第113話 首輪解除
木々の向こうに見えていた建物は、近づいてみると想像していたよりも小さかった。
古びた平屋建ての施設で、外壁はところどころ剥がれ、入口の上には錆びついた庇が残っている。何のために使われていた建物なのかは分からない。
蓮は千尋と澪を森の手前に残し、一人で建物へ近づいた。
夜になってからは、何をするにも昼間以上の慎重さが必要だった。
窓から中を確認する。
人影はない。
建物の周囲を一周し、地面にも目を向ける。新しい足跡や、つい最近誰かが草を踏み分けたような跡も見当たらなかった。
それでも、完全に安全だとは思わない。
この島でそんな場所はない。
蓮は入口の陰まで確認してから、ようやく二人へ合図した。
「来ていいぞ」
「はぁ……やっとだ」
千尋が白い医療物資の箱を抱え直しながら歩いてくる。
「重い?」
隣を歩く澪が尋ねた。
「重い」
「持とうか?」
「駄目。ここまで来たんだから、最後まで私が持つ」
「条件に自分一人で持てって書いてあるのか?」
蓮が聞く。
「書いてないけど」
「じゃあ澪に持ってもらっても――」
「嫌」
千尋が即答した。
「何でだよ」
「ここまで持ってきたのに、最後の最後で『本人が運んでないので失敗です』とか言われたら嫌でしょ」
「まあ……」
「このゲームならありそうじゃない?」
蓮は否定できなかった。
「だったら持っとけ」
「だからそうしてるの」
「蓮と千尋って、結構似てるよね」
澪がぽつりと言った。
二人が同時に澪を見る。
「どこが?」
「どこが?」
「ほら、そういうところ」
「意味分からん」
「私も」
そう言いながら、千尋は少し笑っていた。
三人で建物の入口まで移動する。
蓮が端末を開き、地図を確認した。
千尋も自分の端末を取り出す。
表示されている指定地点と現在地は、ほぼ完全に重なっている。
「ここで間違いない」
「じゃあ置くよ?」
「ああ」
「本当に?」
「何で俺に聞く」
「蓮、すぐ止めるから」
「確認する前に動こうとするからだろ」
「今は確認した」
「だったら置け」
「はいはい」
千尋がゆっくりと腰を落とした。
建物の入口脇には、荷物を置くためなのか、低い台が設置されている。
その上へ白い箱を載せた。
手を離す。
何も起こらない。
「……」
千尋が端末を見る。
「……何も鳴らないけど」
「待て」
「置く場所違った?」
「だから待てって」
数秒。
ほんのわずかな時間のはずなのに、妙に長く感じた。
澪まで息を止めるように、千尋の端末を見ている。
やがて。
ピッ。
小さな電子音が鳴った。
「あっ」
画面が切り替わる。
『指定物資の納品を確認しました』
続いて。
『ゲームクリア』
三人とも黙ってその文字を見た。
さらに、その下へ新しい文章が表示される。
『認証後、首輪を解除できます』
「……ゲームクリア」
千尋が小さく読み上げた。
それから、もう一度。
「ゲームクリア……!」
今度は声が弾んだ。
「やったじゃん!」
澪が先に喜んだ。
「うん!」
千尋も笑う。
しかし、その笑顔はすぐに少しだけ硬くなった。
自分の首へ手を伸ばす。
そこにはまだ、黒い首輪が巻かれている。
「……あとは認証か」
「ああ」
蓮が答えた。
「どうやるの?」
「端末を首輪の認証部に当てる」
「それだけ?」
「それだけだ」
「本当に?」
「ゲームクリアって出てるだろ」
「そうだけど……」
千尋は端末を見る。
首輪を見る。
もう一度端末へ目を落とす。
「怖い?」
澪が静かに尋ねた。
「……ちょっとね」
千尋は苦笑した。
「さっき聞いちゃったから」
条件を満たしていない状態で認証すれば、首輪が爆発する。
その事実を知ったばかりだ。
画面には確かに『ゲームクリア』と表示されている。
それでも、爆弾が巻かれた自分の首へ端末を押し当てるという行為に、恐怖を感じないはずがない。
「もう一回確認するか?」
蓮が聞いた。
「……する」
「じゃあ見ろ」
三人でもう一度画面を確認した。
『ゲームクリア』
『認証後、首輪を解除できます』
間違いない。
「大丈夫」
澪が言った。
「ちゃんとクリアって書いてあるよ」
「……うん」
千尋が息を吸う。
ゆっくりと吐いた。
「よし」
端末を持ち上げる。
首輪へ近づける。
途中で一度、手が止まった。
「千尋」
「何?」
「怖いなら急がなくていい」
蓮が言った。
「……そういうこと言われると余計怖くなるんだけど」
「じゃあ今のなし」
「遅いよ」
千尋が小さく笑った。
その笑いで少し緊張が解けたのか、再び端末を動かす。
認証部へ触れた。
ピッ。
電子音が鳴る。
蓮の視線が首輪へ集中した。
一秒。
二秒。
首輪に付いた小さなランプが点滅する。
赤。
そして――緑。
カチッ。
乾いた音がした。
「……」
千尋は動かなかった。
「千尋」
澪が目を見開く。
「外れてる」
「……え?」
「ロック。外れてるよ」
蓮が近づき、首輪を確認する。
接合部に隙間ができていた。
「大丈夫だ」
「本当?」
「ああ。外せる」
千尋は恐る恐る両手を首元へ伸ばした。
黒い首輪を掴む。
ゆっくりと持ち上げていく。
そして――。
首から離れた。
「……取れた」
千尋は両手に収まった首輪を呆然と見つめた。
空いた片手で、自分の首へ触れる。
何もない。
もう、そこには何も巻かれていない。
「取れた……!」
「やった!」
澪が笑う。
「千尋、やったね!」
「うん……!」
千尋の顔にも、ようやく本当の笑顔が浮かんだ。
「やったぁ……!」
その場で飛び跳ねそうな勢いの千尋とは対照的に、蓮は静かに息を吐いた。
成功した。
小宮千尋。
ゲームクリア。
首輪解除。
これで千尋は、少なくとも今の条件から解放された。
けれど蓮は知っている。
首輪が外れたからといって、ゲームそのものから解放されたわけではない。
前回は、最初の死者が出た瞬間に全てが変わった。
今回も同じなら。
このあと何が起こるかは分からない。
「蓮?」
千尋の声で思考が途切れた。
「何だ」
「ありがとう」
「……何が」
「ここまで一緒に来てくれたこと」
「俺もこっちに用があっただけだ」
「またそういう言い方する」
「本当だろ」
「はいはい」
千尋は呆れたように笑う。
その手には、外れた黒い首輪がぶら下がっていた。
「これ、どうしよう」
千尋が首輪を持ち上げる。
「捨てていいのかな」
「いや」
蓮はすぐに答えた。
そして千尋へ手を伸ばす。
「俺にくれ」
「……これを?」
「ああ」
千尋は不思議そうに首輪を見る。
「何に使うの?」
「分からない」
「分からないのに欲しいの?」
「使うかもしれない」
「何に?」
「それも分からん」
「何それ」
千尋が笑った。
けれど蓮は笑わなかった。
前回の経験がある。
今は意味のないものでも、次にゲームがどう変化するか分からない。
PLAYERの首輪。
解除された首輪。
運営が参加者一人一人へ取り付けた機器。
捨てる理由はない。
持っておけるものなら、持っておいた方がいい。
「……まあ、蓮がそう言うなら」
千尋は首輪を差し出した。
蓮が受け取る。
手の中に、ずしりとした重みが残った。
前回。
嫌というほど見たものだ。
人の命を縛り。
条件を押しつけ。
失敗すれば、その命ごと奪う。
今、その一つが機能を失い、蓮の手の中にある。
「本当に持ってくの?」
澪が尋ねた。
「ああ」
「荷物になるよ?」
「これくらいなら平気だ」
「蓮って、使えそうなもの何でも持って帰りそう」
「使えるかもしれないものを捨てる方がおかしいだろ」
「そうかな」
「そうだ」
蓮は首輪を荷物へ収めた。
千尋はその様子を見ながら、自分の首を何度も触っている。
「変な感じ」
「何が?」
澪が聞く。
「ずっとあったものが急になくなったから」
「私も早く外したいな」
澪が自分の首輪へ触れた。
「次はお前の鍵だ」
蓮が言う。
「うん」
「場所は覚えてるな?」
「端末にも出てるよ」
「ならいい」
「蓮の条件は?」
「俺のも忘れてない」
「ちゃんとやらないと駄目だよ」
「分かってる」
「自分だけ後回しにしてるじゃん」
「俺のは物資をもう回収してる。急ぐ必要はない」
澪は少し不満そうだった。
「私のより先でもいいのに」
「三人で動くんだろ」
「……うん」
「だったら行けるところから行く。それだけだ」
澪は蓮を見ていたが、やがて小さく笑った。
「分かった」
千尋が両腕を上へ伸ばそうとして――途中でやめる。
「何してる?」
蓮が聞く。
「いや、首輪外れたから思いっきり伸びようかなって」
「ここで?」
「何か駄目?」
「出発するぞ」
「えー」
「伸びるくらい歩きながらできるだろ」
「できないよ」
「できる」
「できないって」
澪がくすくす笑う。
「じゃあ、いい場所見つけたらやろうよ」
「いい場所?」
「景色がいいところとか」
「それいいね」
千尋がすぐに乗った。
「何の相談してるんだ、お前ら」
「首輪解除記念」
「そんな記念いらねえだろ」
「いるよ」
「いる」
二人から同時に言われ、蓮は呆れて息を吐いた。
「……好きにしろ」
千尋が笑う。
「じゃ、決まり」
「何が決まったんだよ」
返事はなかった。
千尋と澪はすでに歩き始めている。
蓮は一度だけ振り返った。
白い医療物資の箱が、指定された場所に残されている。
千尋の条件は終わった。
首輪も外れた。
そして、その外れた首輪は今、蓮が持っている。
ここからは。
次の条件へ進む。
「蓮ー!」
少し先から千尋の声が飛んできた。
「置いてくよー!」
「お前らが勝手に先行ったんだろ!」
蓮は二人を追った。
三人の姿が、再び夜の森へ入っていく。
次に目指すのは。
九条澪の――鍵だった。




