第52話 エミリアの正体ほのめかし
北の山脈への逃亡路は、帝国の追跡から逃れるための最短ルートだった。
馬を失い、徒歩で渓谷を進むアルトの背後には、もう追手の声も聞こえない。ただし、それは一時的な猶予に過ぎないことを、アルトは本能的に理解していた。
「ここまで来れば、しばらくは追われることはない」
エミリアは岩場に腰を下ろし、深く息をついた。彼女の黒い鎧には塵が積もっていたが、呼吸は乱れていない。むしろ、この程度の逃走を何度も繰り返してきたかのような落ち着きがあった。
アルトは彼女の横に座った。体力は消耗していたが、問いかけずにはいられなかった。
「エミリアさん。あなたは本当は何なんですか?」
彼女は水筒から水を飲み、遠くの山並みを眺めていた。その瞳には、深い疲労と、何か別の感情が混在していた。
「私は……まあ、君と同じく『契約者』だ。それ以上のことを知る必要はない」
その答え方は、明らかに何かを隠していた。
「でも、あなたは──」
「君は昨日の戦いで気づいたはずだ。君の『約束の鎖』は四本だったが、それぞれが相互に干渉し、矛盾を生じさせた」
エミリアは話題を強引に変えた。その強制的な転換自体が、彼女の素性についての追及を避けるシグナルだった。
「はい。だから、皆が去ったんです」
アルトの声は小さかった。
「そうだな。君の力は『約束を強制実行する力』。だが、同時に『複数の約束を抱えると、相互の矛盾が増大する力』でもある」
エミリアは立ち上がり、渓谷を見下ろした。
「この矛盾が、なぜ生じるのかを知っているか?」
「いいえ」
「それは、このシステムが本来『複数の契約者による並行統治』を想定していなかったからだ」
エミリアの声は、淡々としていた。だが、その一言は、アルトの世界観を揺るがしていた。
「複数の契約者?」
「そうだ。過去三百年の間に、君を含めて七人の契約者が現れた」
彼女の指で数えるような仕草をした。
「最初の契約者は、今から三百五十年前。その者は『奴隷制度の廃止』を目指したが、失敗した。次の契約者は二百年前。その者は『獣人の解放』を試みたが、世界の抵抗に屈した。三人目は百五十年前。四人目は百年前。五人目は七十年前──」
「全員、失敗したんですか?」
「失敗した。あるいは、沈黙を選んだ」
エミリアの表情は、深い哀しみを帯びていた。
「なぜですか?」
アルトは立ち上がった。
「なぜなら、彼らは皆、君と同じ道を歩んだからだ。複数の人間と契約を結び、複数の約束を抱え、その矛盾に潰された」
エミリアは渓谷の岩場に手をつき、身を乗り出した。
「しかし、それ以前の時代には、もっと多くの契約者がいた。十二人。彼らは共存していた」
「共存?」
「そうだ。彼らは互いに矛盾しない約束を結ぶことで、世界全体に調和をもたらしていた」
アルトはその言葉の意味を考えた。
「では、なぜ十二人から現在では一人ずつになったんですか?」
エミリアは再び岩場に座った。その動作は、重い疲労を示していた。
「それはな……」
彼女は言葉を切った。遠くの空で、鳥が鳴いていた。その音だけが、二人の沈黙を満たしていた。
「君は知りたいのだろう。なぜ私たちは『約束の鎖』に苦しむのか。なぜ複数の契約は必ず矛盾を生じさせるのか」
「はい」
「その答えは……」
エミリアは眼を閉じた。
「その答えは、このシステムが『人類全体を管理するための装置』だからだ」
アルトは息を呑んだ。
「管理?」
「そうだ。昔、非常に昔。千年以上前。いや、それ以上かもしれない。人類はより高い段階の文明を持っていた。その文明の中で、彼らは『自由意志のままでは、人類は必ず滅亡する』という結論に達した」
エミリアの声は、どこか遠い過去を見つめているようだった。
「それで何をしたんですか?」
「『約束の強制実行』という魔力システムを作った。複数の契約者によって、人類の歴史を『最善の方向へ導く』ために」
「それは──」
「支配だ」
エミリアは眼を開けた。その瞳は、深い後悔と決意を帯びていた。
「たとえ善意であっても。たとえ人類全体の利益のためであっても。他者の自由意志を奪う力は、支配であることに変わりはない」
アルトは立ったまま、その言葉を受け止めていた。
「では、あなたは何百年も、その支配の一部だったんですか?」
「そうだ」
エミリアは頭を垂れた。
「そして、今、君もそうなろうとしている」
「エミリアさん、あなたはいつから──」
「君は、聞くべき質問を変えるべきだ」
彼女は立ち上がり、アルトを真っすぐ見た。
「いつから、ではなく、どうするか。君はこれからどうするのか」
その問いかけの中に、彼女の素性についてのすべての答えが隠されていた。エミリアが何百年も生きていることは、その瞳の深さだけで充分に明らかだった。
「僕は……」
アルトは言葉を探した。
「僕はリリアたちを助けたい。ニナの独立を支援したい。シャーロットを帝国から救いたい」
「それらは互いに矛盾する」
「わかってます。でも──」
「その『でも』が、君を潰す」
エミリアは再び遠い山々を眺めた。
「君は三日以内に、決断を迫られる。『沈黙を選ぶ』か『すべてを変える』か。その二択だ」
「すべてを変えるとは?」
「システムそのものを改革することだ。『約束の強制実行』ではなく『相互合意による約束』へ。『支配』ではなく『協力』へ」
エミリアは渓谷の彼方を指差した。
「帝国の追手は、三日で到達する。ヴァルデスの傭兵隊は、二日で到達する。そしてもう一つ。君が知らない勢力が、君を狙っている」
「何者ですか?」
「それは……」
エミリアは口を閉ざした。
「今は、知らない方がいい。君が知れば、それだけで約束の鎖の負荷が増す。複数の脅威を認識すれば、複数の約束を結びたくなるから」
北の空から、遠く雲が流れていた。その雲の向こう側に、別の世界が広がっているかのような、深い表情がエミリアの顔に浮かんでいた。
「ここから先は、君一人の戦いではなくなる」
彼女は肩にかけた袋から、古い羊皮紙を取り出した。
「これは何百年前の地図だ。この中に、かつての『十二人の契約者』が遺した痕跡がある。君が本当に『システムの改革』を選ぶなら、これが必要になる」
アルトは羊皮紙を受け取った。その紙の触感は、驚くほど新しかった。いや、むしろ『保存状態が完璧』であることが、時間の経過を示唆していた。
「エミリアさん。あなたはいったい──」
「君は何度もそれを聞くだろう。だが、答えは常に同じだ。『知る必要はない』」
エミリアは歩き始めた。
「ただし、一つだけ。君が『沈黙を選ぶ』なら、私は君を手伝わない。だが、君が『すべてを変える』ことを選ぶなら、私は君の側にいる」
「それはなぜですか?」
「なぜなら、私は既に何百年も沈黙してきたからだ」
その一言が、全てを物語っていた。
エミリアという存在が、単なる謎の人物ではなく、何百年もの時を生きた、深い後悔と決意に満ちた存在であることが、アルトに理解された。
「北の山脈の奥に、古い城塞がある。かつて契約者たちの集会所だった場所だ。そこに向かおう」
エミリアは渓谷を登り始めた。
「そこで君は、真の選択を迫られる。その時、初めて君は『何が本当の自由か』を知ることになるだろう」
背後からアルトがついていく。羊皮紙を握りしめて。
遠く、帝国からの追手の声が、かすかに聞こえ始めていた。




