第115話 千尋の気持ち
山小屋の中が静かになったのは、それから一時間ほど経った頃だった。
古びた小屋は、風が吹くたびに小さく軋んだ。
窓の向こうには森が広がり、そのさらに先には先ほどまで三人で眺めていた湖がある。ここから水面を見ることはできないが、木々の隙間から星だけは覗いていた。
蓮は入口近くの壁へ背を預け、膝を立てて座っていた。
眠るつもりはない。
少なくとも、最初の見張りを終えるまでは。
三人全員が同時に眠るほど、この島を信用してはいなかった。
PLAYERが襲ってくる可能性もある。
運営が何かを仕掛けてくる可能性もある。
何より、前回の経験がある。
静かな時間ほど、蓮は完全には気を抜けなかった。
荷物は手の届くところへまとめてある。
その中には、先ほど千尋から受け取った首輪も入っていた。
つい数時間前まで彼女の命を縛っていたもの。
今はただの黒い輪となり、蓮の荷物の中に収まっている。
小宮千尋はゲームクリア。
首輪も解除した。
次は九条澪。
指定された鍵を回収し、それを使って指定の保管庫を開ければ、澪もゲームクリアとなる。
そして自分。
すでに指定物資は回収している。
残るのは指定地点への運搬だけだ。
順調。
言葉だけなら、そう表現できる。
だが。
蓮はその言葉を信用していなかった。
前回もそうだった。
少しだけ希望が見えたところで。
ゲームは簡単に、それをひっくり返した。
「……蓮」
不意に背後から声がした。
蓮はすぐに振り返った。
「……千尋か」
暗がりから千尋が姿を現した。
「びっくりした?」
「後ろから急に声かけるな」
「ごめんごめん」
小さく笑いながら近づいてくる。
そして蓮の隣へ腰を下ろした。
「寝れないのか?」
「ちょっと寝たよ」
「じゃあ何で起きてきた」
「目が覚めちゃった」
「寝直せ」
「そんな簡単に言わないでよ」
「目閉じてればそのうち寝る」
「蓮は?」
「見張り」
「ずっと?」
「あとで交代する」
千尋は膝を抱えた。
「澪は?」
蓮が尋ねる。
「ぐっすり」
「そうか」
「ほんとにぐっすりだよ。横になって少ししたら寝ちゃった」
「疲れてるんだろ」
「高校生だもんね」
「大学生もそんなに変わらないだろ」
「違います」
「何が」
「大学生は大人です」
「自分で言う奴は大人じゃない」
「またそれ」
千尋が笑った。
蓮も窓へ視線を戻す。
しばらく二人とも喋らなかった。
気まずい沈黙ではない。
森の音を聞きながら、ただ同じ窓の外を眺めている。
「……ねえ」
「ん?」
「今日さ」
「何だ」
「ありがとう」
蓮が横を見る。
「何が」
「いろいろ」
「雑だな」
「じゃあちゃんと言う」
千尋は自分の首へ触れた。
そこにはもう何もない。
「私の条件、最後まで付き合ってくれてありがとう」
「別に」
「その『別に』やめない?」
「何で」
「素直じゃないから」
「俺にも都合があっただけだ」
「澪を探すことでしょ?」
「……まあな」
「運営からメールが来たから」
「ああ」
千尋はそこまで知っている。
蓮が突然、九条澪というPLAYERを探すと言い出した理由。
運営から届いたメール。
PLAYER15。
九条澪。
それを手がかりに、二人で彼女を探した。
そこまでは千尋へ話している。
ただ。
全てではない。
メールが本来、自分へ送られるはずのものではなかったこと。
その内容がGAME MASTERに向けられた指示だったこと。
運営が実際のGAME MASTERへ送るはずだった指示を、なぜかPLAYER13である自分へ送ってきたこと。
そして、その誤送信によって。
今回の十五人の中にもGAME MASTERが潜んでいると確信したこと。
千尋は、GAME MASTERが参加者の中にいるらしいことまでは蓮との会話から察している。
けれど。
その発端となったメールの詳細までは知らない。
澪に至っては、さらに何も知らない。
自分が運営から名指しされていたことすら知らないまま、蓮たちと行動している。
「それでも」
千尋が続けた。
「途中で私の条件なんて放っておくこともできたでしょ」
「……」
「でも戻ってきてくれた」
「最初から手伝うって言ってたからな」
「だから、ありがとう」
「……」
「それくらい受け取ってよ」
「分かったよ」
「うん」
「……どういたしまして」
千尋が笑った。
「言えるじゃん」
「うるさい」
蓮はまた窓の外へ目を向けた。
「蓮ってさ」
「今度は何だ」
「やっぱり優しいよね」
「違う」
「即答?」
「俺はそんな人間じゃない」
千尋が黙った。
蓮は冗談で言ったわけではなかった。
優しい。
良い人。
そんな言葉を、自分へ簡単に当てはめる気にはなれない。
話していないことが多すぎる。
前回のゲーム。
GAME MASTER。
運営。
今回、自分へ送られてきたメールの本当の意味。
何より。
蓮はこの先、ゲームが変わる可能性を知っている。
だから千尋の首輪が外れたことにも、心の底から安心できてはいない。
澪をそばへ置いているのも。
彼女を信用しきったからではない。
運営が、なぜ九条澪を名指ししたのか。
それを知りたいという目的がある。
そんな自分を。
ただ優しい人間だとは思えなかった。
「でも」
千尋が静かに言った。
「私は助けてもらったよ」
「……」
「それでいいじゃん」
「何が」
「蓮が自分をどう思ってるかは知らないけど。少なくとも私は助けてもらった」
蓮は返事をしなかった。
「だから」
千尋が笑う。
「もう一回。ありがとう」
「……ああ」
その直後だった。
千尋が少しだけ身体を寄せた。
「ん?」
蓮が横を向く。
近い。
そう思ったときには。
千尋の顔がさらに近づいた。
ほんの一瞬。
唇へ、柔らかな感触が触れた。
「……」
蓮の思考が止まった。
千尋はすぐに離れる。
何事もなかったように、元の位置へ座り直した。
「……は?」
「お礼」
「いや……」
「何?」
「何じゃないだろ」
千尋はニコニコしている。
「減るもんじゃないし」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「……」
蓮は言葉に詰まった。
「ほら」
「何がほらなんだよ」
「顔、固まってる」
「急にやるからだろ」
「言ったら避けるでしょ?」
「避ける」
「だから言わなかった」
「お前な……」
蓮は額へ手を当てた。
千尋はそんな蓮を見ながら、楽しそうに笑っている。
「……俺は、そんな人間じゃないぞ」
「どんな人間?」
「お前が思ってるような奴じゃない」
「私が蓮をどう思ってるか、蓮に分かるの?」
「……」
「分からないでしょ?」
千尋は笑っている。
けれど。
その目は、少しだけ真剣だった。
「だったら勝手に決めないでよ」
「……」
蓮は何も言えなかった。
少しの沈黙。
やがて千尋が窓の外を見た。
「ねえ、蓮」
「何だよ」
「帰ったら何したい?」
「……帰ったら?」
「うん」
「ここから?」
「そう」
帰ったら。
簡単な言葉なのに。
蓮には、妙に遠く聞こえた。
前回。
あれほど帰りたいと思っていた。
生きて島を出たい。
ただそれだけだった。
だが。
実際に帰っても、終わらなかった。
詩織。
佳子。
葵。
黒田。
生き残った者たち。
そして。
帰れなかった者たち。
莉奈。
父親の過去。
運営。
GAME MASTER。
調べれば調べるほど、エクストラバレットは島の外まで追いかけてきた。
そして今。
また自分は島にいる。
「……何だろうな」
「ないの?」
「急に聞かれても」
「美味しいもの食べるとか」
「別に」
「旅行」
「面倒」
「遊びに行く」
「面倒」
「仕事探す」
「もっと面倒」
「プー太郎極めすぎじゃない?」
「うるさい」
千尋が吹き出した。
「じゃあ、本当に何したいの?」
蓮は少し考えた。
帰れたとして。
何も起こらず。
誰にも追われず。
何も考えなくていいのなら。
「……寝たい」
「え?」
「寝たい」
「それだけ?」
「ああ」
「もっとあるでしょ」
「ない」
「夢とか」
「今は寝るのが夢だ」
「小さいなぁ」
「悪いか」
「悪くないけど」
千尋は膝へ顎を乗せた。
「私は……」
声が少し変わった。
蓮が横を見る。
「何だよ」
「帰ったら」
「うん」
「……」
千尋は迷っていた。
さっきまでのように笑わない。
しばらくして。
小さく息を吐いた。
「……一緒にいたい」
蓮は何も言えなかった。
誰と。
とは聞かなかった。
聞く必要もなかった。
森の中で風が吹く。
葉の擦れる音だけが、小屋の中まで届いてくる。
「……」
千尋も、それ以上は何も言わなかった。
蓮は返事を探した。
けれど。
見つからない。
この島から帰れる保証などない。
自分も。
千尋も。
澪も。
三人とも生きて帰れるとは限らない。
そして。
もし帰れたとしても。
蓮には、その先を簡単に約束することができなかった。
「……そろそろ寝ろ」
結局。
口から出たのは、そんな言葉だった。
千尋は蓮を見つめた。
やがて。
「うん」
立ち上がる。
「おやすみ、蓮」
「ああ」
数歩進んで。
千尋が振り返った。
「キスのこと、忘れないでね」
「余計なこと言うな」
「ふふ」
千尋は小さく笑い、奥の部屋へ戻っていった。
「……何なんだよ」
蓮は額を押さえた。
そして。
蓮も。
千尋も。
気づいていなかった。
奥の部屋。
簡易ベッドの上で。
「…………」
毛布から、ほんの少しだけ顔が出ている。
澪だった。
眠っていた。
少なくとも最初は。
けれど千尋が部屋を出ていく音で目が覚めた。
トイレにでも行ったのかと思った。
なかなか戻ってこない。
気になった。
だから。
本当に少しだけ。
扉の隙間から外を見た。
そして。
見てしまった。
「……」
澪は毛布を鼻まで引き上げた。
顔が熱い。
自分がされたわけでもないのに。
頭の中から、さっきの光景が離れない。
「……キスした……」
小さく呟く。
しかも。
『私は……一緒にいたい』
そこまで聞いてしまった。
「……」
毛布がさらに上がる。
「……見ちゃった……」
誰にも聞こえない声だった。
明日の朝。
二人の顔を普通に見られるだろうか。
そんなことを考えながら。
澪は毛布の中で、一人だけ真っ赤になっていた。
*
夜明け前。
蓮は入口近くの壁へ背を預けたまま、見張りを続けていた。
千尋が戻ってからも、しばらく眠気はなかった。
だが。
朝が近づくにつれ、さすがに瞼が重くなってくる。
少しだけ。
本当に。
少しだけ目を閉じる。
そのつもりだった。
気づけば。
蓮は森の中に立っていた。
「……?」
見覚えがある。
けれど。
どこなのかは分からない。
前回の島のようでもあり。
今の島のようでもある。
木々の向こう。
一人の女が立っている。
長い髪。
その姿を見た瞬間。
蓮は動けなくなった。
「……莉奈」
神崎莉奈。
死んだはずの彼女が。
そこにいる。
血はない。
傷もない。
最後に見た、弱り切った姿でもない。
生きていた頃と同じ。
ただ。
妙に不機嫌そうな顔で蓮を見ていた。
「……何だよ」
莉奈は答えない。
じっと見ている。
「莉奈?」
やがて。
莉奈が口を開いた。
「その女、誰?」
「……は?」
「その女」
「何の話だよ」
莉奈が一歩近づいた。
「ねえ、蓮」
「何だよ」
「その女、誰?」
「待て。何でお前が――」
「蓮」
声が変わった。
「蓮」
「……」
「蓮ってば」
「っ!」
蓮は飛び起きた。
「……!」
目の前に。
二つの顔があった。
「うわっ!」
蓮は反射的に身体を引いた。
千尋。
澪。
二人がしゃがみ込み、揃って蓮の顔を覗き込んでいる。
「……何してんだ、お前ら!」
「起きた」
千尋が言った。
「起きたね」
澪も言った。
「近いんだよ!」
蓮は額を押さえた。
心臓が速い。
夢。
今のは夢だ。
「……朝か?」
「もう明るいよ」
千尋が窓を指差す。
外には朝の光が差し始めている。
「俺……寝てたのか」
「寝てた」
「……悪い」
「それはいいんだけど」
千尋が笑った。
何だ。
その顔。
嫌な予感がした。
「……何だよ」
「莉奈って誰?」
蓮の動きが止まった。
「……」
澪もじっとこちらを見ている。
「莉奈って誰?」
「何で二回聞くんだよ」
「私も聞きたいから」
「……何で知ってる」
「寝言」
千尋が答えた。
「名前呼んでたよ」
「……」
「何回か」
「……」
「女の人?」
「何でそうなる」
「莉奈って名前だから」
「男でもいるかもしれないだろ」
「いるの?」
「……知らん」
「じゃあ女の人じゃん」
「朝からうるさいな」
蓮は立ち上がった。
「ほら、朝飯にするぞ」
「誤魔化した」
澪が言った。
「誤魔化したね」
千尋も続く。
「誤魔化してない」
「知り合い?」
「……昔のな」
「どんな?」
「知り合い」
「それ答えになってないよ」
「知り合いは知り合いだ」
千尋がじっと蓮を見る。
「元カノ?」
「違う」
「即答」
「違うからな」
澪まで身を乗り出す。
「好きだった人?」
「何でそうなるんだよ」
「だって夢に出てきたんでしょ?」
「夢に出たら好きなのか?」
「違うの?」
「違う」
「じゃあどういう人?」
蓮は答えなかった。
答えられない。
大事な人だった。
その言葉なら。
前にも使った。
だが。
それだけで説明できる関係でもない。
「……昔の知り合いだ。それで終わり」
「怪しい」
千尋が言う。
「怪しいね」
澪も続く。
「お前ら、朝から仲良すぎるだろ」
「昨日から仲良しです」
「そうだよ」
「……飯いらないなら先行くぞ」
「食べる!」
「私も!」
二人が同時に答えた。
蓮は大きく息を吐く。
昨夜の静かな時間が嘘だったかのように。
山小屋の朝は、やたらと騒がしかった。
*
簡単な食事を終えたあと。
蓮はすぐに出発せず、山小屋をもう一度調べることにした。
昨夜は安全確認を優先したため、室内を細かく調べていない。
「三人で探すぞ」
「何を?」
澪が聞く。
「使えそうなもの全部」
「宝探しみたいだね」
「そんな楽しいもんじゃない」
「食料とかあるかも」
千尋が棚へ近づく。
「勝手に開けるなよ」
「今、三人で探すって言ったじゃん」
「怪しいものがあったら呼べって意味だ」
「注文多いなぁ」
「死にたくなかったら従え」
「はいはい、先生」
「先生じゃない」
それぞれが室内を調べ始める。
棚。
引き出し。
ベッドの下。
奥の小部屋。
古い収納箱。
目立ったものは、なかなか見つからなかった。
「何もないね」
澪が棚を閉じる。
「そんな都合よく――」
「あ」
「何だ」
「蓮」
澪が部屋の隅を指差した。
「これ、動く」
古い木箱だった。
蓮が近づく。
「下がってろ」
「また?」
「いいから」
木箱をずらす。
その後ろ。
壁際に、別の収納箱が隠されていた。
「……」
蓮はしゃがみ込む。
留め具を確認する。
慎重に蓋を開いた。
中を見て。
表情が変わる。
「……武器か」
千尋の声から、笑いが消えた。
拳銃。
ナイフ。
そして。
手榴弾。
無造作ではない。
収納材の中へ、それぞれが固定されている。
「こんなのまで……」
澪が顔を曇らせる。
蓮にとっては、初めて見る光景ではなかった。
前回も。
この島には武器が配置されていた。
拳銃。
刃物。
爆発物。
参加者同士を争わせるために。
「蓮」
今度は千尋だった。
「こっちにもある」
別の収納を開けている。
蓮が近づき、中を確認した。
数本の瓶。
液体。
口元には布が取り付けられている。
「……火炎瓶か」
「それも武器?」
澪が聞く。
「ああ」
「何でこんなものまで」
「使わせたいからだろ」
蓮は短く答えた。
拳銃。
ナイフ。
手榴弾。
火炎瓶。
昨夜。
三人はこの小屋で眠った。
湖畔の星を見たあと。
くだらない話をして。
千尋と夜中に話して。
ほんの少しだけ。
ここがゲームの島だということを忘れそうになった。
けれど。
床に並んだ武器を見れば。
嫌でも思い出す。
ここは。
そういう場所だ。
「……どうする?」
千尋が尋ねた。
「持っていく」
蓮は答えた。
「全部?」
「持てる範囲でな」
「使うの?」
澪が聞いた。
「使わずに済むなら、それが一番いい」
「じゃあ何で持つの?」
「ここに残したら、別のPLAYERが拾うかもしれない」
蓮は拳銃へ視線を落とした。
「それを俺たちに向けられるくらいなら、こっちで持ってた方がいい」
澪は少し考えたあと、頷いた。
千尋も反対しなかった。
蓮は武器を一つずつ確認しながら、持ち運べるようにまとめていく。
千尋から受け取った解除済みの首輪。
自分がすでに隠し持っている武器。
そして。
山小屋で新たに見つけたもの。
少しずつ。
荷物が重くなる。
蓮は最後に山小屋の中を見回した。
昨夜の寝床。
千尋が座っていた場所。
澪が眠っていた奥の部屋。
そして。
朝になって見つかった武器。
穏やかな時間と。
この島の現実。
その二つが、同じ小屋の中に残っていた。
「……行くぞ」
蓮が荷物を持ち上げた。
千尋も立ち上がる。
「次は澪の鍵だね」
「うん」
澪も自分の端末を確認した。
「場所は変わってない」
「なら向かう」
蓮が扉へ手をかける。
山小屋の外には、朝の森が広がっていた。
昨夜とは違う。
明るい。
静かだ。
それでも。
安全だとは思わない。
三人は武器を手に入れた。
そして次は。
九条澪のゲームクリアへ向けて――指定された鍵を取りに行く。




