第26話「笑われて、こらえて」
かぷ、くぷ、こぷぷ。
墨を垂らしたような海の中、にじむ月明かりを眺めながら夢を見た。
それは前世で山に置き去りにされた、三年後の記憶。
警察は僕を保護なんてしてくれず、親の言い分を鵜呑みにした。そこから、本格的な地獄が始まった。
「てめぇが、盗んだんだろーがっ」
三日前の湯が張った風呂。その中に顔を沈められ、こぽこぽ鼻から気泡を出す。
僕の頭と同じぐらい大きな手が、後頭部を力強く押し付ける。
たまに力を弱めたと思えば、ふた呼吸だけさせてまた沈める。
僕の方は、慣れたものであった。水中でゆっくりと息を吐き、外に出れたら一気に吸い込む。さながら水泳教室である。
必死に藻搔かないと手を弱めないんで、苦しんでいるふりをする。
泣きわめかないと終わらないんで、必死に泣いたふりをする。そうして生きた。
「おいこら、泣きてぇのはこっちの方だ泥棒!」
父の怒りの原因は、財布を無くしたことであった。小一時間さがしても見つからないので、僕を泥棒呼ばわりして発散している。
しばらくすると彼は満足したのか、手を離し足をビタビタ鳴らして風呂場を出た。
僕は口に残った垢や抜け毛をシャワーで洗い出し、風邪を引かないよう濡れた服を洗濯機に入れ、パンイチで脱衣所を出た。
家は決して綺麗とは言えず、廊下には汁の残ったカップ麺とか、飲みかけのペットボトルなんかが散らかっていた。
足の踏み場を探しながら、リビングの扉を目指す。すりガラスに、赤緑青の光が交互に点滅している。僕はこの光が好きだった。
扉を開けると八畳一間、「カルテットクイズ」のタイトルコールがテレビで流れる。毎週水曜のクイズ番組を、父は欠かさず見ていた。
四人一組の三チームが、合計得点を競うクイズ番組。
優勝チームには賞金百万円。そんなことを打ち出していたが、賞金なんて無いのは子供ながらに理解していた。
「いいよな芸能人はさあ、こんなことで百万も貰えてさあ」
ソファーの上で父がそう呟いたので、「そうだね」と答えた。
肯定的な返事をしないと物を投げられる──そんな歪な方程式に当てはめ答えているだけだが、父は満足そうに笑った。
僕は足元のランドセルから、計算ドリルと裸の鉛筆を取り出す。
そして、部屋の隅に行って座り込み、膝の上にそれを乗せて勉強を始めた。
父はいつも家に居るんで、僕が勉強に集中できるのはこの時間だけだった。それ以外は僕に当たるか、パチンコに連れて行かれるか、である。
たしかあの時、テレビも数学の問題を出していた。
正解した人から抜けていき、その答えの数字が得点になるクイズである。
前半はインテリと呼ばれる芸能人が、難しい問題を答えていく。
それを父は、「俺も分かった」とか「俺の方が早かった」とか言うので、その度に褒めないといけなかった。
そして、後半になると人数は減っていき、お馬鹿タレントが目立ち始める。
彼らは簡単な問題に対して、トンチンカンな回答を繰り返す。それを父は馬鹿にして笑うだけ。
おかげ様で返事をせずに済むし、誤答するほど勉強は捗った。
『問題! 50×5は?』
『25!』
『なんで減るんだよ!』
『ゼロ付け忘れてるやん!』
それを見た父は「馬鹿すぎ」と言ってヒィヒィ笑うが、僕は賢いと感じていた。
彼の回答を見れば、答えが何かは理解していたはずだ。
しかし、芸能界で生き残るために模索した結果が、ゼロの付け忘れ。回答ボタンを押すまでに、それを考えているのだ。
その賢さに感心していると、CMが始まった。
軽快な曲の中、車が高速を滑走している映像。昨日のとは別バージョンだった。
「おい、ビール」
父は影一つ揺らさず言う。冷蔵庫からビールを持って来い、という意味である。
鉛筆をしおり代わりに挟んで、計算ドリルを閉じる。
そして、ソファーに座る父の背後を通り、キッチン横の冷蔵庫を開けた。
僕はひどく落ち込み、ため息をついた。
「ここにあるじゃん……」
キンキンに冷えたビールと、パキパキに冷えた革財布を取り出す。
長い間ここに居たのか、中の硬貨はひんやりとしていた。さしずめ、父が酔っぱらって入れたのだろう。
振り返ると、テレビはまだCMを流していた。売れっ子の女優さんがジュースを飲む映像、父は食い入るように見ていた。
邪魔したら怒られると思いつつ、ビールが温くなると怒る。
それより、あれだけ探していた財布を見つけたのだ。僕は褒められると思って、財布を前に突き出して言った。
「父ちゃん、これ見つけた」
「あぁ? おま……やっぱりお前が盗んだのか!?」
あらぬ疑い。途端たち上がり、父の左腕が振り上げられる。僕は咄嗟に首を引っ込め、防御姿勢を取る。
そして、何を思ったのか──口が勝手に動いていた。
「も、問題! この財布はどこにあったでしょうか?」
さながらクイズ番組の司会者。つたない発声だが、一瞬だけその場を支配した。
父は左腕を上げたまま、不機嫌そうに質問を返す。
「はぁ? お前が盗んだんだろ、ランドセルとか、そういうのだろ」
頭がクイズモードだったのか、真面目に答えようとしている。ふだん恐ろしい父が、少しだけかわいく思えた。
しかし、僕が不正解だと首を振ると、また不機嫌になって怒声をあげる。
「うるせぇ、どこでもいいんだよそんなの!」
殴られる──そう思ったらまた、司会者の真似事をしていた。
「ヒント! 触ってみてください!」
財布を盾にするように、頭上に持ち上げる。その振り上げられた手は止まり、そのまま財布に手が伸びた。
そのひんやりした革、氷のように冷たくなった硬貨を触って、父は呟いた。
「これ……まさか、冷蔵庫?」
「せ、正解!」
その言葉に、父はブッと吹き出した。
財布をパタパタと叩いて笑う中、僕は機嫌を取るための追い込みをかける。
「おめでとうございます、商品のビールです!」
父はけらけらと笑ってビールを分捕り、二人掛けのソファーに寝転んだ。
まず、疑ったことを謝ってよ。そう思ったけれど、もう言う気にもなれなかった。
CMは明け、番組内の司会が進行を進める中、笑い涙を流す父がぼそりと呟く。
「はーあ。お前、この司会者より面白いわ。司会者になったら?」
そんな軽口に「そうだね」と笑って、隅っこに座り込んで勉強を再開した。
黒い箱の中に見えるお馬鹿タレントは、愚者の真似事をしておどけている。まるで、さっきの僕のようだ。
彼らも生きるため、必死に道化師を演じなければならない。
『問題! 口から息を吹き込んで、肺に酸素を送る応急手当は?』
答えは人工呼吸なのに、心臓マッサージだとか心肺停止だとか言っている。それを父は笑っている。
申し訳ないけど、僕だけは笑えなかった。
また一人、女性タレントがボタンを押す。
どう答えるのかと期待していたら、妙なことを言い出した。
『ザーフ!』
……ザーフ?
それはこの異世界での風魔法のことで──
「ごふっ。んがっふ」
悪夢が霞み、歪んで消えてゆく。
そうだった──これは現実であり、夢でもあった。
消してしまいたいほど苦しい夢であるが、忘れるべきではない現実。
現実と夢の境の中、僕はまた思い直した。
この異世界で必ず、テレビを作り上げるんだと──
「「「フィルム!」」」
三つ編みの顎髭、黒髪と赤メッシュ、長い耳の三人がこちらを覗いている。
僕はまだ、ここで生きています。
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