第53話 エミリアからの警告
北の山脈を抜けた先にある、廃墟と化した古い城塞。その地下室でアルトは、エミリアの前に座っていた。
懐中魔石の淡い光が、石造りの壁を照らす。壁には古い言語で何かが刻まれていたが、アルトには読み取れない。その言語さえも、かつての高度な文明の痕跡なのだろう。
「知ってはいけないことがある」
エミリアが静かに口を開いた。彼女の銀紫色の髪は、魔石の光に照らされて不自然に輝いている。その瞳には、数百年の時が詰まっているかのような深さがあった。
「システムについて、これ以上の知識を求めるな。アルト。その道を進めば、お前は確実に破滅する」
アルトは、ようやく声を発した。喉が渇いていた。逃走の連続で、水さえ飲んでいない。
「けれど、あなたは僕に教えると言った。契約者が複数存在すること、システムが古い文明によって作られたこと。そのすべてが……」
「矛盾している。わかっている」
エミリアが手を上げた。その仕草さえも、妙に疲れているように見えた。
「知るな。だが知らずには進めない。この言葉の矛盾こそが、契約者の宿命だ」
彼女は懐から古い羊皮紙を取り出した。それはアルトに渡したものと同じ地図だが、より古く、より多くの情報が記されていた。赤い点が十二個、世界中に散らばっている。
「これが、かつての契約者たちの痕跡。過去千年間で、十二人の契約者が存在してきた。その中で、私を含む六人だけが、システムの秘密に到達した」
「その六人は?」
「消えた」
エミリアの声は、一層冷たくなった。
「消えたというのは……死んだのか、それとも」
「わからない。それがお前に知ってはいけないことだ。なぜなら、その答えを求めた時点で、お前も同じ道を歩むからだ」
アルトは息を飲んだ。この言葉の意味を、脳が理解するまでに数秒かかった。
「あなたは……僕を導いているのに、同時に……」
「警告をしている。その通り。これが私の矛盾だ」
エミリアが立ち上がり、地下室の奥へ歩いていく。アルトは、彼女の後を追った。
暗闇の先には、より大きな部屋があった。そこには、古い機械のような装置があった。複雑な配管と、光をまったく反射しない黒い球体。それは、まるで『契約』そのものを物質化させたような、不可思議な形をしていた。
「これが、システムの中枢。この世界に散在する無数の小さな『契約装置』は、すべてこれに繋がっている。そして、契約者たちは無意識のうちに、この装置を通じて世界の『約束』を管理している」
「管理?」
「そう。お前が『契約成立』と感じるとき、実はこの装置が自動的に、その約束を世界のシステムに組み込んでいるのだ。つまり、お前は自分が『選んでいる』と思っているが、実は、このシステムが『選ばせている』のかもしれない」
その瞬間、アルトの脳が痛んだ。違う。違う。自分は自分の意思で契約を結んでいる。リリアを救ったのも、ニナを解放したのも、すべて自分の判断だ。
だが、もし——
もし、その判断さえも、このシステムによって操られていたのなら?
自分は何なのか。自分は誰なのか。
「お前は、今、その問いに直面している」
エミリアが振り返り、アルトを見つめた。その目には、同情と、それ以上の何か。圧倒的な孤独が映っていた。
「その問いに答えを求めるな。なぜなら、その答えはお前を破滅させるからだ。だが、その問いから目を背けるな。なぜなら、それはお前の存在理由を放棄することだから」
「それは……矛盾している」
「そう。すべてが矛盾している。契約者システムそのものが、人類の自由と支配の矛盾を内包する装置なのだ」
地下室の上部から、不意に音がした。銃弾のような、金属音のような。何かが外で起こっている。
エミリアの表情が、一瞬硬くなった。
「追手だ。帝国軍とヴァルデスの傭兵隊の両方が、この山脈に入ってきている。奇妙だ。本来なら、彼らが同時に動くはずがない」
「どういうことですか?」
「誰かが、彼らの動きを調整している。契約者ではなく、より上位の存在が」
エミリアが装置に手を触れた。すると、装置から淡い光が放たれ、地下室全体を照らし始めた。その光の中で、アルトは気づいた。
壁に刻まれた古い言語が、徐々に浮かび上がってきたのだ。
その文字は、セリアが古い遺跡で見つけた「契約システムの理論図」と同じ言語だった。
「セリアは、この情報を帝国皇帝に渡したのか」
「ああ。彼女は契約者ではないが、知識は危険だ。知識を持つ者は、必然的にシステムに組み込まれていく」
外の音が、より大きくなった。銃声、叫び声。戦闘が地下室にも近づいてきている。
「私たちは、ここを離れなければならない」
エミリアが言った。
「だが、その前に、お前に一つだけ言っておく。リリア、ニナ、シャーロット。彼女たちとの約束の鎖が断裂しかけている。これは危険だ。複数の契約が同時に破綻するとき、その反動は、お前自身をシステムから切り離してしまう可能性がある」
「切り離す?」
「つまり、お前は『契約者』としての力を失うということだ。凡人に戻る。いや、それ以上の損傷を受けるかもしれない」
アルトは、その言葉の意味を必死に理解しようとした。
「では、どうすれば?」
「その答えは、お前が自分で見つけなければならない。なぜなら、その答えこそが、システムを改革するための最初の鍵だからだ」
エミリアが古い地図を、再びアルトに渡した。
「この地図の十二個の点の中に、かつての契約者たちが遺した『希望の痕跡』がある。それを見つけられるかどうかが、お前の試練だ」
戦闘音が、すぐそこまで迫ってきた。
エミリアが立ち上がり、装置の前で何か複雑な動作を行った。すると、地下室の奥に、新しい通路が開いた。
「この先は、北の雪山を越えて、獣人の領域に通じている。ニナは今、その領域で何かを始めているはずだ。彼女の下へ行け」
「あなたは?」
「私は、ここで追手を足止めする。お前が逃げるための時間を稼ぐ」
「一人で帝国軍とヴァルデスの両方に?」
「私は数百年生きている。その程度の相手なら」
エミリアが笑った。だが、その笑顔には、絶望が隠れていた。
「行け。そして、覚えておけ。知ってはいけないが、知らずには進めない。その矛盾の中で、お前は本当の『約束』を見つけるのだ」
アルトは、その言葉の重みを感じながら、新しい通路へ走った。
身後で、エミリアの魔力が爆発するような音がした。
彼女は、本当に一人で戦おうとしているのだ。
そして、アルトは、その選択の意味がわかっていなかった。




