第51話 エミリアの登場
森の廃墟で、アルトは一人取り残されていた。
周囲には焼け焦げた木々と、崩れ落ちた石造りの壁が散在していた。かつての何かの城塞か、修道院か。今となってはどちらでもいい。そんなことよりも、胸を貫く絶望感の方が、現実を強く押し付けていた。
リリアの目を背けた姿。
ニナの怒りに満ちた言葉。
シャーロットの冷静な判断。
グレッグの深い傷。
全員が去った。全員がアルトを見捨てた。
いや、違う。自分が彼らを傷つけた。自分の無能さが、判断の甘さが、複数の約束を同時に抱えられない弱さが、全てを壊したのだ。
アルトは膝をつき、両手を地面に押しつけた。砂利が掌に食い込む感触すら、今は苦痛に思えた。
「契約なき状態では凡人同然」――グレッグはそう言った。実感だ。剣すら握れない自分が何ができるというのか。約束の力も、複数の相手との結びつきも、全て失った。残されたのは、自分の無能さだけだ。
風が吹いた。秋の冷たい風だ。いや、今はいつだっけ。時間の感覚も曖昧になっていた。三日前か。一週間前か。もっと昔か。
「随分と落ち込んでいるようだな」
声がした。
アルトは上を見上げた。廃墟の瓦礫の上に、一人の女性が立っていた。
年齢は三十代だろうか。いや、もっと若く見えるかもしれない。銀色に近い紫のロングヘアが風になびいていた。簡潔な黒い鎧姿で、両手には短剣を握っていた。彼女の瞳は深紫色で、アルトを見つめていた。その瞳には、深い歴史と知識が積み重ねられているように思えた。
「誰だ」
アルトは立ち上がり、後ずさった。相手の身元も、力量も不明だ。ただ、この女性からは、異常な威圧感が放たれていた。
「エミリア・ノーヴァス」
女性は静かに名乗った。そして、瓦礫を飛び降り、アルトの前に着地した。その動きは優雅で、着地音すら殆どしなかった。
「お前は……」
アルトが言いかけると、エミリアが手を上げた。
「言わずと知れず、だ。お前は『契約者』だ。そして、そういう『能力者』がいると知ったのは、つい数日前のこと。だから、来た」
「契約者?」
アルトは首をかしげた。エミリアの言葉は、確かに意味をなしているが、その『契約者』という言葉の重みが理解できなかった。
「そうだ。お前みたいな『約束の力』を持つ者を、我々の世界では『契約者』と呼ぶ。いや、正確には『契約者』としか呼べないんだ。なぜなら、この力は他の誰にも説明できないからな」
エミリアは短剣をしまい、アルトに近づいた。距離は三メートル程度。十分な間合いだ。
「お前以外に、『契約者』がいるのか」
アルトの声は震えていた。今まで、自分だけがこの力を持つと思っていた。だから、自分だけが特別で、自分だけが責任を負わなければならないと思っていた。しかし、もし他にも『契約者』がいるなら――
「そうだ。過去三百年間に、少なくとも五人の『契約者』が存在した記録がある。そしてお前で六人目だ」
「三百年?」
アルトは眉をひそめた。
「いや、もっと古い記録もある。千年単位の歴史の中で、何度も『契約者』が現れては消えていった。だが、詳しい記録は失われている。今残されているのは、断片的な伝説と、数百年分の確かな記録だけだ」
エミリアは廃墟の瓦礫に腰を掛けた。その動きは、まるで自分の領地にいるかのように自然だった。
「なぜ、そんなことを知ってるんだ」
「簡単だ。お前と同じく、『契約者』だからだ」
アルトは息を呑んだ。
「お前は、『契約者』の一員だ。いや、正確には『能力者』だ。この力は、何かの意思によって選ばれた者にだけ与えられる。なぜなら、この力は世界を変える力だからだ」
エミリアは立ち上がり、廃墟の空を見上げた。
「三日前、セリアという女が来た。彼女はお前の『契約』の本質を見抜いた。そして、古い遺跡から『システムの理論図』を発見した。その情報は、今、帝国本都へ届いている」
「セリアが?」
「そうだ。彼女は『契約者』ではないが、『システム』の秘密に接触できる数少ない人物の一人だ。そして、彼女の情報は、帝国皇帝の耳に届いた」
エミリアは再びアルトに向き直った。その瞳は、さらに深く見えた。
「聞け。『契約者』として、お前に必要な知識がある。お前は今、複数の『約束の鎖』を失いかけている。だが、それは正しい判断だ」
「え?」
「複数契約は、必ず矛盾を生じさせる。なぜなら、人間の感情は複数の対象に対して、常に一貫性を保つことができないからだ。お前の力は『約束』を強制実行する力だが、その強制実行も、人間の本心からの同意があってこそ成立する。そして、複数の相手に同時に同意させることは――」
エミリアは短い沈黙を置いた。
「――不可能に近い」
アルトは、その言葉の重みに押しつぶされるように感じた。
「だから、前の『契約者』たちは、どうしたんだ。複数の人間と関わりながら、どうやってそれを乗り越えたんだ」
「多くは、『沈黙』を選んだ」
「沈黙?」
「そうだ。『契約』を使うことを止めた。力を封じた。歴史の舞台から消えた。なぜなら、その力を使い続けることが、人類全体に危機をもたらすことに気づいたからだ」
エミリアの声は静かだったが、その中には、深い経験と知恵が込められていた。
「お前は今、試練の中にいる。周囲の者が皆、お前から去ったのは、偶然ではない。『システム』が、お前をこうするように仕向けたのかもしれない。いや、正確には――」
エミリアは沈黙し、アルトをまっすぐ見つめた。
「――お前の『契約』が、自然とそういう結果をもたらしたのだ。複数の相手と結んだ約束が、相互に干渉し始めたからだ」
「どうすればいい」
アルトは、絶望的な声で問いかけた。
「二つの道がある。一つは、『沈黙』を選ぶこと。力を封じ、普通の人間として生きること。二つ目は――」
エミリアは再び短い沈黙を置いた。
「――『システム』そのものを理解し、改革することだ」
「改革?」
「そうだ。このシステムは、古い時代に何者かが作った装置だ。その装置は、『人類救済』という名目で、『契約者』たちを世界に送り込んできた。だが、その装置自体が、根本的な矛盾を孕んでいる。その矛盾を解決できるのは、『契約者』だけだ」
エミリアは、再び瓦礫に腰を掛けた。
「お前の場合、その可能性がある。なぜなら、お前は『複数契約の限界』に直面している。それは、多くの『契約者』が経験しなかった段階だからだ。過去の『契約者』たちは、その限界に直面する前に『沈黙』を選んだ。だが、お前は違うかもしれない」
「なぜ、そんなことが言える」
「なぜなら、お前は『複数の相手の信頼を失う』という経験をしているからだ。その経験は、『システムの矛盾』を理解するための最初の一歩だ」
エミリアは再び立ち上がり、廃墟の空を見上げた。
「帝国皇帝は、今、セリアの情報を手に『システム支配』を企図している。他方、ヴァルデスという商人は、お前の『契約の力』を脅威と見なし、消そうとしている。その二つの勢力の間で、お前は立たなければならない」
「一人で、か」
「そうだ。だから、来た。お前に、『契約者』としての知識を与えるために。そして、お前がどの道を選ぶのかを、見届けるために」
エミリアはアルトに近づき、その肩に手を置いた。その手は、温かかった。
「お前は、今から何をする」
アルトは、その問いに答えられなかった。周囲は全て失った。力も、信頼も、仲間も。残されたのは、この女性から与えられた知識だけだ。
「まずは生き残ることだ」
エミリアが答えた。
「ヴァルデスの追跡から逃げ、帝国の指名手配から身を隠し、セリアの動向を察知する。そして、自分が何者なのかを理解することだ。お前は『契約者』として生まれた。その責任の重さを、今から知ることになる」
エミリアは手を引き、再び短剣を抜いた。
「行くぞ。北の山脈に隠れ場所がある。そこで、お前に『システム』の詳しい知識を教える。だが、その前に――」
エミリアは廃墟の向こうを指差した。
「――追手が来ている」
その瞬間、廃墟の北側から、馬の蹄音が聞こえてきた。複数の馬だ。ヴァルデスの騎士団か、帝国の追手か。どちらにしろ、ここは危険な場所だった。
「走れ」
エミリアが言った。その声には、深い経験と、確かな力が込められていた。
アルトは、その後を追い始めた。後ろから迫る蹄音の中で、初めて自分が『契約者』という異質な存在であることを、深く理解した。




