第9話 隠しているもの
「水野葵」
名前を告げても、女は警戒を解かなかった。蓮たちが順に名乗る間も、視線を動かして顔を確かめるだけだった。右手は身体の脇で固く握られ、その中にあるものを隠していた。
「これでいい?」
「何が?」
「名前。教えたでしょ。だったら、もう行って」
葵は一歩下がった。蓮は足を動かさずに尋ねた。
「一人で行動するつもりか?」
「あなたには関係ない」
「それはそうだけどな」
視線が、握られた右手へ向いた。
「さっきから隠してるものは何だ?」
「何でもない」
「だったら見せられるだろ」
「嫌」
返事には、取りつく余地がなかった。
「ちょっと」
佳子が蓮を見た。
「無理に聞き出すつもり?」
「そんなこと言ってない」
「そういう顔してる」
「どんな顔だよ」
「怖い顔」
口調は軽かったが、佳子も葵の手元を気にしていた。こちらをなだめながら、何か話す気にならないかと反応をうかがっているようにも見えた。
黒田が口を開いた。
「広場に落ちていた端末は、お前のじゃないんだな?」
「……違う」
「なら、自分の端末は持ってるのか」
葵の目が険しくなった。
「見せろってこと?」
「持っているなら、少なくとも説明にはなる」
「見せる必要ないでしょ」
「そうだな」
黒田はあっさりと認めた。
「見せる義務はない。ただ、こっちもお前の話を確かめられない」
葵は黒田を睨んだが、彼は表情を変えなかった。
蓮は息を吐いた。このまま三人で問いかけても、葵の警戒を強めるだけだった。
「もういい。話したくないなら、それでいい」
葵がわずかに眉を動かした。蓮はその手から目を離し、顔を見た。
「ただ、一つ教えてくれ。中央広場にはいたのか?」
返事はなかった。
「広場から森へ続く足跡を追ってきた。その先に、お前がいた」
「……知らない」
「死体は見たか?」
葵の顔が強張った。
蓮は続きを急がずに待った。葵は視線を逸らし、しばらく黙っていたが、やがて小さく答えた。
「……見た」
「それで広場を離れた?」
間を置いて、葵は頷いた。
「気持ち悪かったから」
声には嫌悪が滲んでいた。蓮にも覚えのある感情だった。あの光景から一刻も早く離れたいと思っても、不思議ではなかった。
「じゃあ、落ちていた端末は?」
佳子が尋ねると、葵は再び顔を上げた。
「知らない」
「本当に?」
「知らないって言ってるでしょ」
語気が強くなった。佳子は葵を見つめたが、それ以上は聞かなかった。
*
「戻るぞ」
黒田が言った。
「いいのか?」
蓮が尋ねると、黒田は葵を一瞥した。
「話す気がない相手に、聞き続けても仕方ない」
「……感じ悪いね」
「よく言われる」
黒田は気にした様子もなく、来た方角へ顔を向けた。
佳子が蓮の隣へ寄り、声を落とした。
「どうする?」
「戻ろう」
「葵は?」
蓮は本人へ目を向けた。
「中央広場には、ほかにも参加者がいる」
葵の視線が戻ってきた。
「何人?」
「俺たちを入れて六人。お前が来れば七人だ」
葵は黙り、何かを考えるように目を伏せた。
「来るかどうかは任せる」
蓮は返事を待たずに歩き出した。佳子が続き、黒田も後ろからついてきた。
十歩ほど進んだところで、背後から声がした。
「待って」
三人が振り返ると、葵は先ほどと同じ場所に立っていた。こちらと森の奥を見比べてから、ゆっくりと近づいてきた。
「……行く」
「分かった」
蓮は頷いた。なぜ気が変わったのかは聞かなかった。
*
中央広場へ戻ると、白石がこちらに気づいて手を上げた。
「おっ、帰ってきた!」
詩織も立ち上がった。
「遅い!」
「三十分は超えてないだろ」
「そういう問題じゃ――」
言いかけた詩織の視線が、蓮の後ろで止まった。
「……誰?」
「水野葵」
葵が短く答えた。
「あ、俺は白石――」
近づきかけた白石を、葵が鋭い目で見た。
「近づかないで」
「……はい」
白石が素直に足を引いた。その様子に、佳子が小さく吹き出した。
「ずいぶん素直ね」
「初対面だから気を遣っただけ!」
高橋は笑わず、葵を観察していた。蓮が森で出会ったことを伝えると、短く名乗った。詩織も続いたが、葵の注意はすぐに彼女の手元へ向かった。
「それ……端末?」
「うん」
詩織は、亀裂の入った画面を少し持ち上げた。
「どうしたの?」
「踏んじゃって……起きた直後に。何なのか知らなくて」
葵が目を見開いた。
「踏んだ?」
詩織が頷くと、葵は壊れた端末を見つめたまま黙った。その反応が長く続いたため、蓮も彼女へ目を向けた。
「……まずい」
小さな声だった。詩織の顔が曇った。
「やっぱり?」
葵は一瞬口を閉じ、それから視線を外した。
「クリア条件とか、確認できないんでしょ。だから」
「……うん」
詩織は首輪へ触れた。
葵はそれ以上言わなかった。ただ、身体の脇に下ろした右手を、先ほどより強く握り込んでいた。
「葵。何か知ってるのか?」
蓮が尋ねると、彼女は顔を上げた。
「知らない」
「ずいぶん驚いてたけど」
「端末が壊れてるからでしょ」
葵が睨んだ。蓮が次の言葉を探していると、白石が声を上げた。
「あ、そうだ。落ちてた方の端末、まだあそこにあるぞ」
全員の視線が草むらへ向いた。端末は動かされておらず、草を退けた場所に残っていた。
「何それ?」
葵が尋ねた。
「さっき見つけたの。画面に変な文章が出てる」
詩織の説明を聞き、葵は慎重に近づいた。しゃがんで画面を覗き込み、唇をわずかに動かした。
《アップグレードデータを検出できません》
「……アップグレード?」
蓮はその横顔を見ていた。表示を初めて読んだようには見えたが、何を知っているのかまでは分からなかった。佳子も黙って葵の反応を見守っていた。
「右手に持ってるものは、それと関係ないんだな?」
蓮の問いに、葵は答えなかった。
「情報を全部話せとは言わない。俺だって、話してないことはある」
佳子がこちらを見た。蓮は気づいたが、視線を動かさなかった。
「でも、それが何かの手掛かりになるなら、一緒に確かめることはできるだろ」
葵は握った右手へ目を落とした。
誰も口を挟まなかった。白石も、葵の手元を気にしながら待っていた。
しばらくして、葵が息を吐いた。
「……分かった」
指がゆっくりと開いた。掌には、小さな黒い部品が載っていた。片側に金属製の端子があり、反対側には細かな文字らしいものが見えた。
「何これ?」
白石が覗き込んだ。今度は近づきすぎないよう、少し離れたところで止まった。
「私も知らない」
「どこで見つけた?」
黒田が尋ねた。
「森。目が覚めた場所の近く」
「最初からあったのか?」
「起きたときには。自分の端末のそばに落ちてた」
蓮は葵の掌と、草むらの端末を見比べた。
彼女が何のために隠していたのかは、まだ分からなかった。大事なものだと思って確保していただけなのか、それとも、説明していないことがあるのか。今は見せたことまで疑っても仕方がなかった。
佳子が草むらのそばへしゃがみ込んだ。落ちている端末を横から確かめ、葵の手元へ目を戻した。
「ねえ、ここ」
蓮も隣にしゃがんだ。
佳子が指した側面には、小さな差し込み口があった。画面ばかり気にしていて、そこまで詳しく見ていなかった。
「それ、入りそうじゃない?」
葵も身をかがめた。
掌の部品には細い金属端子があり、端末の側面には、それを受け入れそうな口が開いている。大きさも形も近く見えたが、本当に合うかどうかは、まだ分からなかった。
詩織も横から覗き込んだ。誰も手を出さないまま、画面の文章を読み直していた。
「……挿してみる?」
白石が呟いた。
蓮は端末から葵へ視線を移した。葵も迷っているらしく、掌の部品をつまみかけては、指を止めていた。
試せば、表示の意味が分かるかもしれない。だが、それが自分たちの求める結果になるとは限らなかった。端末を首輪へ読み込ませるだけで爆発するという説明を、蓮は忘れていなかった。
何もせずに眺めているだけでは進まない。それでも、正体の分からないものを差し込んでいいと、簡単に頷くことはできなかった。
短い電子音が鳴った。
葵の指が止まり、七人の視線が画面へ戻った。そこには変わらず、アップグレードデータを求める文章が表示されていた。




