第90話 アルトの迷い
中央コアの深部は、静寂そのものだった。
薄暗い通路を進むたびに、アルトの足音は遠く響き渡る。セリアはもう意識があるのかないのか、アルトの肩に預けた体重だけが現実だった。彼女の息遣いは浅く、時折止まるのではないかという恐怖がアルトの胸を締めつける。
「もう少しだ。セリア」
アルトは呼びかける。相手の反応を求めるように。だが戻ってくるのは沈黙だけ。
約束の鎖を通じて、遠く離れた四人の状況が感じられる。
ニナは北大陸の戦線で帝国軍と激突している。その衝撃が約束の鎖を震わせる。血の臭い。焼け焦げた土地。叫び声――いや、そこまで感じるわけではない。だが、ニナが戦っていることだけは確かに感じられた。
リリアは東大陸で商人ギルドの軍団を統率している。物資流通の遮断作戦は進行中だが、帝国軍による報復爆撃が始まったらしい。商人ギルド本部周辺の火の手が激増している。
イザベラは西大陸で難民の避難を指揮している。孤児院ネットワークが一時避難所に変わっていた。大陸全体が戦場になりつつある。
シャーロットは帝国城内で改革派を率いている。皇帝の最終兵器起動に対抗しようと、評議会の議論が白熱しているのが感じられた。
四人全員が、アルトのために戦っている。
システム改革という大義名分の下で。
アルトは足を止めた。
セリアをより深く抱きしめて、通路の壁に背を預ける。呼吸を整えようとするが、心臓の鼓動が速い。胸が痛い。これは疲労ではなく、別の感覚だった。
「おかしい」
アルトは呟いた。
自分がしていることは、本当に正しいのか。
複数勢力の衝突で、今この瞬間も多くの兵士が死んでいる。帝国軍の兵士も、アルトたちに対抗する側の兵士も、分け隔てなく。彼らは何の罪があって死ぬのか。システムを改革するためというアルトの理想のために。
「馬鹿なことを言うな」
アルトは自分を叱るつもりで言った。だが、その声は震えていた。
奴隷解放のためなら、幾つかの犠牲は致し方ないと思っていた。リリアやニナを救うためなら、奴隷商人の組織を破壊することは正義だと確信していた。
しかし今は違う。
戦場には奴隷商人など多くはいない。いるのは、帝国に忠誠を誓った兵士たちだ。彼らの多くは、奴隷制度の廃止など念頭にない。ただ皇帝に命じられたから戦っているだけ。その兵士たちが、アルトの目標のために死んでいく。
約束の鎖の先で、ニナが敵兵を剣で斬った。
その兵士の名前も知らない。家族がいるかも知らない。だがアルトは、その兵士の死を感じた。不明瞭だが、確実に感じた。
「こんなはずじゃ……」
アルトは呟いた。自分がしたかったことは、これではない。契約という力を使って、困窮する者たちを救う。奴隷として扱われる少女たちに自由を与える。それは素晴らしいことだと信じていた。
だが、その過程で多くの無関係な者たちが巻き込まれ、死んでいく。
「アルト」
セリアが動いた。瞼が薄く開き、アルトの顔をぼんやりと見つめる。
「セリア、話すな。傷が悪化する」
「いや。聞いて」
セリアは無視して、弱々しく言葉を紡ぐ。
「私は知ってた。この改革には代償があることを。何十万人もの……死が必要だと。ノートに書いた計算式に、その数字が含まれていた」
「言うな」
「アルト。あなたが迷うことは……ダメだ。迷ったら、私たちはもう進めない」
セリアの目には涙が滲んでいた。銃撃傷で痛むはずなのに、彼女は無理をして声を続ける。
「私は決めた。この改革で死ぬ者たちのことを考えた。その上で、これが必要だと判断した。リリアも、ニナも、イザベラも。みんな同じ」
「でも」
「迷いを感じることは、悪いことじゃない。むしろ、あなたが人間らしい証だ。でも、今は迷ってる余裕がない。このまま進むしかない。もう止まれない」
セリアはアルトの頬に手を当てた。冷たい。失血で体温が低下している。
「あなたが止まれば、帝国は我々を全て潰す。何十万人かもっと多くが死ぬ。その覚悟で、私たちは戦ってる」
アルトは目を閉じた。
セリアの言葉は、論理的で正確だった。そして同時に、最も辛い現実を直視させるものだった。
止まることは敗北を意味する。敗北は四人のヒロイン、そして彼女たちが救った奴隷たちの死を意味する。だが進むことも、無関係な兵士たちの死を意味する。
どちらを選んでも、誰かが死ぬ。
「どちらを選んでも血の上を歩くんだ。ならば、意味のある死になるようにする。それしかない」
セリアは呟いた。
それは改革理論の、本質的な部分だった。システムそのものが、人類に対して常に選択を迫る。その選択から逃げることはできない。
アルトは目を開いた。
セリアを見つめる。彼女は既に答えを出している。その覚悟で、改革理論を完成させた。その覚悟で、自分の身体を銃撃傷に晒してまで、アルトの前に立った。
「進もう」
アルトは静かに言った。
迷いは消えていない。恐怖も残っている。だが、立ち止まることはできない。この瞬間、アルトが止まれば、全てが終わる。セリアも、ニナも、リリアも、イザベラも、シャーロットも。全員の死に繋がる。
アルトはセリアを抱き直し、再び歩き出した。
通路の先に、ぼんやりとした光が見え始める。中央コアの最奥部。システムの中枢がある場所。
そこに皇帝マクシミリアンが待っているはずだった。
約束の鎖を通じて、ニナの戦闘の激しさが急増するのを感じた。帝国軍の反撃が強まっている。多くの血が流れている。それでも、ニナたちは進む。
リリアの商人ギルド軍団も。帝国城を目指している。爆撃の中で、何人もが落ちていく。だが、戦線は維持されている。
イザベラは。孤児院ネットワークで難民の移送を続けている。ヴァルデスの傭兵団が護衛についた。非合法勢力までが、この戦いに参加している。
シャーロットは帝国城の評議会で、皇帝の命令に対抗している。その説得が、帝国内部の分裂を招いている。
全員がアルトのために、前に進んでいる。
「すまない。みんな」
アルトは呟いた。
もし、ここで失敗すれば、全員の努力が水泡に帰する。その重圧がのしかかってくる。だが、その重圧を感じることが、アルトが人間であることの証だった。
光の中へ。
アルトはセリアを抱いたまま、最後の通路へ踏み出した。
その先に何が待っているのか。皇帝の最終兵器とは何なのか。システム改革は本当に可能なのか。
全ての答えが、もう間近だった。




