第75話 帝国の異変
帝国首都ソルネイアの古い館から三日が経過した。
セリアが肩の銃撃傷をようやく完治させた同じ日の夜、冒険者ギルド長グレッグからの伝言が届いた。その内容は、アルトを絶望の淵へと追い詰めるものだった。
「皇帝陛下が……秘密兵器の開発を指示している?」
アルトは古い館の応接室で、グレッグから派遣された情報部員の前で、その話を反復した。相手は中年の冒険者で、名前はジェイク。ギルド内でも有名な情報屋だ。
「ああ、間違いない」
ジェイクは身を乗り出し、声を低くした。
「帝国軍の秘密兵器開発部門。通常は『防衛局』という名義で活動していたのが、ここ一ヶ月で『システム回収局』という部門に改編されたんだ。で、その局長が誰だと思う?」
「……」
「マクシミリアン皇帝の側近で、帝国評議会の筆頭顧問・ダミアンだ。こいつは昔、ウェスタリア帝国が『古い時代の遺物』を集めていた時代に、その事業の責任者だったんだ」
シャーロットが館の奥から現れた。彼女の顔は蒼白だった。
「ダミアン……」
彼女の呟きから、何か重い過去が感じ取れた。
「知ってるのか?」
「ええ。帝国の内政に関わる重要な人物です。昔は『古い文明の遺跡』を帝国の資源として利用する計画の責任者でした。その計画は……十年前に中止されたはずなのに」
ジェイクが頷いた。
「その通り。中止されたはずなんだ。ところがここ一ヶ月で、突然復活した。しかも規模が前とは比べ物にならない。帝国の軍事予算の三割がこの『システム回収局』に充てられている」
セリアが医者に手当てしてもらった肩から身を起こした。目は鋭くなっていた。
「『システム回収局』……。つまり、皇帝がシステムそのものを支配下に置こうとしているということですね」
「その線が濃い」
ジェイクは館の窓を通して、遠くソルネイアの夜景を見つめた。帝国の首都は、この季節でも深夜の光に包まれていた。
「さらに厄介なのが、皇帝が『古い遺物』の大量収集を指示していることだ。帝国中の考古学者、魔術師、冒険者に命じて、ありとあらゆる古代遺跡の発掘を進めている。特に地下遺跡──」
ジェイクはここで一度、言葉を切った。
「特に地下遺跡?」
アルトが促した。
「俺たちが半月前に脱出した、中央広場下の地下遺跡だ。皇帝はそこへ帝国軍精鋭部隊を派遣した。目的は『コアの回収』」
部屋の空気が凍りついた。
アルトは椅子から立ち上がった。拳を握り、握った拳を握った。複数契約による精神負荷はようやく軽減されたばかりだというのに、新しい絶望の重さが襲いかかってきた。
「待てよ。中央コアは……システムそのものの『心臓』だ。それを皇帝が手に入れるということは」
「世界を支配する力を手に入れるということだ」
エミリアの声が、部屋の奥から聞こえた。
彼女は暗い廊下から現れた。その表情は、アルトがこれまで見たどの時よりも深刻だった。三百年以上生きてきた彼女の顔に、ようやく『恐怖』という感情が浮かんでいた。
「マクシミリアン皇帝はシステムの秘密を知っている。そして、他の誰よりも早くその力に到達しようとしている。もし彼があのコアを手に入れれば、人類の自由意志そのものが──」
エミリアは言葉を止めた。
アルトはその先を自分で補った。
「彼の手中に落ちる」
シャーロットが呟いた。
「三日以内の帝国評議会での投票は、もう意味がなくなったということですね。皇帝は評議会の決定など待たず、システムを直接支配下に置こうとしている」
「その通りだ」
ジェイクが立ち上がった。
「さらに悪いことがある。帝国軍の精鋭部隊が地下遺跡に到達するまで、あと二日──いや、おそらく一日足らずだ。それに」
ジェイクは一枚の紙をテーブルに置いた。そこに書かれていたのは、複雑な文字と暗号だった。
「帝国軍の動きだけじゃない。北大陸からも動きが報告されている。ヴァルデスが帝国軍の動きに呼応するように、自分の軍勢を北上させている。そしてシャーロット、お前の帝国改革派の仲間たちも、皇帝のこの動きに気づき始めた。帝国は今、三つ巴の権力闘争に突入しようとしている」
セリアが地図を取り出した。古い館の奥に隠されていた、異世界の地図だ。
彼女は指で、中央広場下の地下遺跡の位置を指した。
「中央広場は帝国首都の心臓部。皇帝派の勢力が最も厚い場所です。つまり、帝国軍がコアに最初にアクセスする可能性が高い」
「そして、その力は帝国全土へと波及する」
エミリアが続けた。
「皇帝が中央コアを支配下に置いた瞬間、全ウェスタリア帝国の国民がシステムを通じて皇帝に『契約』されることになる。奴隷制度よりも、獣人差別よりも、さらに深刻な支配が誕生するんだ」
アルトは窓を見つめた。遠くに見える帝国城。その中で、マクシミリアン皇帝は何を思いながら、システム回収の指令を下しているのか。
単なる野心か。それとも、何か別の理由があるのか。
「リリアは?シャーロットの改革派の動きは?」
「リリアは東大陸で商人ギルドの統領として、帝国の経済的圧力に対抗する準備を進めている。ただし、彼女が北上してこのソルネイアに到達するまでには、少なくとも五日はかかる」
シャーロットが答えた。
「ニナは?」
「獣人たちを率いて、北大陸での独立戦線を構築中です。ヴァルデスとの衝突も予測されています」
セリアが付け加えた。
つまり、アルトのネットワークは今、完全に分散している。誰もが自分の領域で、独立して行動している。
それは確かに『相互選択』の理想形だった。
しかし、この緊急事態においては、最も危険な状況でもあった。
アルトは、自分の手のひらを見つめた。かつてそこには四本の約束の鎖が見えていた。リリア、シャーロット、ニナ、セリア──彼女たちとの『契約』。
だが今、その鎖はすべて解除されている。
相互選択。自由意志。
彼の『約束』はもう、相手を束縛していない。
その代わりに、彼は完全に一人だった。
「アルト」
エミリアが彼に近づいた。
「君の決断は何か?」
アルトは顔を上げた。
「地下遺跡へ向かう。中央コアに到達する前に、システムそのものと対話する必要がある」
「皇帝の軍勢に追われながら、か?」
「ああ。だが」
アルトは拳を握った。
「今度は、一人じゃない。シャーロット、セリア、エミリア。それに」
彼は窓を見つめた。遠く、北大陸ではニナが獣人たちを率いている。東大陸ではリリアが商人ギルドの力を統合している。
「彼女たちは、もう『契約』ではなく『約束』で繋がっている。強制的な絆ではなく、相互選択の絆で」
セリアが立ち上がった。
「ですから、私たちも独立した判断で、あなたに従うということですね」
「そうだ」
「なら、悪いニュースがもう一つあります」
ジェイクが静かに言った。
「何だ?」
「地下遺跡への入口は、既に帝国軍に封鎖されている。外部からのアクセスはほぼ不可能だ」
アルトは一瞬、沈黙した。
だが、その沈黙は短かった。
「地下遺跡の侵入ルートは、あと一つある」
エミリアが呟いた。
「帝国城の地下。『禁足の間』。皇帝も知らない、古い時代の秘密通路だ」
シャーロットが息を呑んだ。
「禁足の間ですか?あそこは……」
「そこしかない」
エミリアは決然と言った。
「時間がない。君たちは今夜、帝国城へ侵入する。帝国城の地下へ」
アルトは頷いた。
窓の向こう、帝国城のシルエットが、夜の闇の中で浮かんでいた。




