
奈緒はその背中を追うように銃を向けた。
もう一発。
さらに一発。
乾いた銃声が続き、結衣の周囲で土埃が跳ねた。
「やめろ!」
隼人が叫んでも、奈緒は聞こうとしなかった。
結衣は必死に走った。
息が苦しい。
足がもつれる。
逃げなければならないと分かっているのに、背後から響く銃声が怖くて、身体が思うように動かなかった。
曲がり角まで、あと少し。
そこを曲がれば、建物の陰に隠れられる。
結衣はそう思い、最後の力を振り絞って足を踏み出した。
その瞬間だった。
銃声とほとんど同時に、腹部へ強い衝撃が走った。
「……っ!」
息が止まった。
何かに殴られたような感覚があった。
次いで、腹の奥から焼けるような痛みが広がっていく。
結衣は数歩よろめき、足を止めた。
手にしていた拳銃が、地面へ落ちる。
「……あ……」
震える手を腹部へ当てた。
指先に、生温かいものが触れた。
恐る恐る手を離すと、掌が赤く染まっていた。
「……うそ……」
結衣の膝が折れた。
身体が前へ傾き、そのまま地面へ崩れ落ちる。
「結衣ぃっ!」
美羽の悲鳴が響いた。
隼人は目を見開いたまま、倒れた結衣を見つめていた。
奈緒はまだ銃を構えていた。
頬から流れた血が顎を伝い、地面へ落ちる。
その目は、倒れた結衣から離れなかった。
結衣は腹部を押さえ、浅い呼吸を繰り返していた。
声を出そうとしても、うまく息が吸えない。
目の前の地面が、少しずつ滲んでいく。
誰かが自分の名前を叫んでいる。
それが美羽の声だと分かっているのに、返事をすることができなかった。
結衣は血に濡れた手を伸ばしかけた。
しかし、その手は誰にも届かないまま、地面へ落ちた。




