第144話 銃声
森の中を抜ける細い道は、雨が降ったわけでもないのに湿っていた。木々の枝が頭上を覆い、昼間だというのに薄暗い。足元には枯れ葉が幾重にも積もり、踏みしめるたびに柔らかな音がした。
雨宮紗良は何度目かのため息をつき、少し前を歩く片桐蒼真の背中を見た。
「……ねえ、蒼真」
「何だ?」
「本当にこっちで合ってるの?」
「何が?」
「道。さっきから同じようなところばっかり歩いてる気がするんだけど」
蒼真は立ち止まり、周囲を見回した。
確かに、目印になりそうなものはほとんどない。右を見ても左を見ても木ばかりで、少し離れれば自分たちが歩いてきた道さえ分からなくなりそうだった。
「別に目的地があるわけじゃないだろ。人がいそうな場所を探してるだけだ」
「それは分かってるけど……」
紗良は肩にかけた鞄を持ち直した。
中には二台の端末が入っている。
一台は早瀬陸のもの。もう一台は篠原琴音のものだった。
どちらも、今はもう持ち主がいない。
紗良に与えられたクリア条件は、死亡した参加者の端末を三台集めることだった。あと一台手に入れれば、ようやく首輪を外せる。
そのためには、もう一人、死んだ参加者を見つけなければならない。
できれば誰にも死んでほしくない。
けれど、誰かが死ななければ自分は助からない。
紗良はその矛盾について、なるべく考えないようにしていた。
「……あと一台なんだけどな」
ぽつりと漏らすと、蒼真が振り返った。
「焦るなよ。探してれば、そのうち見つかる」
「簡単に言うよね」
「実際、もう二台あるんだろ?」
「そうだけど……」
紗良は言い返しかけて、やめた。
琴音の端末を手に入れたときのことを思い出したからだった。
蒼真は琴音を殺した。
そのことを、紗良は知っている。
自分が今こうして蒼真と一緒にいる理由を、うまく説明することはできなかった。彼を信用しているわけではない。けれど、一人で歩き回るよりは、武器を持った蒼真のそばにいる方が安全だと思ってしまう。
そんな自分の考え方が、時々ひどく嫌になった。
「……ん?」
不意に、蒼真が足を止めた。
「どうしたの?」
「何かある」
蒼真の視線は、道から少し外れた茂みの向こうへ向けられていた。
紗良もそちらを見る。
最初は、倒れた木か何かだと思った。
だが、草の隙間から覗いているものが人間の靴だと気づいた瞬間、紗良は息を呑んだ。
「……え?」
蒼真がゆっくりと近づいていく。
紗良もそのあとを追った。
茂みを抜けた先には、若い男が仰向けに倒れていた。
胸元の服は血で黒く染まり、顔には生気がなかった。片腕は不自然な方向へ投げ出され、開いたままの目が木々の隙間を見つめている。
「……ひっ」
紗良は思わず口元を押さえた。
死体を見るのは初めてではない。
それでも、慣れることなどできなかった。
蒼真は男のそばにしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「……朝倉悠斗か」
「知ってる人?」
「参加者だ。前に顔を見たことがある」
紗良は恐る恐る近づいた。
男の首には、まだ首輪がついていた。
その金属の輪を見た途端、胸の奥がざわついた。
「……死んでる、よね?」
「見れば分かるだろ」
「そういう言い方しなくても……」
蒼真は答えず、周囲に目を向けた。
「まだ新しそうだな。殺した奴が近くにいるかもしれない」
その言葉に、紗良は足を止めた。
確かに、ここに死体があるということは、誰かがこの男を殺したということだ。
しかも、胸元の傷を見る限り、銃で撃たれた可能性が高かった。
「……じゃあ、早く離れた方がいいんじゃない?」
「そうだな」
蒼真は立ち上がりかけた。
しかし、そのとき紗良の視線が、悠斗の腰のあたりで止まった。
服の下から、端末らしきものが覗いていた。
「……待って」
「何だよ」
「端末……」
紗良は小さく呟いた。
蒼真もそれに気づき、眉を上げた。
「ああ。そうか、お前の条件……」
「うん」
あと一台。
あれを手に入れれば、自分は助かる。
紗良は悠斗の顔を見た。
知らない人だった。
名前を聞いても、どんな人間だったのか分からない。家族がいるのか、恋人がいるのか、何をして暮らしていたのかも知らなかった。
ただ、死んでいる。
そして、自分はその死体から端末を取ろうとしている。
「……ごめんなさい」
紗良は小さく呟いた。
返事はない。
当然だった。
紗良はしゃがみ込み、震える手を伸ばした。
服に触れた瞬間、思っていた以上に冷たく感じられた。
もう一度、心の中で謝る。
そして端末に指が届きかけた、そのときだった。
乾いた破裂音が、森の静けさを引き裂いた。
紗良の頬を、何か熱いものが掠めた。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
直後、背後の木の幹が弾け、細かな木片が飛び散った。
「伏せろ!」
蒼真が叫んだ。
紗良は反射的に身を縮め、その場に倒れ込んだ。
遅れて、右頬に鋭い痛みが走った。
「……あっ、痛っ……!」
頬に触れると、指先に赤いものがついた。
血だった。
自分が撃たれたのだと理解した瞬間、全身から血の気が引いていった。
「い、いや……!」
「動くな!」
蒼真は紗良の襟元を掴み、近くの太い木の陰へ引きずり込んだ。
続けざまに銃声が響く。
二人がいた場所の地面が跳ね、枯れ葉が舞い上がった。
「くそっ……!」
蒼真は木の幹に背中を押しつけ、銃声のした方向を窺った。
少し離れた木々の間。
そこに、一人の男が立っていた。
右手には拳銃。
こちらを見据えるその表情には、迷いらしいものがなかった。
「……桐生、大和……!」
蒼真が名前を口にすると、大和はわずかに目を細めた。
「……お前、片桐か」
その視線が、蒼真の首元へ移る。
「……ああ、そうか。お前、首輪外したのか」
「だったら何だよ」
「いや、別に」
大和は拳銃を構えたまま、薄く笑った。
「運がよかったなと思ってさ。これで助かったつもりか?」
蒼真は眉をひそめた。
「……何が言いたい?」
「俺のクリア条件は、お前らを殺すことだ」
その言葉に、紗良の表情が凍りついた。
「……え?」
「第二ステージが始まったとき、首輪をつけていた奴は全員だ。今外していようが関係ない」
大和は蒼真から紗良へと視線を移した。
「だから、二人ともここで死んでもらう」
そこで、大和はふと何かを思い出したように眉を動かした。
「……待てよ」
その脳裏に、先ほど出会った少女の姿が浮かんだ。
首輪をつけていなかった少女。
殺す必要はないと判断し、そのまま見逃した相手。
「……じゃあ、さっきの女も、もしかして……」
大和は小さく呟いた。
「……何だよ?」
蒼真が問いかけると、大和は顔を上げた。
「いや、何でもない」
口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「……どっちにしろ、お前らを逃がすつもりはない」
大和が銃口を向け直した瞬間、蒼真は紗良の腕を掴んだ。
「伏せろ!」
乾いた銃声が、森の中に響き渡った。
弾丸が木の幹に食い込み、樹皮が砕け散る。
「……っ!」
蒼真は拳銃を抜き、木の陰から腕を伸ばして撃ち返した。
発砲音が森に反響する。
大和はすぐに近くの木の陰へ身を隠した。
「紗良! 立てるか!」
「……む、無理……!」
「無理でも立て! ここにいたら殺されるぞ!」
紗良は涙の滲む目で蒼真を見た。
頬の傷が痛い。
耳の奥では銃声が鳴り続けている。
ついさっきまで、死体から端末を取ることしか考えていなかった。
それなのに今は、自分がその死体の隣に並ぶかもしれない。
その恐怖に、足が震えていた。
「……端末……」
紗良は思わず悠斗の方を見た。
あと少しだった。
あと少しで、首輪を外せたのに。
「諦めろ!」
蒼真が怒鳴った。
「今取りに戻ったら死ぬぞ!」
その言葉とほぼ同時に、再び銃声が響いた。
弾丸が二人の頭上を通り過ぎ、背後の木に突き刺さった。
紗良は悲鳴を上げて頭を抱えた。
「……っ、分かった! 分かったから!」
蒼真はもう一度、銃を構えた。
大和が隠れている木の右側へ向けて、一発撃つ。
続けてもう一発。
相手が身を引いたのを確認すると、蒼真は紗良の腕を掴んだ。
「走れ!」
二人は木の陰から飛び出した。
◇
大和は銃弾が飛んできた方向を見つめ、舌打ちした。
相手も拳銃を持っている。
しかも、撃ち返すことを躊躇していない。
簡単には殺せそうになかった。
木の向こうから、二人が走り去る足音が聞こえた。
「……逃がすかよ」
大和は木の陰から身を乗り出し、逃げる二人へ銃口を向けた。
引き金を引く。
弾丸は蒼真のすぐ脇を通り過ぎ、地面を抉った。
蒼真が振り返りざまに撃ち返す。
大和は咄嗟に身を屈めた。
銃弾が頭上の枝を折り、葉が降り注いだ。
「……ちっ!」
大和は歯を食いしばった。
朝倉悠斗を殺したあとも、胸の奥にある焦りは消えていなかった。
自分に与えられた条件は、第二ステージ開始時に首輪をつけていた生存者を全員殺すこと。
一人殺した程度では、何も終わらない。
まだ大勢残っている。
しかも、時間が経てば経つほど、参加者同士が合流したり、首輪を外したりして状況は複雑になっていく。
今のうちに、できるだけ多く殺しておかなければならない。
「……くそっ!」
大和は再び走り出した。
逃げる二人の姿が、木々の間にちらついている。
距離はまだ、それほど離れていない。
◇
「……はぁっ、はぁっ……!」
紗良は必死に走っていた。
枝が腕に当たり、足元の木の根につまずきそうになる。それでも立ち止まることはできなかった。
後ろから銃声が聞こえるたび、身体が勝手に縮こまった。
「蒼真……! もう、走れない……!」
「まだだ! あいつ、追ってきてる!」
蒼真は振り返り、木々の間に人影が見えないか確認した。
銃声が一度、近くで響いた。
弾丸が足元の土を跳ね上げる。
「……っ!」
蒼真は紗良を押すようにして、道の脇へ飛び込んだ。
二人は斜面を滑り落ち、低い茂みの中に転がり込んだ。
「いった……!」
「声を出すな!」
蒼真は紗良の口元に手を当てた。
紗良は目を見開いたまま、何度も頷いた。
すぐ近くで、枯れ葉を踏む音が聞こえた。
大和だった。
蒼真は拳銃を握り直し、息を潜めた。
足音はゆっくりと近づいてくる。
紗良の呼吸が荒くなった。
頬の傷から流れた血が顎を伝い、服の襟元へ落ちる。
蒼真はその様子を横目で見ながら、口元に当てていた手をそっと離した。
そのまま人差し指を立て、静かにするよう合図する。
紗良は唇を噛んだ。
怖い。
声を上げて泣きたかった。
けれど、ここで泣けば見つかってしまう。
足音が止まった。
蒼真は銃口を茂みの向こうへ向けた。
数秒が、異様に長く感じられた。
やがて、少し離れた場所で枝の折れる音がした。
足音が遠ざかっていく。
大和は二人が進んだ方向を見誤ったらしい。
それでも蒼真は、すぐには動かなかった。
しばらく待ち、周囲が静かになったことを確かめてから、ようやく小さく息を吐いた。
「……行ったか」
紗良は震える声で尋ねた。
「……もう、大丈夫……?」
「分からない。戻ってくるかもしれない」
蒼真は立ち上がり、斜面の上を見た。
「とにかく、ここから離れるぞ」
「……うん……」
紗良は頬を押さえながら立ち上がった。
指先には、まだ血がついていた。
あと少しずれていたら、どうなっていただろう。
頬ではなく、頭に当たっていたら。
そう考えた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「……私、死ぬかと思った……」
紗良が呟くと、蒼真は振り返った。
「生きてるだろ」
「……そうだけど……」
「だったら、今はそれでいい」
蒼真はそれだけ言って歩き始めた。
紗良はしばらくその背中を見つめていた。
悠斗の端末は、結局手に入らなかった。
あと一台。
手を伸ばせば届く場所にあったのに、何も持たずに逃げてきてしまった。
悔しさがないわけではない。
けれど、今はそれ以上に、まだ生きていることへの安堵が大きかった。
紗良は頬の血を拭い、蒼真のあとを追った。
木々の向こうには、古びた建物の屋根が見えていた。
森を抜ければ、どうやら別の集落に出られそうだった。
「……ねえ、蒼真」
「何だ?」
「さっきの男……また会うと思う?」
蒼真は少しだけ歩調を緩めた。
「……会わないことを祈るしかないな」
紗良は返事をしなかった。
ただ、何度も背後を振り返りながら、薄暗い森の中を歩き続けた。




