第74話 セリアの研究機関構想
帝国首都ソルネイアの古い館――かつて王族の書庫として使われていた三階建ての石造建築。その最上階の窓からは、夜間の街灯がぼんやりと見える。
アルトはセリアの隣に座り、彼女が広げた古ぼけた紙片を眺めていた。
「これが……」
「システムの設計図の断片です」
セリアは慎重に紙をめくる。その手は興奮で微かに震えていた。
「地下遺跡の機械室で見つけた石板から写したものを、さらに分析しました。見てください。ここの符号体系は、私たちが知っている魔術体系とは全く別の論理で構成されている」
セリアが指差した箇所には、複雑に絡み合った幾何学的な図形が描かれていた。アルトは首を傾げる。一般的な魔力の流れを示す図とは似ても似つかない。
「これは……何ですか?」
「契約システムそのものの『核』です。ここに刻まれている理論を理解すれば、システムがどのように人間の意思を制御しているのか、その本質が見える」
セリアは立ち上がり、机の上に散らばった複数の書物や草稿を指でなぞる。その指の動きは、まるで何かの流れを追うかのようだった。
「アルト、あなたはこれまで『契約』という力を直感的に使ってきました。でも、その力がなぜ機能するのか、その理由を知っていますか?」
「いいえ。ただ……相手が同意すれば、約束が強制実行される。それだけです」
セリアは満足げに頷いた。
「正確には、あなたの『約束の鎖』が相手の魔力体系と同期し、双方の魔力を一つのネットワークへ統合することで、約束が『現実化』されるんです。つまり……」
セリアは机に身を乗り出す。その瞳には、学者としての純粋な好奇心が輝いていた。
「システムも、本質的には同じ仕組みかもしれない。人類全体の意思を無意識のうちに『約束の鎖』で繋ぎ、『最善の世界』という名目で、全員の行動を制御している。そう考えるとすべてが説明できるんです」
アルトは息を飲んだ。
それは――自分がしていることと、本質的には同じだということ。リリアやニナ、シャーロット。彼女たちとの契約を通じて、アルトは彼女たちの行動を、心を、支配していた。それが『救済』だと信じていた。でも実際には――。
「セリア。その理論が正しいとしたら、僕たちはシステムと同じ道を歩んでいるんですか?」
セリアは息を止めた。その表情が一瞬、沈痛なものになる。だが、すぐに顔を上げた。
「いいえ。だからこそ、あなたたちは違う選択ができる」
彼女は再び机に向き直り、新しい紙を引き出した。
「現在のシステムは、契約者たちによって『プログラム化』されました。過去六代の契約者が、人類全体を支配するための理論を完成させ、それを仕組み化した。その結果、システムは『自動稼働』している。もはや誰の意思も入り込む余地がない。それが帝国皇帝すら支配できない理由です」
「では、どうすれば……」
「新しい魔力理論を創造するんです」
セリアは直立した。その視線は、アルトの瞳を真っすぐに捕らえた。
「従来の魔術体系では、『支配』と『解放』は相互排他的です。支配されるか、自由であるか。どちらかしかない。でも――もし、『相互選択』という新しい理論が存在したら?」
「相互選択?」
「はい。あなたの『約束の鎖』を例に取るなら、現在のそれは『一方向の支配』です。あなたが相手を拘束する。でも、もし相手も同時にあなたを拘束できる構造があれば?つまり、双方が互いに対等な力を持ち、互いに選択できる状態」
セリアは両手を組んだ。
「そうなれば、契約は『支配』ではなく『協約』になる。システムも、過去の契約者たちのプログラムではなく、人類全体が『相互合意』の下で運用する共有資産に変わるんです」
アルトは言葉を失った。それは――彼が望んでいた答えのように聞こえた。でも、同時に、その実現がどれほど困難かも理解していた。
「セリア。それは……可能ですか?」
セリアは微笑んだ。その笑顔には、学者としての自信と、同時に、恐怖が混在していた。
「可能かどうかは、分かりません。でも、必要なら、やるしかない」
彼女は再び机に向かい、新しい書物を開く。
「そのためには、新しい研究機関が必要です。ただ個人的に理論を進めるのではなく、世界中の優秀な学者たち、魔術師たち、そして契約者たちが集い、協力して『相互選択の仕組み』を数学的・物理的に証明する場所が。現在のどの大学や研究所にも、そんな環境はない。帝国はシステムの秘密を隠したいし、東大陸の王国たちは政治的混乱を恐れている。北大陸の獣人たちは、文明的な研究施設そのものが不足している」
セリアは机の上に一枚の地図を広げた。それは北大陸の西側の一地域を示していた。
「ここ。『ミドリ高地』という、誰の領土でもない中立地帯があります。冒険者ギルドが一部管理していますが、大部分は未開拓地です。ここに新しい研究機関を設立できれば、どの国の圧力も受けない『自由な研究』が可能になる」
「グレッグ――冒険者ギルド長は、同意しますか?」
「すでに打診してあります。彼はこの計画を支持しています。理由は単純。『新しい魔力理論の確立は、人類全体の利益になる』と考えているから」
セリアは机から顔を上げ、アルトの方を向いた。
「アルト。あなたは今、四つの『約束の鎖』を保有している。ニナ、リリア、シャーロット、そして僕。彼女たちはすべて、あなたから『相互選択』への移行を求めている。でも、彼女たちも、自分たちが何をしているのか完全には理解していません」
セリアは一歩、アルトに近づいた。
「だから、教えるんです。新しい理論を。相互選択とは何か。なぜ相手を支配することが、同時に自分も支配されることなのか。そして、その矛盾を乗り越える方法が存在することを」
「それは……」
アルトは息を整えた。彼の頭の中は、矛盾と可能性で満たされていた。
「では、リリアは商人ギルドを再構築し、ニナは獣人たちを団結させ、シャーロットは帝国を改革して……そして、僕たちは新しい研究機関を建設する。すべてが並行して進むということですか?」
「はい。一つの目標に向かって、複数の視点から、複数の方法で接近する。それが『相互選択』の原理そのものです。もし一人の誰かが全てを支配していたら、こんなことは不可能。でも、あなたたちは違う。あなたたちはそれぞれに、自分たちの意思を持ち、自分たちの道を歩んでいる」
セリアは笑った。その笑顔は、純粋で、そして悲しかった。
「システムはそれを許さない。過去の契約者たちは、その自由度を統制しようとした。でも、あなたは違う。あなたは彼女たちの自由を『拘束』し始めている。それはもう、『支配』ではなく『信頼』に変わろうとしている」
アルトは胸の奥に、温かいものと冷たいものが同時に流れるのを感じた。
「セリア。もし、この計画が失敗したら?」
セリアの笑顔が消えた。
「失敗は……ないでしょう。なぜなら、失敗することもまた、『相互選択』の結果だから」
その時、館の下の階から、足音が聞こえた。激しく、焦った足音。
セリアとアルトは同時に窓の方へ視線を向けた。外では、帝国軍の兵士たちが街の各所に配置されているのが見える。その数は、数時間前より明らかに増えていた。
「帝国軍が……」
「はい。シャーロットの情報によると、マクシミリアン皇帝が帝国評議会での投票を前倒しにしたそうです。明日の夜明けには、『非常事態宣言』が発令される見込みです」
セリアは机の上の書類をすべて懐に仕舞った。その動きに、迷いはなかった。
「つまり、あなたたちはもう、時間がない。帝国軍が本格的に動く前に、何らかの決定を下す必要があります」
階下から声が上がった。シャーロットだった。その声色には、緊張が滲んでいた。
「アルト!セリア!下りてきて。重要な報告があります!」
セリアとアルトは顔を見合わせた。セリアの瞳には、なお研究への執着が燃えていた。しかし同時に、その瞳には、これが最後の選択かもしれないという、静かな覚悟も映っていた。
「新しい理論の完成には、少なくとも三ヶ月が必要です。でも、帝国軍はそんなに待ってくれない」
セリアは階段に向かって歩き始めた。
「だから、別の戦略が必要になります。アルト。あなたは『約束の鎖』で、ニナとリリアとシャーロットに、この『相互選択の構想』を伝える必要があります。彼女たちはそれを聞いた時、何をするのか。その答えが、これからの世界を決めます」
二人は階下へ降りた。
廊下にはシャーロットが立っていた。その表情は、高貴な王族のそれではなく、一人の女戦士のそれだった。
「帝国評議会が真っ二つに割れています。改革派と皇帝派。そして――」
シャーロットは息を整えた。
「ヴァルデスが、帝国首都の北郊外に軍勢を集結させています」




