第124話 狂った女
湖畔に響いた銃声は、一度や二度では終わらなかった。
蓮は木の陰に身体を隠したまま拳銃を握り、湖の向こうへ視線を凝らしていた。最初はかなり離れた場所から聞こえていたはずなのに、銃声は少しずつ近づいている。
「……こっちに来てるな」
小さく呟き、木々の隙間へ目を走らせる。
千尋と澪は少し離れた場所で身を低くしていた。
「蓮、どうする?」
「まだ動くな。撃ってる奴と逃げてる奴がいる」
「分かるの?」
「音が移動してる。撃ち合いなら、もう少し同じ場所で続く」
蓮が答えた直後、森の奥から再び銃声が響いた。
今度は明らかに近い。
澪の肩が跳ねた。
「近づいてない……?」
「ああ」
蓮は拳銃の安全装置へ指をかけながら、銃声の方向を睨み続ける。
「二人とも、いつでも走れるようにしとけ」
千尋が立ち上がろうとした、そのときだった。
森の奥で枝が大きく揺れた。
誰かが来る。
蓮は即座に拳銃を構えた。
「蓮!」
「下がってろ」
足音が近づいてくる。
一人ではない。
激しく地面を蹴る音と荒い息遣いが重なり、次の瞬間、木々の間から二人の男が飛び出してきた。
「クソッ……まだ来てんのかよ!」
「知るか! とにかく走れ!」
片桐蒼真と久我拓真だった。
二人とも蓮たちに気づいていない。
そのまま湖畔へ飛び出そうとして――久我拓真が蓮を見た。
「あっ!」
久我拓真の足が一瞬だけ止まる。
「お前!」
蓮もすぐに気づいた。
「……お前か」
少し前。
ボウガンで自分たちを襲ってきた男。
久我拓真の表情が一気に険しくなった。
「てめえ……!」
「久我拓真! 何やってんだ、止まるな!」
片桐蒼真が怒鳴る。
「こいつは――」
久我拓真は蓮を睨みつけたが、その直後、背後から銃声が響いた。
近くの木の幹が弾ける。
「うおっ!」
「だから止まるなって言ってんだろ!」
片桐蒼真が久我拓真へ怒鳴り、そのまま蓮たちの横を駆け抜ける。
すれ違いざま、蓮へ向かって叫んだ。
「お前らも早く逃げろ! やべえ女が来てる!」
「女?」
「いいから逃げろ!」
片桐蒼真は説明する余裕もなく、そのまま湖畔を走り去っていった。
久我拓真も蓮を睨みながら後退する。
「チッ……!」
よほど何か言いたそうだったが、今はそれどころではない。
「あとから覚えておけよ!」
捨て台詞を残し、久我拓真も片桐蒼真を追って走り去った。
蓮は二人の背中を見送る。
「……何なんだ?」
「知り合い?」
千尋が尋ねる。
「さっき俺たちにボウガン撃ってきた奴だ」
「えっ!?」
「でも……」
澪が片桐蒼真と久我拓真の逃げていった方向を見る。
「あの人たちが逃げてるってことは……」
蓮も同じことを考えていた。
久我拓真は、少なくとも先ほどまでボウガンを使って人間を襲う側だった。
その男が。
今は本気で逃げていた。
何から。
蓮はゆっくりと視線を森の奥へ戻した。
静かだった。
さっきまで響いていた銃声が止まっている。
その静けさが、かえって不気味だった。
木々の間。
少し離れた場所に、人影が見えた。
女だった。
藤崎奈緒。
片手にはハンドガン。
その銃を人差し指に引っかけ、くるくると回しながら歩いてくる。
急いでいる様子などない。
片桐蒼真と久我拓真を追いかけていたはずなのに、逃げられたことを気にしている様子もなかった。
ただ、笑っている。
口元を大きく歪め、楽しそうに。
いや。
楽しそうというより――。
ニタニタと。
目の前に新しい玩具でも見つけたように、蓮たちを見ていた。
「……おい」
蓮の表情が変わった。
千尋も藤崎奈緒に気づく。
「何……あの人」
藤崎奈緒の視線が、三人を順番になぞっていく。
蓮。
澪。
そして。
千尋を見たところで、その目が止まった。
「あれ?」
藤崎奈緒が首を傾げる。
千尋の首には。
首輪がない。
「……見つけた」
小さく呟いた。
その笑みがさらに深くなる。
藤崎奈緒は回していたハンドガンのグリップを握ると、銃口をこちらへ向けた。
「伏せろ!」
蓮が叫ぶ。
銃声が響いた。
蓮は身体を横へ投げ出しながら拳銃を構え、藤崎奈緒へ向かって引き金を引いた。
銃声が重なる。
藤崎奈緒が笑いながら木の陰へ身体を滑り込ませる。
「撃ってきた!」
楽しそうな声だった。
「こいつ、撃ち返してきたよ!」
「当たり前だろ!」
蓮は木を盾にしながら、もう一発撃つ。
藤崎奈緒は顔だけを引っ込め、直後に別の位置からハンドガンを撃ち返してきた。
木の表面が弾ける。
「千尋! 澪連れて走れ!」
「蓮は!?」
「あとから行く!」
「でも――」
「早く行け!」
蓮の怒声が飛んだ。
千尋が澪を見る。
「澪ちゃん、行くよ!」
返事がない。
「……澪ちゃん?」
澪は立ち尽くしていた。
顔が引き攣っている。
目の前で本物の銃弾が飛び交っている。
さっきまで聞いていただけだった銃声が、今は耳を塞ぎたくなるほど近い。
木に弾丸が当たる。
土が跳ねる。
火薬の臭いがする。
藤崎奈緒は笑っている。
「……無理」
澪の唇が震えた。
「動けない……」
「澪ちゃん!」
「足が……」
動かなかった。
逃げなければならないと分かっているのに、身体が命令を聞かない。
また銃声が響く。
澪の身体が大きく震えた。
「澪!」
蓮が怒鳴る。
それでも動けない。
藤崎奈緒が木の陰から顔を出した。
「あはっ」
銃口が向く。
蓮が先に撃った。
藤崎奈緒が再び隠れる。
「千尋! 連れてけ!」
「分かってる!」
千尋は澪のところまで駆け寄ると、その手首を強く掴んだ。
「走るよ!」
「でも、蓮が……」
「蓮なら追いついてくる!」
「でも――」
「いいから!」
千尋は動けない澪の手を引き、無理やり走り出した。
最初の数歩、澪は引きずられるようについていくだけだった。
それでも千尋は手を離さない。
「千尋……!」
「前見て! 転ばないで!」
木々の間へ飛び込む。
千尋に引かれながら、澪もようやく自分の足で走り始めた。
蓮は二人が森へ入ったのを確認すると、木の陰から藤崎奈緒へ拳銃を向ける。
「……何なんだよ、あいつ」
「聞こえてるよー!」
藤崎奈緒が笑いながら答えた。
「だったら答えろ! 何で撃ってくる!」
「クリア条件!」
「は?」
「私の!」
藤崎奈緒が木の陰から腕だけを出して発砲する。
蓮はすぐに身を引いた。
「だからって誰でも撃つのかよ!」
「誰が対象か考えるの面倒なんだもん!」
「……は?」
一瞬。
蓮ですら言葉を失った。
その隙に藤崎奈緒が木の陰から飛び出す。
「だから全員殺す!」
「イカれてんのか!」
「そうかも!」
また銃声。
蓮も撃ち返す。
藤崎奈緒は笑いながら走り、別の木へ飛び込んだ。
その姿を見た瞬間、蓮は理解した。
話が通じない。
条件を聞き出して説得するような相手ではない。
それどころか、藤崎奈緒はこの状況そのものを楽しんでいる。
「チッ……!」
蓮は残弾を確認すると、千尋と澪が逃げた方向へ走り出した。
「あっ、逃げた!」
背後から藤崎奈緒の声が聞こえる。
「待ってよ!」
「誰が待つか!」
蓮は振り返らない。
その直後、背後から銃声が響き、近くの木に弾丸が食い込んだ。
「クソッ!」
身体を低くして走る。
前方には、千尋に手を引かれて必死に逃げる澪の姿が見えていた。
「そのまま走れ!」
蓮の声に、千尋だけが振り返る。
「蓮!」
「止まるな!」
蓮が二人を追う。
そのさらに後ろから。
「あはははっ!」
藤崎奈緒の笑い声が森に響いていた。
三人を追いかけながら、ハンドガンを構えている。
蓮は走りながら一度だけ振り返り、藤崎奈緒へ向けて発砲した。
弾丸が近くの木を抉る。
藤崎奈緒が笑いながら身をかわす。
「惜しい!」
「……こいつ」
蓮は歯を食いしばり、再び前を向いた。
千尋。
澪。
そして蓮。
三人は湖畔から離れ、森の奥へ走り続ける。
その背後を、藤崎奈緒が笑いながら追いかけてきていた。
2nd STAGEが始まって、まだそれほど時間は経っていない。
それでも島はもう、蓮が恐れていた形へと変わり始めていた。




