第8話 解放の瞬間
奴隷商人ギルドの地下牢は、想像以上に広かった。
意識を取り戻してから三日間、俺はリリアたちに案内されながら、この施設の規模を思い知らされていた。石造りの通路を進むたびに、鉄格子の向こうから視線を感じる。男も、女も、子どもすらもいた。全員が同じ表情で俺を見つめていた。
「この人が……」
ある少女がリリアに囁いた。
「例の人か」
俺は足を止めた。リリアが小さく頷く。
「ここの全員が、アルトさんの話を聞いてます。地上の奴隷商人たちから。『金色の光が奴隷を解放する』って」
俺の心臓が、微かに昂った。
複数の契約を結んだ反動は、まだ身体に残っていた。肩と腕の奥に、冷たい鈍痛が走っている。複雑な契約ネットワークの痕跡だとリリアは言った。「約束の鎖」という、目に見えない糸が俺の身体を通じて、彼女たちを繋いでいるのだと。
だが、今はそれより重要なことがある。
「ここには、何人いる?」
「数えるのは大変です」
ジェシカという少女――馬車の中で一番静かだった少女が答えた。彼女は牢の鍵を持つ係を務めていたため、統計を知っていた。
「二百三十七人。子どもは五十二人。男性は九十一人で、あとは女性です」
数字が頭に入ってこなかった。二百三十七人。その全員が、奴隷として売られ、この牢に放り込まれていたのか。
牢の奥から、誰かが呼んだ。
「リリア、その人が……?」
「そうです。ヴァディック様は動きません。アルトさんの力で」
「本当に……解放してくれるんですか?」
その声に、別の声が重なった。そして別の声が。やがて二百三十七の期待が、目に見えない圧力となって俺に降りかかった。
俺は歯を食いしばった。
ヴァディックは地下室の最奥にいた。その前に、俺は立ち止まっていた。男はまだ動けないままだった。三日間、ずっとだ。目だけが、俺を追っていた。
「なぜ……契約を解く……」
声は、かすれていた。
「俺の力を使わずに、お前たちを解放するつもりなんだ。契約なしで」
俺は、そう言った。
嘘だった。
俺は既に知っていた。地下牢の全員に対して、同時に契約を結ぶ計画を立てていたのだ。ただし、今度は違う。前の契約は「守る」「幸せにさせる」という漠然とした約束だった。だが今回は――
「もし解放されたら、自分の足で立つこと。二度と奴隷商人に売られないこと。そして、この世界でもう一度生きることを約束できるか?」
牢の中から、返事がなかった。
俺の身体が、微かに震えた。複数契約の負荷がこみ上げてきた。一人の契約でも、複数になれば、精神と肉体の双方に圧力がかかる。だが、それをこえるものが、俺の中にあった。
正義感か、それとも別の何か。
「約束できなければ、解放はしない」
俺は、そう言った。
「誰もが『自由』を求めているわけじゃないのかもしれない。奴隷であることが、安心だと思う者だっているかもしれない。だが、それでもいい。約束するか、しないか。選べ」
沈黙が、地下室を満たした。
やがて、一つの声が上がった。
「約束します」
その声は、老いた女性のものだった。
「私は、もう一度生きたい。もう一度、自分の名前で呼ばれたい」
別の声が、重なった。
「俺も」
「私も」
やがて、二百三十七の声が、同じ言葉を繰り返していた。
俺は、目を閉じた。
金色の光が、俺の体から発した。それは牢から牢へと流れ、一人一人の奴隷たちを包んでいった。その光の中で、彼らの鎖が――文字通りの鎖が、錆びて、崩れていった。
いや。それは錆ではない。
光そのものが、鎖を溶かしていた。
俺は、その光を見ていた。自分の力が、どこまで到達しているのか、感じていた。二百三十七人全員との契約が、同時に成立する瞬間を。その時、複数の「約束の鎖」が、俺の身体を通じて彼らを繋いだ。
鎖から解放される彼らと、新しい約束で結ばれる俺。
その瞬間、俺の中に違和感が生じた。
これは……本当に「解放」なのか?
奴隷商人の鎖を失った彼らが、今度は俺との契約で繋がれている。自由になったはずなのに、別の形で拘束されている。その矛盾に、俺は気づいていた。だが、それでも目を背けた。
地下室が、静かになった。
光が消え、鎖が崩れ、二百三十七人の奴隷たちが、ゆっくりと立ち上がった。彼らの顔には、涙があった。
「ありがとうございます」
最初に声を上げた老いた女性が、俺に跪いた。
その光景に、俺の心は揺れた。
「ありがとうございます」
別の者が、繰り返した。
やがて、全員がそう言った。二百三十七の感謝の声が、地下室を満たした。
その瞬間、俺は感じた。
自分が正義を行っている、という確信。
自分が世界を変えている、という陶酔。
それは、上昇感だった。奴隷商人に怒りを覚えて行動した時とは異なる感覚。綺麗な感覚。それは――
「アルト!」
リリアの声が、その感覚を遮った。
俺は、彼女を見た。彼女の表情は、喜びではなく、何かしら不安を湛えたそれだった。
「大丈夫ですか?」
「……ああ。大丈夫だ」
だが、俺の声は、震えていた。
その時、俺は知らなかった。この瞬間が、後に大きな問題を生み出すことを。二百三十七人の解放と同時に、俺が彼らと結んだ契約が、どれほどの重みを持つのか。そして、その重みが、どのように俺を追い詰めていくのか。
地下室を出た俺は、奴隷商人ギルドの建物から出た。朝日が目に入った。
「次は、どこへ?」
ジェシカが聞いた。
俺は、空を見上げた。
世界は広い。奴隷制度は、どこにでもある。もし俺が行動を続ければ、数千の奴隷たちを解放することができるだろう。その時、俺はどうなるのか。どれほどの契約を背負うことになるのか。
「さあ、な」
俺は、そう呟いた。
その時、地平線の向こうから、馬の蹄音が聞こえた。複数の馬。複数の兵士。ウェスタリア帝国の紋章を持った者たちだった。
「逃げるぞ」
リリアが、俺の腕を掴んだ。
俺たちは、森へと駆け込んだ。二百三十七人の解放者として、そして新たな問題を抱えた契約者として。
後ろを見ずに、俺たちは走った。




