第49話 ヴァルデス軍との初めての対戦
ヴァルデスの騎士団が宿を包囲したのは、夜明け前の薄暗い時間帯だった。
「うっ…!」
アルトは目を覚ますと同時に、全身に走る違和感に気付いた。いつもなら感じられる四本の「約束の鎖」――リリア、ニナ、シャーロット、セリアとの繋がりが、はっきりと意識できない。ぼやけた状態で、まるで霧の中を探るようだった。
複数契約の限界症状か。セリアが警告していた通りだ。
窓から外を覗くと、松火を持った騎士たちが宿の周囲に集結している。その数は優に三十以上。中央に馬に乗った男――確かに、昨日現れたヴァルデスだ。紫色の外套をはためかせ、刃物のような視線でこちらを見つめている。
「アルト・ソルヴェン」
ヴァルデスの声が、まるで魔法のように宿全体に響き渡った。魔力操作による拡声だろう。
「契約を切るという約束をしたはずだが、どうやら寝ぼけているらしい。朝日の出る前に、我が軍の力を思い知らせてやる」
アルトは立ち上がり、急いで階下へ下りた。廊下では既にリリアとニナが準備を整えていた。
「アルト!外に騎士団が…!」
リリアの声は不安に満ちていた。
「わかっている。ニナ、シャーロットは?」
「まだ宿の別館に。すぐに呼ぶ」
ニナが言いかけたとき、宿の扉が力ずくで破られた。木片が散って、三人の重装甲騎士が踏み込んでくる。
「契約者アルト。ヴァルデス様のお言葉だ。武装を解くか、さもなくば――」
「逃げろ」
アルトは短く言った。
「え…?」
「今すぐ、裏口から。ニナ、リリア、行け」
ニナが一瞬躊躇ったが、アルトの真剣な表情を見ると、頷いた。リリアの手を引いて走り去る。
アルトは騎士たちの前に立った。
両手は上げず、下ろさず。戦闘態勢にも見えない、ただ立っているだけの状態だ。
なぜなら、アルトは何もできないからだ。
「よくもヴァルデス様に逆らったな。この身体で思い知らせてやる」
騎士の一人が剣を抜いた。刃は陽光を反射して輝く。これは本気だ。
アルトは後ずさった。
逃げるしかない。それが、今のアルトにできる唯一の選択肢だった。
階段を上り、廊下を走る。背後から騎士たちの足音が響く。階段を降りようとすると、別動隊がそちらを塞いでいた。窓へ駆け寄り、躊躇なく飛び降りる。
高さは二階分。地面に着地したとき、脚から電撃のような痛みが走った。捻挫している。だが走り続けるしかない。
「そこだ!」
馬に乗った騎士が現れた。槍を構えている。アルトは右に身体をかわしたが、槍の先端が服の脇を裂いた。
この世界に転生してから、アルトは自分の身体が「凡人同然」だと知っていた。契約なしでは、剣の腕も魔力もない。だが、実際に経験するのと、知識として理解するのは別だ。
身体が鈍い。反応速度が遅い。力もない。
逃げるだけなら何とかなるが、相手が組織的に包囲戦を仕掛けてくれば、あっという間に詰む。
「グレッグ!」
アルトは冒険者ギルドの方向へ走った。グレッグなら、この状況について何か知っているはずだ。少なくとも、逃げ場を提供してくれるだろう。
だが、ギルドに到着する前に、ヴァルデス軍の別動隊に包囲された。
前後左右――全て塞がっている。逃げ場がない。
アルトはようやく立ち止まり、両手を上げた。
「降参だ」
「利口な判断だな」
馬上のヴァルデスが、ゆっくりと近づいてきた。その表情は冷淡で、微塵の感情も感じられない。
「貴様の『約束の力』は、確かに脅威だ。だからこそ、この世界には必要ない。システムの力を独占する者たちは、既得権者だ。それを打破する道は、貴様を消すことだけだ」
「なぜ?」
アルトは聞いた。
「なぜそこまで?俺はお前の商売を邪魔していない。奴隷制度には反対だが、それとお前の利益は関係ないはずだ」
ヴァルデスは馬から降りた。そして、アルトの顔を間近で見つめた。
「貴様は何も理解していない。『約束の力』とは、つまり世界を支配する力だ。それを持つ者がいる限り、我々のような者は決して自由になれない。だから、貴様は消える必要がある。それだけだ」
アルトは理解した。ヴァルデスがアルトを殺したいのではなく、「システムそのもの」を嫌っているのだ。契約という概念、約束に縛られる世界を拒否している。
ただし、その反発は正当だ。アルトは自分の力の危険性を、最近ようやく認識し始めたばかりだ。
「わかった。何でも言うことを聞く。だから、リリアたちには手を出すな」
「貴様には交渉する立場がない」
ヴァルデスは手を上げた。騎士たちが槍を構える。
その瞬間、金色の光が割り込んできた。
「待て」
シャーロットだ。彼女は馬に乗り、王族としての気迫を纏わせて現れた。後ろにはニナも続いている。
「東大陸の王女殿下。これは帝国外の問題だ。介入はされないほうがよろしい」
ヴァルデスの声が低くなった。
「おそらくそうだろう。だが、私は帝国の利益よりも、自分の信念を優先する」
シャーロットは剣を抜いた。
「アルトは私の同志だ。これ以上の危害を加えるなら、東大陸とウェスタリア帝国の衝突になる。それでもよいか?」
ヴァルデスは一瞬、沈黙した。
だが、すぐに笑った。
「なるほど。これが『約束の力』の本質か。支配する者と支配される者を作り出す。貴様たちもまた、この世界の毒だ」
彼は騎士たちに指示を出した。
「撤退する。ただし、三日以内に貴様たちがこの地を離れなければ、帝国との衝突を覚悟のうえで、再度襲撃する」
騎士団は、静かに消えた。
アルトは膝から崩れ落ちた。
「大丈夫か」
ニナが駆け寄ってくる。
「ああ…」
アルトは呆然として答えた。
自分は、完全に無力だった。契約がなければ、何もできない。何も守れない。
リリアたちの笑顔を守るためには、自分の力が必要だ。だが、その力は同時に、彼女たちを支配する力でもある。
その矛盾から逃げられない。
「アルト…」
シャーロットの声が聞こえた。だが、アルトの意識は既に、別のところにあった。
セリアはどうしているのか。帝国の本都で、何を見つけたのか。
そして、グレッグは――
その瞬間、宿の方から黒い煙が上がった。
火だ。ヴァルデスの騎士たちが、退却する際に火を放ったのか、それとも別の誰かが…?
アルトは立ち上がり、その方向を見つめた。
視線の先には、炎に包まれた宿がある。
そして、その中から一人の身影が走り出てきた。
グレッグだ。彼は無傷ではなかった。左腕が動いておらず、顔には火傷の跡がある。
「グレッグ!」
アルトは駆け寄った。
「何があった?」
「別働隊だ。お前たちの注意を引いている間に、背後から襲撃してきた。俺たちは逃げた。だが…」
グレッグは呼吸を整えながら言った。
「セリアの荷物がある。彼女がここに来た時の荷物だ」
アルトは凍りついた。
セリアの荷物。それは、彼女の研究データか?
「セリアはどこに?」
「わからん。火が出た時には、既に姿が見えなかった」
その時、北の空から、不自然な光が輝いた。
それは明らかに、魔力の爆発を示していた。
強大な魔力が、激突している。
セリアだ。セリアが何かと戦っている。
アルトはその方向を見つめたまま、身体が震えた。
約束の力がない状態で、自分は何もできない。何も助けられない。
そして、その事実が――アルトを、絶望へと落としていくのだった。




