第9話 少女たちの背景
森の中、焚き火の炎がゆらゆらと揺れている。
アルトはその火を前に、疲れきった表情で座っていた。体中の痛みはまだ引かず、特に頭部が重い。複数の契約――いや、237人との同時契約がもたらした負荷は、想像以上だった。
「アルト、飲んでください」
リリアが温かいスープを差し出す。その手は微かに震えていた。アルトはそれに気づいたが、今は何も言わず、スープを受け取った。
焚き火の周りには、解放した少女たちが三人いた。セーラ、メイ、ジェシカ。それぞれが異なる距離にいるように見える。何か心理的な壁がある。
「話してくれる?」
アルトがそっと口を開いた。
「君たちのこと。どうしてギルドにいたのか」
少女たちは互いに顔を見つめた。最初に口を開いたのは、茶髪のセーラだった。彼女は十七歳くらいだろうか。焚き火の光に照らされた顔は、妙に大人びていた。
「私は……商人の娘でした」
その言葉は、アルトを驚かせた。
「えっ?」
「父が商売に失敗したんです。莫大な負債を抱えて。その返済のために、私が売られました」
セーラの声は淡々としていたが、その中には深い傷がある。アルトにはそれが分かった。
「五年間。五年間、ギルドの奥の部屋にいました。掃除、料理、洗濯。時々は……」
彼女は言葉を止めた。言わなくても分かる。奴隷商人たちの本性は、アルトも十分に理解していた。
「でも、死なせてくれなかった。それが唯一の救いです。死なれると負債が返せなくなるから」
セーラは焚き火を見つめた。その瞳には何も映っていないように見えた。
次に、金髪のメイが口を開いた。彼女は十四歳ほど。体はまだ子どもだが、瞳は老人のようだった。
「私は……北部の獣人領から連れてこられました」
その言葉を聞いて、アルトは身構えた。獣人?
「耳を見ればわかります」
メイは自分の髪をかき分けた。確かに、人間離れした形の耳がある。狼のそれに似ていた。
「獣人は、この国では……」
アルトが言いかけると、メイが続けた。
「人間ではない。そう教わりました。だから、何をされてもいい。売られてもいい。死んでもいい。そう言われ続けました」
その声は、怒りではなく、絶望のそれだった。
「ギルドでは、最も扱いが悪かった。人間の奴隷より、さらに下。賃金も与えられない。食事も最後。病気になっても、治療されない」
メイは焚き火を見下ろした。
「三年いました。毎日、死にたいと思ってました。でも、死ぬこともできなかった。死ぬのすら許されない。そんな気がしました」
その瞬間、アルトは強い怒りを感じた。しかし、それはメイに向けられたものではない。この世界に対する、この不当な制度に対する怒りだ。
最後に、黒髪のジェシカが話し始めた。彼女は十六歳。表面的には、三人の中で最も落ち着いているように見えた。
「私は、農村の出身です。小作人の娘。飢饉が来て、両親は食べさせられなくなった。だから売った。私を」
ジェシカの話し方は、感情を排除した報告書のようだった。
「父はそう言いました。『これはお前のためだ。ここなら食べられる。生きられる』と。母は何も言わなかった。ただ、泣いていました」
彼女は焚き火に薪を投げ込んだ。火花が舞い上がる。
「ギルドでは、計算係として働かされました。帳簿を付けたり、奴隷たちの管理をしたり。だから気づいたんです。この商売がどれだけ利益を生むのか。どれだけ多くの人が、苦しんでいるのか」
ジェシカは初めてアルトを見た。その瞳には、何かの覚悟があるように見える。
「私は……ギルドの人間だった。奴隷ではなく。でも、ギルドに都合の悪いことを口にしたから、罰として奴隷に落とされた。馬車に乗せられて、売却されるはずでした」
その瞬間、アルトは思い出した。第3話で、馬車から飛び出してきた少女たち。その中に、ジェシカもいたはずだ。でも、ジェシカが最初に逃げようとしていた覚えはない。
「ジェシカ、君は逃げようとしてなかった」
ジェシカは静かに頷いた。
「逃げる気もありませんでした。どこへ逃げても、同じだと思ってました。世界のどこにいても、人間は苦しむ。弱い者は踏みにじられる。そうだと思ってました」
彼女は焚き火を見つめた。
「でも、あなたが来ました。金色の光を出して。『約束』という言葉を言って。その時、初めて思ったんです。もしかして、世界は変わるのかもしれないって」
ジェシカの声は微かに震えていた。
「変わってほしい。それが、私の唯一の願いです」
アルトは三人の話を聞きながら、激しい葛藤を感じていた。
彼らは確かに苦しんでいた。確かに解放する必要があった。しかし、アルトが237人全員と結んだ契約が、本当に彼らを幸せにするのだろうか?
リリアが側に来た。その手がアルトの肩に置かれる。
「何を考えてるんですか?」
リリアの声は優しかった。しかし、アルトにはそれが時々、拘束のように感じられる。
「俺の力が……本当に正しいのか。それを考えてた」
「どういう意味ですか?」
「俺が彼女たちと結んだ契約。それは彼女たちを救ったのか。それとも……」
アルトは言葉を止めた。言う勇気がなかった。
しかし、セーラが先を続けた。その声は静かだが、確実だった。
「あなたは、私たちを新しい鎖で繋いだのかもしれない」
その言葉は、アルトの中で轟いた。
「でも」
セーラは続ける。
「ギルドの鎖よりはましです。あなたの約束は、私たちを殺さない。それだけでも、十分だ」
メイも頷いた。ジェシカも。リリアも。
しかし、アルトは納得できなかった。彼らの頷きは、本当に心からのものなのか。それとも、アルトの力による無意識の従属なのか。
その夜、アルトは眠れなかった。
焚き火は消え、月だけが森を照らしていた。アルトは四人の少女たちの呼吸音を聞きながら、ずっと考え続けていた。
何者かの足音が、森の暗闇から聞こえてきたのは、明け方になってからだった。
「誰だ?」
アルトはすぐに立ち上がった。リリアも目を覚ます。
暗闇の中から現れたのは、一人の男だった。年は四十ほど。顔に大きな傷跡がある。そして何より、その瞳に異質な輝きを感じた。
「初めまして。俺はヴァルデス。奴隷解放を行う組織『自由の光』の指導者だ」
その声は、深く、重かった。
「お前の話は、聞いている。奴隷商人ギルドを潰した。237人を解放した」
ヴァルデスはゆっくりとアルトに近づく。リリアは身をすくめた。
「だが、お前のやり方には、異議がある」
「異議?」
「お前は、彼女たちを『約束』で縛っている。それは本当の自由なのか?」
その瞬間、アルトは感じた。このヴァルデスという男は、自分と同じ問いを持っている。いや、もしかして、自分が悩んでいることを既に答えを出しているのかもしれない。
「話がある。明日の日没時に、この森の北側の廃墟で会わないか?」
ヴァルデスは言い終わると、暗闇に消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
アルトはその場に立ったまま、動けなかった。
彼のセリフが脳裏に反響する。
『お前は、彼女たちを「約束」で縛っている』
その言葉は、アルト自身が抱いていた疑問を、ズバリと言い当てていた。
「アルト、大丈夫ですか?」
リリアが側に来た。その顔は不安に満ちていた。
アルトはリリアを見つめた。そして、初めて気づいたのだ。
リリアの献身的な姿勢。彼女の優しさ。それらすべてが、本当に彼女自身の意思からくるものなのか。それとも、アルトとの契約による強制なのか。
その区別が、アルトには分からなくなっていた。
「リリア。お前は……本当は、俺と別れたいのか?」
リリアは驚いた表情を浮かべた。その後、ゆっくりと首を横に振った。
「違います。私は……あなたにいたいです」
その言葉も、契約による強制なのだろうか。
アルトは何も言わず、ただ月を見上げた。
その夜明けは、新しい問いの始まりだった。
そして、その問いは、やがてアルトの世界観そのものを揺るがすことになるのだ。




