第54話 新しい目標への転換
獣人領域への道中、アルトは馬の背で意識が朦朧としていた。
エミリアが開いた秘密の通路を通り抜け、北の山脈を下りてきたのは数時間前だ。背後では帝国軍の松明が山々を照らし、ヴァルデスの傭兵隊の馬蹄音が遠ざかっていく。だが逃げ延びたという安堵感はどこにもなかった。代わりにあるのは、言葉にならない空虚感だけだ。
「落ちるなよ」
ニナが後ろから声をかける。彼女は馬を操って、アルトを支える綱をしっかと握っていた。獣人領域の入り口で待ち合わせていたニナは、アルトの姿を見るなり無言のまま手を差し伸べた。質問も、責めの言葉もなく。ただ、彼女の灰色の瞳には何かが決まったような覚悟が宿っていた。
「ニナ……なんで」
アルトが呻くように言葉を絞り出す。
「お前が来るって、エミリアが言ってた。それだけだ」
短い返答。それ以上の説明はない。ニナはそういう奴だった。複雑な感情を言葉にするより、行動で示す。アルトはその潔さに、かえって胸が痛んだ。
領域の深部へ進むにつれて、周囲の景色が変わった。人間の領土では見ることのない、獣人たちの居住地——石造りの建物が自然と調和した形で立ち並び、焚火の明かりが夜間の街を照らしている。かつてアルトが訪れたときは、圧倒的な異質さを感じたその場所だ。今、改めて見ると、それは異質なのではなく、単に「違う」だけなのだと気づく。
村の中心にあった広場に到着すると、獣人評議会の面々がすでに集まっていた。狼族の族長、虎族の戦士たち、鳥族の長老——彼らの顔には警戒と、どこか冷徹な覚悟が刻まれていた。
「契約者。お前がここに来ることで、帝国とウェスタリア帝国の衝突を引き起こすことになるが、構わないか」
狼族の族長が低い声で問いかける。
アルトは答えられなかった。
構わないのか。構わないはずがない。だが、構うことができるのか? 帝国軍はすでに領域の境界まで進軍しているはずだ。ヴァルデスの傭兵隊も同じく。自分がここにいることで、獣人たちが新たな脅威に晒される——その責任の重さが、アルトの肩に圧し掛かる。
「ニナから話は聞いた。お前は『支配の力』を持つ契約者。奴隷商人を倒し、奴隷たちを解放した。その行為は、誰かを傷つけるものではなく、多くの者を救うものだと評価する」
族長が続ける。
「だが、それだけでは足りない。奴隷商人は倒せても、奴隷制度は残る。一人の奴隷商人を倒したところで、別の奴隷商人が現れるだけだ。ニナはそれを理解している。だからこそ、彼女はお前に『社会そのものを変えろ』と言ったのだろう」
族長の言葉が、まるで斧のようにアルトの心に突き刺さる。
そうだ。自分は何をしてきたのか?
リリアを解放した。美しい少女を救ったとき、自分は満足していた。その行為に酔いしれていた。奴隷商人ギルドを襲撃したときも、爽快感があった。支配を打ち破る自分の力に陶酔していた。
だが現実は?
奴隷商人たちは別の場所で活動を続けている。リリアが依存を深めるにつれて、自分の力がいかに危険かを自覚し始めた。シャーロット、ニナ、セリア——彼女たちと契約を結ぶたびに、複数の約束の矛盾が深刻化していく。そして最後には、全員を失った。
「見ろ」
族長が広場の中央を指す。そこには、獣人たちの奴隷が鎖につながれていた。十数人だ。彼らは帝国の奴隷よりも扱いは悪い。人間よりも獣人のほうが、同じ獣人を奴隷にすることが多いのだ。
「お前の力で彼らを解放することはできるだろう。『約束の力』で強制的に契約を成立させれば、奴隷商人は逃げられない。だが、それで終わりか?」
族長が問いかける。
「制度を変えなければ、新しい奴隷商人が現れるだけだ。奴隷制度そのものを廃止しない限り、この悪循環は止まらない。それがお前に分からないから、お前は失敗した」
その言葉に、アルトは何も言い返せない。
低い声で族長は続ける。
「ニナはすでに決めている。獣人領域の奴隷制度を廃止し、新しい統治体制を構築する。それは時間がかかるだろう。多くの既得権益を失う者も出る。だが、それが進むべき道だと判断した。お前はどうか。『個人の奴隷解放』という甘い目標から、『社会構造そのものの改革』へと進む覚悟があるか」
アルトは立ち上がった。膝は震えていた。
「あります」
その言葉が口から出たとき、何かが変わった。目の前がクリアになり、心の中にあった靄が散った。
自分は何の為に戦うのか。奴隷商人を倒すためではない。奴隷制度を廃止するためだ。一人の少女を救うためではなく、すべての奴隷を救うためだ。そのためには、現在の社会構造そのものを変える必要がある。政治的な力が必要だ。経済的な影響力が必要だ。単なる「契約の力」では足りない。
だからこそ、自分は——
「四日前、俺は個人の奴隷解放に満足していた」
アルトが言葉を紡ぐ。
「だが、今は違う。シャーロット皇女の力を借り、ウェスタリア帝国内で奴隷制度反対派を組織する。ニナと共に獣人領域の奴隷制度を廃止し、東大陸全域への運動を広げる。ヴァルデスがどんな脅迫を与えようが、帝国がどんな追撃を仕掛けようが、俺は止まらない」
アルトの拳が握られた。
「個人の奴隷解放から、社会構造の改革へ。それが俺の新しい目標だ。リリアも、セリアも、シャーロットも、そしてエミリアも——彼女たちはすでに気づいていたんだ。だから去った。自分たちの目標を達成するために」
族長の顔に、ほのかな満足感が浮かぶ。
「よかろう。ならば、獣人領域はお前の味方になる。帝国軍が侵攻すれば、我らは迎え撃つ。ヴァルデスが脅迫を続ければ、彼奴の息の根を止める。だが、忘れるな。社会を変えるには、『力』だけでは足りない。政治的な手腕、経済的な影響力、そして多くの者の協力が必要だ。お前の『約束の力』はそれを加速させるツールに過ぎない」
アルトはその言葉を受け入れた。
ニナが彼に近づいてくる。彼女の瞳には、これまでの怒りや警戒ではなく、別の感情が宿っていた。期待だ。
「お前、本当に変わったな」
「変わったんじゃなくて、やっと気づいたんだ」
アルトがニナの手を握る。契約の力ではなく、純粋な握手として。
「ありがとう。俺を見捨てず、待っていてくれて」
「馬鹿野郎。お前が見捨てられるわけないだろ。だから、次はお前が俺たちの為に動け」
ニナの言葉は短く、ぶっきらぼうだったが、その中に強い信頼を感じた。
夜明けが近づいていた。東の空がうっすらと明けはじめ、獣人領域の全景がぼんやりと見える。かつて自分が見た光景とは違う。今、これは戦場になろうとしていた。
だが同時に、新しい世界への入口でもあった。
帝国軍の進軍は確実だ。ヴァルデスの傭兵隊も動いている。だが、もう怖くない。個人の無双感ではなく、多くの者との協力という真の力が、今のアルトの背後にあるからだ。
シャーロット、リリア、セリア、イザベラ、そしてエミリア——彼女たちはすべて、この大義に賛同する者たちだ。バラバラになったように見えて、実は同じ目標に向かって動いていたのだ。
アルトの複数の約束の鎖は断裂してはいない。ただ、再編成されているだけなのだ。
「帝国の追撃が来るまで、あと数時間だ」
ニナが言う。
「その間に、獣人評議会とお前で戦略を立てろ。帝国とウェスタリア帝国の衝突を避ける道があるなら、探してみる価値がある。ヴァルデスについては、別の問題だ。奴は単なる商人ではなく、何か大きな秘密を隠している。エミリアがそう言っていた」
アルトは頷いた。
「分かった。獣人領域の奴隷制度廃止を第一段階として、東大陸全域への運動を広げる。同時に、帝国内での改革派との連携を深める。そしていつか、ヴァルデスの正体に辿り着く」
「そうだ。それが『社会構造の改革』だ」
族長が立ち上がり、アルトに歩み寄る。
「改めて言おう。契約者よ。お前は今、人類全体の未来に関わる戦いへと足を踏み入れた。個人の奴隷解放という甘い夢から、社会全体の改革という厳しい現実へと。その道は長く、困難に満ちている。だが、それが進むべき道なのだ」
族長が腕を組む。
「では、戦略会議を始めようか。帝国軍がここに到達するまで、我らは準備を整える。お前の『約束の力』と、我らの軍事力を組み合わせれば、不可能なことはない」
アルトは深く頷いた。
頭上の空が少しずつ明るくなり始めていた。新しい時代の幕開けが、もう目の前に迫っていた。失った者も多い。だが得たものはそれ以上に大きい。
個人の奴隷解放から、社会構造の改革へ——
その決意が固まった瞬間、アルトの心には新しい力が宿った。それは「約束の力」ではなく、多くの者との信頼関係がもたらす、真の無双の力だった。




