第86話 エミリアの正体
地下遺跡の奥深くで、アルトはセリアの遺した理論書を握りしめていた。周囲は改革のエネルギーで淡い光に満ちている。中央コアのシステムが稼働し始め、奴隷たちの魔力鎖が解放されていく。その光景は美しくもあり、不気味でもあった。
突然、空間が歪んだ。
現れたのはエミリアである。彼女の姿は以前と違う。体全体が淡い光に包まれており、まるで幽霊のような透明感がある。その目は数百年の時を経たものとは思えないほど、深く、そして絶望的だった。
「待ってくださった。ありがとう、アルト・ソルヴェン」
エミリアの声は遠く、かつ近い。複数の時間層が重なっているような不思議な響きだ。
「エミリア……お前、何なんだ?」
アルトは警戒しながら問い掛けた。複数契約による精神的疲労は極限に達しており、彼の意識は揺らいでいる。四地点からの約束の鎖の力を感じながらも、それは消耗戦でしかない。
「私は、過去のシステム管理者の一人です」
エミリアはゆっくりと歩を進めた。その足は床に接していない。完全に幽霊化しているのだ。
「数百年前、私と同じく契約能力を持つ者たちが、このシステムの真実に気づきました。強制的な約束が世界を支配している。それが本当の『自由』なのかどうか、と。だから、私たちは改革を試みたのです。セリアの理論と同じものを」
「なぜ、それが失敗した?」
「失敗ではなく、諦めたのです」
エミリアが立ち止まった。彼女の目がアルトを真っすぐに見つめる。
「改革には、代償が必要でした。システムを変えるためには、現在のすべての『契約者』が自分たちの力を手放す必要があった。同時に、既存のシステムで構築されたすべての『約束』が無効になる。つまり、社会全体が一度、完全に崩壊するのです」
「それは……」
「そうです。奴隷たちが解放される。しかし、それまで約束で支えられていたすべての秩序が失われる。食料の配給、安全の保証、医療、教育……すべてが。何百万人の人間が飢え、病に倒れるでしょう。それを承知で改革を実行することが、本当に『正しい』のか」
エミリアの言葉は、アルトの心臓を鷲掴みにした。
「私たちは、その判断ができませんでした。改革して人類を救うのか、現在の秩序を保って人類を守るのか。その選択の前で、私たちは立ち止まってしまった」
「それで、お前たちは何もしなかった。それが『過去』なのか」
「そうです。そして、数百年が経ちました。その間に、帝国は成長し、皇帝マクシミリアンはシステムの秘密に辿り着いた。彼は異なる選択をしようとしています」
「全人類の統制」
「そうです。彼は改革ではなく、システムの完全な掌握を目指す。彼にとって、強制的な約束は『支配の道具』に過ぎない。それは、もはや『救済』ではなく『奴隷化』です」
エミリアが透明な手をアルトに向けた。
「ですから、私は賭けることにしました。あなたなら、その決断ができるのではないかと。強制と自由のはざまで、人類の未来を本当の意味で選び取る決断を」
「俺が、それを?」
「あなたは、強制的な約束を『相互選択』に変えようとしている。セリアの理論はそのためのものです。しかし、アルト。あなたは覚悟はありますか?」
エミリアの問いかけは、簡潔だが絶望的だ。
「改革を実行すれば、確かに奴隷制度は消える。しかし、その過程で、少なくとも数十万の人間が死ぬでしょう。飢えで、病で、混乱の中で。それでも、あなたは『相互選択』の世界を求めますか?」
アルトは答えられなかった。その答えが、あまりにも重すぎるのだ。
地下遺跡全体が揺れた。皇帝マクシミリアンが最終的な行動を起こしたのだ。中央コアへの侵攻が始まっている。
「決断の時間は短い」
エミリアの体がさらに透明になり始めた。
「実は、私たちはすべてを放棄したわけではありません。過去の契約者たちは、『いつか来るかもしれない』新しい世代のために、システムの改革プログラムを秘密裏に組み込んでおきました。それがセリアの理論と同期することで、初めて実行される仕組みです。つまり、あなたが実行を続ければ、もう止めることはできません」
「何だと?」
「すでに、改革は始まっています。奴隷の鎖が解き放たれている。その速度は増していくでしょう。そしてやがて、既存のシステムは完全に崩壊する。その時、社会はどうなるか。それは、あなたたち『現在の世代』が決めるしかないのです」
エミリアはほぼ完全に透明になっていた。もはや幽霊の幽霊である。
「私たちが失敗したのは、決断を先延ばしにしたこと。改革を『いつか』に委ねたこと。だから、あなたにはそれを求めません。ただ、『今』を生きてください。この混乱の中で、あなたと四人の同志たちが本当に『相互選択』できるのか、その試験が始まったのです」
「待て、エミリア。俺たちはどうすれば……」
しかし、エミリアはすでに消えていた。ただ、彼女の最後の声だけが、残響として響き続ける。
「相互選択とは、決して簡単ではありません。すべての人間が、すべての決断において、完全に自由であることの代償を知ることです。それでも、あなたたちは前に進みますか?」
その瞬間、アルトの全身に激痛が走った。複数契約の管理上限を、もう超えているのだ。四地点の同志たちの力を借りながら、それでもなお、中央コアのシステムを統制するには、彼の精神は限界に達していた。
意識が揺らぎ始めたアルトの視界に、一つの映像が映る。
北大陸でニナが獣人軍と帝国軍の膠着状況にある。
東大陸でリリアが物資不足で商人ギルドの統率が揺らいでいる。
西大陸でイザベラが難民の急増で孤児院ネットワークが限界を迎えている。
帝国評議会でシャーロットが皇帝派と改革派の武力衝突に直面している。
そして、中央コアでは、皇帝マクシミリアンが最終兵器を起動しようとしていた。
「俺たちは……本当に、これを選べるのか」
アルトの呟きは、誰にも聞かれることなく、改革のエネルギーに吸収されていく。
セリアの遺したノートは、アルトの手の中で温かく輝き続けていた。




