第116話 因縁
「走れ!」
蓮の声が森の中へ響いた。
その言葉に押されるように、澪と千尋も斜面を駆け下りていく。木々の間隔は狭く、足元には湿った落ち葉と剥き出しになった根が入り混じっているため、速度を上げすぎれば転倒しかねない。それでも、三人とも足を緩めることはできなかった。
背後から追ってくる足音が、まだ消えていない。
「蓮、どっち!?」
「そのまま真っ直ぐ! 次の大きい木で右に曲がれ!」
「分かった!」
千尋が答え、その前を走っていた澪が大きな木の横を抜けて右へ曲がる。
蓮もその後を追おうとした、そのときだった。
背後から、空気を鋭く裂く音がした。
考えるより先に身体が反応した。
蓮がわずかに顔を傾けた直後、一本の矢が頬のすぐ横を通り過ぎ、そのまま前方の木の幹へ深々と突き刺さった。
「っ……!」
あと数センチずれていれば、顔に刺さっていた。
その事実を理解するより先に、千尋の引きつった声が飛んでくる。
「今の……ボウガン!?」
「振り返るな! 走れ!」
蓮は叫び返し、二人を追った。
矢を撃ってきた男の顔には見覚えがある。
忘れるはずがなかった。
少し前。
自分の指定物資を回収するために立ち寄った建物で、何の前触れもなく殴りかかってきた男だ。
あのときは、もう一人のPLAYERが男を止めたことで、それ以上の争いにはならなかった。
蓮にとっては、それだけの出来事だった。
だが。
どうやら相手にとっては、そうではなかったらしい。
*
襲撃が始まったのは、ほんの数分前だった。
山小屋を出た三人は、澪の端末に表示されている指定鍵の場所へ向かっていた。
朝の森は、昨夜とはまるで印象が違う。
木々の隙間から柔らかな日差しが差し込み、鳥の声まで聞こえてくる。湖畔で見た夜空や、山小屋で過ごした時間の余韻がまだどこかに残っているせいか、一瞬だけ、この島が何のために用意された場所なのか忘れてしまいそうになるほど穏やかだった。
ただし。
蓮だけは、その穏やかさを信用していなかった。
「あとどれくらい?」
千尋が尋ねる。
澪が端末を確認しながら歩いていた。
「このままなら、そんなに遠くないと思う。地図だと――」
「歩きながら画面ばっかり見るなよ」
蓮が前を向いたまま言った。
「転ぶぞ」
「見ないと場所分からないよ」
「止まって見ればいい」
「はい、先生」
「だから先生はやめろ」
千尋が笑う。
「蓮、学校の先生になったら細かそう」
「ならない」
「宿題忘れたら怒る?」
「知らん」
「澪はちゃんと宿題やるタイプ?」
「一応」
「偉い」
「お前ら遠足に来てるんじゃないぞ」
「分かってるって」
千尋の返事は軽かった。
だが、それくらいでいいのかもしれない。
昨夜から今朝にかけて、二人が作る空気に何度か助けられていることを、蓮自身も薄々認め始めていた。
もちろん。
それで警戒を緩めるつもりはない。
むしろ千尋の首輪が外れ、澪の条件達成も見えてきた今だからこそ、余計な危険は避けたかった。
「澪」
「ん?」
「鍵を取ったら、すぐ保管庫へ向かう必要はないからな」
「そうなの?」
「夜まで時間があるなら別だけど、無理に急ぐ必要はない。鍵さえ確保しておけば――」
そこで。
蓮の言葉が止まった。
前方の茂み。
何かが動いた。
風ではない。
枝が揺れた方向が不自然だった。
蓮はすぐに右手を上げ、後ろの二人を止める。
「どうしたの?」
千尋の声も自然と小さくなる。
「誰かいる」
澪の表情からも笑みが消えた。
蓮は周囲へ視線を走らせた。
右側には太い木が何本も並んでいる。左側は少し開けているが、その先は斜面になっている。もし襲われた場合、二人を逃がすなら右へ動かした方がいい。
そう考えていたとき。
茂みの向こうから声がした。
「……やっと会えたぜ」
聞き覚えのある声だった。
蓮の眉が動く。
やがて、一人の男が木の陰から姿を現した。
首には黒い首輪。
その手には、以前会ったときには持っていなかった武器が握られている。
ボウガンだった。
「……お前」
蓮は男の顔を見て、すぐに思い出した。
指定物資を回収した建物。
突然殴りかかってきた男。
「覚えてたか」
男は嬉しそうですらあった。
蓮には、その笑みの意味が理解できなかった。
「何の用だ」
「何の用?」
男の口元がさらに歪む。
「よくそんなこと言えるな」
「先に殴ってきたのはお前だろ。俺は止めただけだ」
「……その態度だよ」
低い声だった。
「何が」
「そうやって、何でも分かってるみたいな顔しやがって」
「意味分からん」
「あのときもそうだった」
男の声が少しずつ大きくなる。
「俺を簡単に押さえつけて、何でもないみたいな顔して……バカにしやがって」
「してない」
「してただろ!」
怒声に、澪の肩が小さく揺れた。
蓮はそれを横目で確認しながら、二人を庇うように半歩前へ出た。
「だったら何がしたい」
「決まってんだろ」
男――久我拓真は、手にしていたボウガンをゆっくりと持ち上げた。
その先端が蓮へ向けられる。
「殺してやる」
千尋が息を呑んだ。
「……本気か?」
「やっと見つけたんだ。逃がすかよ」
蓮は拓真の目を見る。
脅しではない。
話し合える状態でもなさそうだった。
自分がここで武器を抜けば、拓真がどう動くか分からない。何より、すぐ後ろには千尋と澪がいる。
「二人は関係ない」
「知らねえよ」
拓真は二人へ一瞬だけ視線を向けた。
「お前と一緒にいるなら同じだろ」
「同じじゃない」
「だったら守ってみろよ」
その言葉と同時に。
拓真の指が動いた。
「走れ!」
蓮が叫ぶ。
千尋と澪が弾かれたように駆け出した。
蓮も横へ飛ぶ。
直後、さっきまで蓮の胸があった場所を矢が通り抜け、後方の木へ突き刺さった。
「逃がすかよ!」
拓真の声が追ってくる。
そこから。
三人の逃走が始まった。
*
木々の間を縫うように走りながら、蓮は何度も進路を変えた。
真っ直ぐ逃げれば、背後から狙われ続ける。
できるだけ太い木を挟み、拓真からこちらの姿が見えなくなる時間を増やす。そうしながら距離を広げるしかない。
「右!」
蓮の指示で澪が進路を変え、千尋もすぐに続いた。
その直後、また矢が飛んでくる。
今度は千尋の少し後ろを通り過ぎ、地面へ突き刺さった。
「もう! 何なの、あの人!」
「喋る余裕あるなら走れ!」
「走ってるでしょ!」
「なら前見ろ!」
千尋が何か言い返しかけたが、さすがにそれ以上は黙った。
蓮も走りながら、背後の気配を探る。
拓真は諦めていない。
足音が近い。
あれだけ撃ちながら追ってくるということは、矢にも余裕があるのだろう。
山小屋で手に入れた武器が頭をよぎった。
自分が元から隠し持っている拳銃もある。
撃ち返すことはできる。
ただ。
蓮はまだ、それを選べなかった。
最初の死者。
その言葉が頭から離れない。
前回は一人が死んだことで、ゲームそのものが次の段階へ移った。
今回も同じなら。
ここで拓真を殺すことは、自分たち三人だけの問題ではなくなる。
島にいる全PLAYERの状況を変える可能性がある。
だからといって。
澪や千尋へ矢が刺さるまで我慢するつもりもない。
次に距離を詰められたら――。
そのときは。
「きゃっ!」
澪の声がした。
蓮の思考が吹き飛んだ。
「澪!」
前を走っていた澪の身体が大きくよろめく。
転びそうになったところを、すぐ後ろにいた千尋が支えた。
「大丈夫!?」
「う、うん……!」
澪は走り続けようとする。
だが。
左腕の服が裂けていた。
白い肌に赤い線が走り、そこから血が滲んでいる。
矢そのものは地面へ転がっていた。
深く刺さったわけではない。
掠めた。
それでも。
蓮の中で何かが冷たくなる。
「……あいつ」
無意識に荷物へ手が伸びた。
銃を出す。
振り返る。
撃つ。
それだけなら、できる。
「蓮!」
千尋の声が飛んできた。
「澪、走れる!」
蓮は我に返った。
澪もこちらを見る。
「大丈夫! 掠っただけだから!」
「……くそっ」
蓮は武器から手を離した。
「止まるな! この先で左へ入る!」
三人は再び速度を上げた。
澪を千尋の内側へ入れ、蓮は少し後ろへ位置を変える。
次に矢が来たら。
せめて自分が先に気づける位置へ。
森の奥へ進むほど、木々は密集していった。
視界が悪くなる。
普通なら嫌うべき地形だが、今だけはありがたい。拓真にとっても、こちらを狙うための射線が作りにくくなる。
蓮は何度も方向を変えた。
途中で斜面を下り、倒木を越え、さらに岩の多い場所へ入る。
背後の足音は少しずつ遠ざかっていった。
それでも止まらない。
聞こえなくなってからも走った。
完全に撒いたと判断できるまで。
どれくらい走ったのか。
千尋の呼吸が大きく乱れ、澪の顔にも疲労が浮かんだ頃。
蓮はようやく速度を落とした。
「……止まれ」
千尋がその場に膝をつく。
「はぁ……はぁ……もう……無理……」
澪も近くの木へ手をつき、大きく息をしている。
蓮は周囲を確認した。
人影はない。
足音もない。
「澪」
すぐに彼女へ近づく。
「腕見せろ」
「大丈夫だよ」
「見せろ」
声が強くなった。
澪は一瞬だけ目を丸くしたあと、素直に左腕を差し出した。
「……うん」
裂けた袖を慎重にずらす。
傷は深くない。
矢の先端が腕の表面を掠め、細長く皮膚を切っている。血は出ているが、深く食い込んだ形跡はなかった。
蓮はそこでようやく、胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
「千尋」
「何?」
「悪いけど周り見ててくれ」
「分かった」
さっきまで息を切らしていた千尋がすぐに立ち上がる。
蓮は荷物から応急手当に使えるものを取り出し、澪の前へしゃがんだ。
「少し染みるぞ」
「うん」
傷を清潔にしていく。
澪の眉が僅かに寄った。
「痛いか?」
「ちょっとだけ」
「無理して平気って言うなよ」
「言ってないよ」
「さっき言った」
「さっきは走らないと駄目だったから」
「……」
確かにそうだった。
蓮は何も言わず、傷を覆った。
「これでいい」
「ありがとう」
「腕、動かしてみろ」
澪がゆっくりと曲げ伸ばしする。
「大丈夫そう」
「痛みが強くなったらすぐ言え」
「うん」
少し離れたところで周囲を見ていた千尋が、こちらを振り返った。
「追ってきてないみたい」
「そうか」
「……あの人、何なの?」
千尋の声には、先ほどまでとは違う苛立ちが混じっていた。
「前に会ったって言ってたよね?」
「ああ」
「何があったの?」
「いきなり殴りかかってきたから押さえた。それだけだ」
「本当にそれだけ?」
「それだけ」
「それで殺そうとしてくるの?」
「俺に聞くな」
千尋は理解できないという顔をした。
それは澪も同じだった。
「条件じゃないのかな」
澪が尋ねる。
「分からない」
蓮は答えた。
「少なくとも、あいつがそう言ったわけじゃない」
「じゃあ……ただ怒ってるだけ?」
「たぶんな」
「そんなことで……」
澪が自分の包帯を見た。
「人を殺そうとするんだ」
蓮は黙った。
そこが。
このゲームの厄介なところだった。
運営が「殺せ」と命じなくてもいい。
武器を置く。
閉鎖された島へ放り込む。
誰を信用していいか分からない状況を作る。
それだけで。
人間同士が勝手に争い始めることがある。
前回も。
そして今回も。
「……悪かった」
蓮が呟いた。
「え?」
澪が顔を上げる。
「あいつは俺を狙ってた」
「それ、蓮が謝ること?」
「でも、お前が怪我した」
「蓮」
澪は少し困ったように笑った。
「殴りかかったのも、矢を撃ったのも、あの人でしょ?」
「……」
「蓮じゃない」
「そうだけど」
「じゃあ謝らなくていいよ」
澪はそう言ってから、包帯を巻かれた腕を少し持ち上げた。
「ほら。これくらいで済んだし」
「これくらいって言うな」
「また怒った」
「怒ってない」
「顔怖いよ」
「いつもだよ」
千尋が戻ってきながら言った。
「お前は余計なこと言うな」
「はいはい」
澪が笑う。
その笑顔を見て。
蓮もようやく少しだけ肩の力を抜いた。
けれど。
終わったわけではない。
あの男が諦めた保証はない。
また会えば。
今度も襲ってくる可能性が高い。
「これからどうする?」
千尋が尋ねた。
蓮は端末の地図を開いた。
逃走したことで、予定していた経路から大きく外れている。
指定された鍵の場所は消えていない。
ここからなら遠回りにはなるが、別方向から近づくことができる。
「鍵を取りに行く」
澪が驚いたようにこちらを見る。
「まだ行くの?」
「腕は?」
「歩ける」
「なら行ける」
「でも、あの人がいるかもしれないよ」
「同じ道は使わない。大きく迂回する」
蓮は地図を確認しながら続ける。
「それに、逃げ続けてるだけじゃ条件は終わらない」
「……」
「今日は鍵を取るところまで行く。保管庫はそのあと考える」
千尋が頷いた。
「私はそれでいい」
蓮は澪を見る。
「お前は?」
澪は包帯の巻かれた腕へ目を落とした。
少しだけ考えてから。
顔を上げる。
「行く」
その声には迷いがなかった。
「鍵、取りたい」
「ああ」
蓮は端末を閉じた。
「じゃあ行こう」
三人はしばらく身体を休めてから、再び森の中へ足を踏み出した。
今度は。
さっきまでとは違う道を選んで。
九条澪のゲームクリアに必要な――指定された鍵を目指して。




