第87話 リリアの武器
東大陸の商業都市エルメス。商人ギルド本部の最上階に設けられた統領室は、かつての気品あるホールから、今では戦場の司令部へと変わっていた。
机の上に広げられた地図には、帝国との国境線と、その周辺の交易路が複数の色で標示されている。赤は食糧流通、青は金属・鉱物、緑は布地や医薬品。そして、その全てに『X』印が付けられていた。
「本当に、このまま進めていいんですか?」
ギルド幹部のドミニクが、リリアの傍らで震える声で尋ねた。彼は五十代の商人で、四十年以上ギルドに仕えてきた人物だ。しかし、今、彼の顔は蒼白だった。
「帝国との取引を完全に遮断するなんて。報復が来れば、ギルド本部ごと吹き飛ぶかもしれません」
リリアは、机に置かれたアルトとの約束の鎖を握りしめた。その光は薄紫色に微かに輝いており、彼女の心臓の鼓動に合わせて脈動している。
「報復は覚悟しています」
リリアは静かに答えた。彼女の声は、かつてのような奴隷の少女のそれではない。統領として数千の商人たちを率いる女性の、揺るがぬ決意に満ちていた。
「ですが、考えてください。帝国が何をしようとしているかを。奴隷制度の完全なる統制化です。現在、帝国領内には三百万人以上の奴隷がいます。彼らの魔力を吸収し、皇帝が全てを支配する。そんなことが起こったら、私たちの商業活動そのものが成立しなくなる」
ドミニクが口を開きかけたが、リリアは続けた。
「それにね、ドミニク。私たちは既に約束をしたんです」
彼女は約束の鎖をかざした。その先には、四つの光が見えた。北の光、西の光、帝国領内の光、そして南西の光。
「アルトは中央コアで全てを変えようとしている。私たちが支えなければ、彼は一人では立ち上がれません。だから、私たちは経済封鎖という、商人にしかできない戦いをする。それが、私たちの約束です」
リリアは声を強める。
「さあ、準備を進めましょう。今夜零時、帝国との全交易ルートを遮断します」
ドミニクは、統領の決意を見て、従うことにした。
「かしこまりました。既に各支部長への通知は完了しています。帝国との契約書は、本部で全て破棄する手配も整っています。ただし、これが実行されれば……」
「帝国領内の一般市民にも影響が出るでしょう。飢饉が起こるかもしれません」
リリアが先制した。その瞳には、迷いなど微塵もない。
「分かっています。ですが、帝国皇帝がシステムを独占したら、その時こそが本当の地獄です。一時的な飢饉は、解決できます。しかし、全人類が皇帝の支配下に置かれることは、決して取り戻せません」
彼女は約束の鎖を握りしめ、目を閉じた。
――アルト。今、私たちが動きます。
その瞬間、東大陸全域を支配する商人ギルドのネットワークが、一斉に動き始めた。
帝国の北東の国境。かつて毎日数百台の馬車が行き来していた交易ルートの上に、商人ギルドの兵たちが立ちはだかった。彼らは剣を構えるのではなく、単に腕を組んでいた。
帝国軍の輸送隊が、彼らの前で止まった。
「通せ。帝国皇帝の命だ。これは食糧輸送だ」
帝国軍の将校が声を上げたが、商人ギルド兵の隊長は動かない。
「商人ギルド統領リリアの命で、帝国との全交易を遮断いたします。通行を禁止する」
「馬鹿な。商人ギルドが帝国に逆らうと?」
「逆らっているのではなく、選択しているのです。世界の未来のために」
隊長は一歩も引かなかった。背後には数千の商人ギルド兵がいた。帝国軍の輸送隊は、わずか百人だ。物理的な力では、敵わない。
その光景は、東大陸の五箇所すべての国境で同時に繰り広げられていた。
帝国領内の首都でも、混乱が始まっていた。
帝国の食糧は、主に東大陸の商人ギルドから輸入されていた。鉱物、医薬品、衣類も然り。帝国自体の経済は、外部との交易に大きく依存していたのだ。
市場では、物資の価格が急騰し始めていた。朝には一枚の布の値段が、昼には十倍になっていた。穀物は品薄になり始めていた。
皇帝マクシミリアンは、玉座の間で激怒していた。
「経済封鎖だと?」
彼の声は、城全体に響き渡った。
「リリアという奴隷上がりの女が、帝国に逆らうと?許さん。軍を出せ。あの女と、東大陸全土を焼き尽くせ」
だが、侍従は躊躇した。
「陛下。現在、北大陸ではニナが獣人軍を率いて帝国軍と交戦中です。西大陸ではイザベラが難民を盾に進撃を遅延させています。帝国領内でもシャーロット王女の改革派が暴動を起こしています。軍を分散させれば、いずれかの戦線で敗北する可能性があります」
皇帝の顔が、さらに醜く歪んだ。
「だから何だ。全て潰す。同時に全て潰すのだ。帝国の力を見せてやる」
彼は玉座から立ち上がり、中央コアへ続く階段に向かった。
「エミリアめ。貴様が改革など呼びかけるから、こうなった。もう時間がない。コアを掌握し、システムを破壊する。そして、新しい秩序を作るのだ。帝国の秩序を」
*
商人ギルド本部では、リリアが数百人の幹部たちと戦略会議を行っていた。
地図の上には、今や帝国領内の各都市での食糧備蓄量が、日々減少する様子が記されていた。
「帝国は二週間以内に食糧不足による混乱が起こり始めるだろう」
ギルドの財務主任が報告した。
「軍人たちは優先的に給与が支払われますが、一般市民への食糧配給は三週間で枯渇します」
リリアは、その数字を聞きながら、胸の痛みを感じていた。彼女が経済封鎖で与える苦しみは、帝国の一般市民にも及ぶ。彼らは何も悪くないのに。
しかし、その痛みに目をそらしてはいけない。
「帝国の崩壊が起これば、シャーロットたちが改革派政権を樹立できます。その時、我々はすぐに交易を再開する。帝国の人々も救われるでしょう」
リリアは、自分自身に言い聞かせるように話した。
「だから、私たちは持ちこたえなければなりません。帝国からの報復に。帝国からの軍事的な脅迫に。アルトが中央コアで改革を完成させるまで」
約束の鎖の光が、また脈動した。
南西の光が、急激に明るくなった。
「アルト……」
リリアの瞳に、涙が浮かんだ。
中央コアで何かが起こっている。大きな、とても大きな何かが。
彼女は祈った。
アルト。頼むから、生き残ってください。そして、この世界を変えてください。
そうしたら、私たちの苦しみも、帝国の人々の苦しみも、意味を持つのです。
彼女の手に握られた約promise の鎖は、今、四つの光全てが、激しく、渦巻くように輝いていた。




