第25話「船上のフェリークラーケン」
耳にこびりついた蝋を取ると、現実が聞こえてきた。
軋んで揺れる船体、テレビ塔のように伸びる触手。船員達はその触手に船が巻かれないよう、ありとあらゆる呪文を唱える。
「イゾム・ブレイフ!」
「ゲーヒューズ・タルコス!」
氷や炎がクラーケンの触手めがけ飛んでゆくが、紙吹雪や銀テープを払うがごとく弾かれる。まるで手ごたえを感じない。
呆気に取られていると、強めの口調で船長が言った。
「ボウズ、何してる! お前もやるんだっ」
そう言われはっと気づく、僕はこんな時にまでカメラを構えていた。撮っている場合ではない、そのまま加勢した。
「イゾム・ブレイフ!」
ツマミをひねって出力最大、野球ボール程度の火球が飛び出る。
そんな程度の魔法ではどうにもならず、触手が一振りするだけで打ち消された。
やはり、僕や船員の魔法では根本的に威力が足りない。シェノンは〈ザーフ〉を纏わせ身を守るばかりだし、バルクスに至っては弓を穿つが当たっていない。
アイリンならば──
「ばあばー。もうこれ以上、斧は食べられないよー」
……どんな幻覚を見ているんだ。
守ってあげるなんて言っていたが、この体たらくである。僕らのせいだけど。
アイリンのうわごとに気を取られていると、触手が帆柱のてっぺんを目指し蜷局を巻きはじめた。
船員たちは慌てふためき、湾曲した剣「カトラス」で次々と切り込む。それは意外にも効果があって、根本に小さな切れ込みが入った。
「ここだっ!」
その誰かの号令に群がる様にして、その切れ込みを広げるように斬撃を重ねる。その触手の先はびくびくと跳ね、ゆっくりと力なく下ってゆく。
もう少しかと思われたとき、ひときわ大きな影が船上を覆った。
立ち上った波濤から、輝く赤い目がじっと覗いている。それは冷徹に僕らを見下ろし、叩き斬られる自身の腕を見つめていた。
覆われた海水がぼたぼたと流れ落ちると、藻がへばり付いた頭部が見える。三角錐のような頭部は、岩場のようにゴツゴツとしていた。
そして顔の下には、円形に張り巡らされた牙。それが船の側面に齧り付いた。
「こいつ、食べる気だぞっ」
そう言った船員を、僕は見下ろしていた。
触手が、僕の身体を持ち上げたのだ。
「うわっ、うわわわわ」
触手を切断したことで、怒らせてしまった。
手足を動かし足掻くものの、ずるずるとした吸盤と、食い込んだ触手が離さない。むしろ逃すまいと締め付けが強くなる。
帆柱の見張り台ほどまで浮いた。僕を助けようと炎魔法やら風魔法やらを飛ばすが、やはり跳ね飛ばされる。というか、僕に当たりそうで怖い。
しかし、何もないよりはマシで、触手の締まりがゆるみ始めた。
今だ、抜け出さないと。
僕は腕を突っぱねて、触手に隙間を作る。そのまま腕を曲げ、そのまま──
「っよし、抜けた!」
そう言った僕の右手には、カメラが掲げられていた。
ふう、危ない。あのまま締めあげられていたら、この魔導カメラが壊れてしまうところだった。
そう一安心していた僕に、船長が怒号を飛ばす。
「馬鹿かおめぇ! そのまま抜けだしゃ良かっただろうが!」
──なるほど、ね。
そう納得したころには遅く、僕の身体はまた、濡れ雑巾みたく扱われ始める。ギチギチと音を鳴らしているうちに、どうにかしなければ。
自由となった右手で触手を叩くが、ぺちぺち音を鳴らすだけ。手ごたえがない。
当てにならないが、仕方がない。僕は押し付けられている肺を思いきり膨らませ、バルクスへ叫んだ。
「バルクス、矢を撃ってくれ!」
僕らは既に、「つうと言えばかあ」であった。
バルクスは戸惑いながら弓を穿つ、彼のコントロールでは当たるわけもない。
だが、当たらないのなら、当たりに行けばよいのだ。
顔面パイに当たりに行くように、熱々のおでん鍋に顔を近づけるように。
僕は手をなるたけ伸ばし、彼が放つ矢を目で追った。一つは上空へ、一つは足元へ、その度に角度の指示を出す。
そして、四発目に放った弓矢──僕の指先をかすめ、勢いを落とし落下。くるくると回る矢を、必死に目で追った。
バルクスの腕前、触手の締め付け具合から、これが最後だろう。
肩が外れそうなほど手を伸ばし──
「やった、掴んだ!」
そのまま矢じりを触手に向け、思いっきり突き刺した。ソーセージをぷつっと刺すような感覚だった。
痛みの反射か、触手の先がぷるっと震えほどかれてゆく。圧迫されていた血液が一気に流れだし、じわっと温かさを感じた。
下では船員が水魔法の塊を浮かせ、受け止める準備をしてくれている。
よかった、助かった。
そう思うには早かった。
足から落下し、もうすぐだった水の球。それが僕一つ分のところで、くっと動きが止まる。万歳をするような形で、何かが腕に絡まってゆく。
矢が刺さったままの触手──刺さりが浅かった。
途端、逆バンジーの如く宙まで引き上げられる。腕を動かそうにも両腕はびたりと付き、僕の筋力では隙間さえ作れない。
少し動けばぬるぬると降りていけるが、その下は海。この場からクラーケンを追い出さない限り、海の中に入れば捕食は必至である。
触手の中で吸盤をつかみ、懸垂のようにして体を持ち上げる。
けれど、僕の身体は中肉中背なわけで、ただ疲労感だけが襲った。
どうすれば──そう考えても、僕にはカメラとテレビしかない。それ以外に何も持ちえない、いわば雑魚である。
頭の中で走馬灯が流れた。
ピーカントの顔、クイッシュの汚れた看板、船長の尻尾。
なんで直近の景色ばかりなんだ。
今も出てくる記憶は、巨大な渦と世界樹だけで──
「あ」
こんなときに、ふざけたシナリオを思いつく。
チャンスは一回限りであるし、成功率も極端に低く、なによりも資源の無駄だった。
しかし、他に方法が思いつかない。僕はすがるような気持ちで叫んだ。
「バルクス! リュック、三枚目の羊皮紙! それを矢に刺して撃て!」
断片的な指示。バルクスは訳も分からず、リュックへと駆ける。早くして、腕がぬるぬるとして落ちそうだ。
下を見れば、赤い目がこちらを覗いている。こんな化け物の上目遣いが最期なんて嫌だ。
そう思っていると、バルクスが羊皮紙を振ってアピール。こちらからはよく見えないが、合っていると思おう。
僕は頷いて、刺せと叫んだ。撃てと叫んだ。
バルクスは言われるがまま、羊皮紙に矢じりを刺し込んだ。
「い、いくよお!」
別に当たらなくていい、掴めなくていい。
ただ、僕の〈テ・レヴィジョン〉が届く範囲まで飛んで来れば良い。
ただでさえ弓の扱いが下手なバルクス、揺れる船の上で顔を歪ませ引き絞る。
撃てと叫びそうになった時、その弦が揺れた。
矢は予想通り、明後日の方向。
けれど、このまま行けば範囲内──が、僕をつかむ触手がうねる。離れていく。
まさか、バレたのか? 世界樹の森で会ったドラゴンがよぎる。
魔物のクセに頭の切れる奴、こいつもそういうタイプか。
そう血の気が引く思いをしていたら、ブランコみたく揺られて急接近。
勢いそのまま、矢の飛ぶ先で僕は宙吊りになった。
良かった、これで射程内。
いや、待て。このままでは僕の脇腹に──
「うああぁあつっ」
こいつ、やりやがった……やはり、頭の切れる奴だった。
僕の右脇腹、服の上に赤い染みがじわりと浮かぶ。
盾にするならいざ知らず、わざわざ外れた矢に僕を差し向けた。
下を見遣れば、こちらを見る赤い目。それが三日月のように曲がって見えた。
お前、笑っていられるのも今のうちだぞ。
「テ・レヴィジョン!」
まずは放映魔法。矢に刺さった羊皮紙の映像が、海の上にぼんやりと映像が映る。夜なので見辛いが問題なし。
「ラバイト! ラバイト! ラバイト! ラバイト!」
続けて唱えたのは光魔法、それをこれでもかと連打。
まばゆい光が空で炸裂、海と船上を何度も照らし出す。
二、三度か唱えたところで、これはたまらんとクラーケンが目を逸らした。
だが、その逸らした視線の先。海の上、そこには僕の映像がある。
世界樹に向かう途中で撮影した、大きな渦潮の映像。
ほんのついでだった映像が、僕を救う事になる。
「ゥアァウアオオ?!」
その鳴き声は、恐怖と焦りを滲ませていた。
大渦に飲み込まれるという感覚が、彼の本能へ訴えかけているのだ。
船に絡んでいた触手はするりと抜け出し、遠ざかろうと白波を立てる。その最中、僕の腕を掴んでいた触手もするりと抜け、宙に放り投げられた。
高さは見張り台を超え、海に映った大渦の中心へ落ちてゆく。
僕はカメラを抱きしめて、その黒い鏡に沈んでいった。
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