第125話 手掛かりを求めて
どれだけ走ったのか分からなかった。
千尋が澪の手を引き、その少し後ろを蓮が何度も振り返りながら走り続ける。木々の間を縫い、途中で進路を変え、できるだけ足跡が一直線に残らないよう岩場を通り、さらに斜面を下ったところで、ようやく背後から銃声が聞こえなくなった。
「……止まれ」
蓮が低い声で言った。
千尋が足を止める。
「ここで?」
「いや、まだだ。少し待て」
蓮は二人を木の陰へ下がらせると、自分だけ数メートル戻った。
耳を澄ませる。
聞こえるのは、風に揺れる木々の音と、自分たちの荒い呼吸だけだった。
銃声はない。
足音もない。
藤崎奈緒の笑い声も、もう聞こえなかった。
それでも蓮はすぐには警戒を解かず、しばらく森の奥を睨み続けた。
「……追ってきてない?」
千尋が小声で尋ねる。
「多分な」
「多分って……」
「絶対とは言えない」
蓮は拳銃を下ろさないまま周囲を確認し、ようやく小さく息を吐いた。
「でも、撒いたと思う」
その頃。
蓮たちからかなり離れた森の中で、藤崎奈緒は一人立っていた。
ハンドガンを持ったまま、蓮たちが消えていった方向を眺めている。
追いかけようと思えば、まだ追えた。
だが、藤崎奈緒は少しも悔しそうではなかった。
「あーあ」
口を尖らせる。
「逃げられちゃった」
数秒だけ森の奥を眺めると、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。
「ま、ほかさーがそ」
鼻歌を歌い始める。
ハンドガンをくるりと回し、腰へ戻す。
そして。
蓮たちが逃げた方向とは、まったく違う方向へ歩き始めた。
「ふんふふーん……」
まるで散歩でもしているような足取りだった。
さっきまで人間へ向けて何発も銃弾を撃ち込んでいたとは思えない。
誰を探しているわけでもない。
誰でもいい。
次に会った参加者を撃てばいい。
藤崎奈緒にとっては、それだけだった。
◇
「……マジでやばいだろ、あいつ」
蓮は木にもたれながら吐き捨てた。
これまでにも危険な参加者は見てきた。
追い詰められて壊れた人間も。
生き残るために他人を殺そうとした人間も。
だが、藤崎奈緒は少し違う。
少なくとも、あの女には迷いがなかった。
人へ銃口を向けることも。
引き金を引くことも。
笑いながら追いかけることも。
あまりにも軽い。
「……あれも、クリア条件のせいなのかな」
千尋が呟いた。
「本人はそう言ってた」
「だからって……」
「ああ。普通はああならない」
蓮は短く答え、拳銃を確認してから服の内側へ戻した。
「澪、大丈夫か?」
返事がない。
「澪?」
振り返った蓮は、そこで初めて異変に気づいた。
澪は木の根元に座り込んでいた。
顔から血の気が引き、呼吸もまだ落ち着いていない。
そして。
恐怖のあまり、失禁していた。
澪自身も気づいていた。
だからこそ顔を上げられない。
「……ごめん」
掠れた声が漏れた。
「何で謝る」
「だって……私……」
「今はそんなこと気にしてる場合じゃねえよ」
蓮はそれ以上触れなかった。
笑うことも、慰めることもしない。
ただ周囲へ視線を戻す。
「生きてる。それでいい」
澪は俯いたまま唇を噛んだ。
その隣では、千尋が何も言わずに座っている。
表情だけを見れば、いつもの千尋と大きく変わらない。
けれど。
膝の上へ置いた手が震えていた。
指先が小刻みに揺れている。
それを隠すように、千尋はもう片方の手で自分の手首を握った。
蓮は気づいていた。
だが、それも指摘しなかった。
怖くないはずがない。
数分前まで、自分たちへ本物の銃弾が飛んできていたのだから。
「……こうなったら、もう泥沼だな」
蓮が呟いた。
「え?」
「ゲームだよ」
千尋が顔を上げる。
「2nd STAGEに入った時点で分かってた。でも、想像してたより早い」
蓮は端末を取り出し、時間を確認した。
まだ二日目の午後にすらなっていない。
「まだ二日目の午後にもなってねえんだぞ……」
最初の死亡者が出た。
2nd STAGEが始まった。
久我拓真のように他人を襲う参加者がいて、藤崎奈緒のように笑いながら銃を乱射する人間まで現れた。
ここから死者が増えれば、さらに状況は変わる。
誰かが死ぬ。
その死によって別の誰かの条件が進む。
条件を達成しようと誰かが動く。
それによって、また別の参加者が追い詰められる。
疑心暗鬼が広がれば、条件とは無関係の殺し合いまで始まる。
「ここから人数が減れば減るほど、残った奴らは追い詰められる。自分の条件を達成できる相手が死ぬ可能性だってあるし、誰が何を狙ってるかも分からない」
蓮は舌打ちした。
「完全に運営の思い通りじゃねえか」
その言葉を口にしたところで、蓮の表情が変わった。
「……運営」
本来の目的。
生き残ることだけではない。
蓮がもう一度このゲームへ来た理由。
「クソ……」
蓮は頭を掻いた。
「ゲームの運営側を調べたいのに、こんな奴らから逃げ回ってたら何もできねえ」
「調べるって……どうやって?」
千尋が尋ねる。
「それを探してる」
蓮はぶつぶつと呟きながら歩き始め、数歩進んだところで止まった。
この島。
施設。
端末。
監視カメラ。
前回のゲーム。
そして――。
「……待てよ」
蓮が顔を上げた。
「どうしたの?」
「中央広場」
「中央広場?」
蓮の頭の中で、前回の光景が蘇る。
参加者が最初に意識する場所。
ゲームの中心として扱われる場所。
前回も。
そして今回も。
ゲームそのものの起点となる場所。
「ゲームの起源地……」
蓮が小さく呟く。
千尋が首を傾げた。
「起源地?」
「少なくとも、この島でゲームを始めるなら中央広場は外せない。参加者を誘導するにも、監視するにも、何か理由があるはずだ」
運営に繋がるものが必ずあるとは限らない。
何もない可能性だってある。
それでも、闇雲に島を歩き回るよりはいい。
「……一回、行ってみるか」
「今から?」
蓮はすぐには答えなかった。
藤崎奈緒がどこにいるのか分からない。
久我拓真もいる。
他の参加者たちが2nd STAGEの条件を確認し、すでに動き始めている。
中央広場のような分かりやすい場所へ行けば、誰かと遭遇する危険も高くなる。
「いや……」
蓮は澪を見る。
まだ顔色が悪い。
呼吸は少しずつ整ってきているものの、今すぐ歩かせる状態ではなかった。
「今はやめとく」
澪が顔を上げる。
「……私のせい?」
「違う」
蓮は即答した。
「今のお前を無理に歩かせても、何かあったら動けない。それじゃ全員危なくなる」
言い方は相変わらず冷たい。
だが、澪を置いていくという選択肢は最初からなかった。
「少し休む」
蓮は周囲を見回した。
「澪が落ち着いたら中央広場へ向かう。ただし、藤崎奈緒には絶対近づかない。銃声が聞こえたら迂回する」
「また会ったら?」
千尋が聞く。
蓮は一瞬だけ黙った。
「逃げる」
「戦わないの?」
「戦う理由がない」
蓮は淡々と答えた。
「あいつを倒すことが俺たちのクリア条件じゃない。撃ち合って誰か死んだら、それこそ運営の思う壺だ」
千尋は少し驚いたように蓮を見る。
蓮はそんな視線を気にせず、再び森の奥へ目を向けた。
「まず中央広場だ」
そこに何があるのか。
本当に運営へ繋がる手掛かりが残されているのか。
分からない。
それでも。
逃げ続けているだけでは、何も変わらない。
蓮は木の根元に座る澪を一度だけ振り返った。
「今は休め」
澪が小さく頷く。
その横へ千尋が座った。
蓮だけは休まない。
拳銃へ手を添えたまま二人から少し離れ、周囲の警戒を続ける。
森は再び静かになっていた。
遠くからも、もう銃声は聞こえない。
藤崎奈緒がどこへ向かったのかも分からない。
その静けさの中で。
蓮たちは次の目的地を決めた。
――中央広場。
前回のゲームでも、すべてが動き始めた場所へ。




