第48話 ヴァルデスの登場
朝日が昇る前、俺はテント外の冷たい空気の中で、一人立っていた。
心身ともに疲弊した状態だった。セリアに去られ、ニナの失望した表情、シャーロットの心配そうな顔、そしてリリアの泣きそうな目。複数の契約から発生する「約束の鎖」は、今も俺の精神を引き裂き続けている。
セリアが言ったのは正しかった。複数の契約を同時保有することは、必ず相互矛盾を生み出す。そして、その矛盾の代償は、俺ではなく彼女たちが払わされる。
「アルト」
背後から声がした。ニナだ。
「起きてたのか」
「眠れねえよ。お前のせいでな」
冷たい口調だった。前とは違う。もはやニナの中に、俺への信頼は残っていない。だけど、彼女は俺の元に来た。それは何かの意思表示なのだろう。
「セリアが去った時点で、もう遅い」ニナは月明かりの中、その翡翠色の瞳をじっと俺を見つめた。「約束の力なんてものは、所詮は幻だ。自分たちの足で立たせろ」
「わかってる」
「わかってねえから、こんなことになってんだ」
言い返す言葉はなかった。ニナは正しい。俺は何もわかっていない。
ニナが去った後、グレッグが現れた。老冒険者は、昨夜から幕営地を見守っていたらしい。
「緊張してるか、坊主」
「どういう意味ですか」
「南東の林から、三人の馬乗りが接近してる。帝国の兵じゃなさそうだ。旗を見たが、見たことない紋章だ」
俺は立ち上がった。複数の紋章が頭をよぎった。東大陸の勢力。商人ギルド。そして――。
「まさか」
「さあな。だが、坊主。ここいらの情報筋では、最近奇妙な噂が流れてんだ。『奴隷解放を名目に勢力を広げる青年がいる』ってな。その情報が、すごく早く、全大陸に広がってるんだ」
グレッグの瞳は、星々を映して光っていた。
「つまりだ。坊主は既に、誰かの目に映った。そして、その誰かは坊主を『自分たちの領分を侵す者』と判断した可能性がある」
三人の馬乗りが姿を現したのは、日の出直後だった。
リリア、シャーロット、ニナ、そして疲れ果てたセリアの面影を探そうとしていた俺の視界に、突然に馬の蹄音が響き渡る。
幕営地の外縁に現れた三人の騎手は、明らかに平民ではなかった。身につけた装甲の質感、馬の体格、そして何より――彼らの背に流れるこれ以上ない優雅さ。貴族にして、戦士。それ以上の何か。
リーダーと思われる男が、馬から降りた。
三十代半ば。黒い髪に鋭い顔立ち。その瞳には、掴みどころのない知性と、深い野心の色が宿っていた。
「アルト・ソルヴェン。噂通りのようだな」
男は、一人で立つ俺を見て、冷たく笑った。
「名乗りましょうか。私はヴァルデス。北西領域商人同盟の統率者だ」
商人同盟。その言葉で、俺の背筋が冷たくなった。
「聞いたことがあります。奴隷商人ギルドよりも大きな――」
「そのようだ。坊主は既に、多くの人間を自分の『契約』という奇妙な力で従えたと聞く。だが、それは大きな誤りを生み出している」
ヴァルデスが一歩、俺に近づく。その動きは、戦士のそれだった。
「我々の領域で勝手に奴隷を解放するな。我々の商業ネットワークで、独断的に活動するな。そして何より――」
彼の瞳が、氷のように冷たくなった。
「我々の民を、勝手に『契約者』として支配するな」
周囲の空気が凍りついた。
「支配しているわけではありません。彼らは自分たちの意思で――」
「意思?」ヴァルデスは、嗤った。「坊主の『約束の力』という支配装置に、どうして自由意志などが残ると思う?」
その言い方は、セリアの指摘と同じだった。だが、セリアの言葉は「疑問」として投げかけられたのに対し、ヴァルデスのそれは「断定」であり、「脅迫」だった。
「話は簡単だ。坊主は、我々の領域から撤退する。既に契約した者たちとの鎖を切る。さもなくば――」
ヴァルデスの手が、腰の剣へと伸びた。
「この北西領域に入ることは二度とできない状況を作ってあげよう」
リリアが、テントから飛び出してきた。
「待ってください!アルトさんは、何も悪いことを――」
「黙れ」ヴァルデスの部下の一人が、リリアを睨んだ。その目には、奴隷商人と同じ「見下し」の色があった。
シャーロットが、剣に手を掛けた。
「王女の癖に」ヴァルデスは、シャーロットを一瞥しただけで、再び俺を見た。「東大陸の王族など、ここでは何の力も持たない。我々は、四つの大きな商人同盟を統合した勢力だ。帝国の皇帝でさえ、経済的には我々に支援を仰いでいる」
嘘ではないのだろう。ヴァルデスの言葉には、根拠がある。
実際、俺は知らなかった。奴隷商人ギルドというのは、もっと大きな組織の一つに過ぎなかったのだ。
「期限は三日。その間に、坊主と契約した全員の鎖を切れ。さもなくば――」
ヴァルデスは、馬に乗った。
「坊主は、この北西領域で『消す』」
二人の部下も、馬を転じた。
蹄音が遠ざかっていく中、俺は立ち尽くしていた。
複数契約による精神的疲弊。セリアの離別。そして今、新しい敵の出現。
グレッグが、俺の肩に手を置いた。
「坊主。今のお前にできることは、一つだけだ」
「何ですか」
「周りの奴らを信じることだ。自分の力に頼ることじゃなく、周りの人間を信じることだ。それができなきゃ、お前は本当に『支配者』になっちまう」
夕焼けの中、俺はテントに戻った。
リリア、ニナ、シャーロット。三人の顔が、不安と怒りで歪んでいた。
「アルト、あの男は何者なんですか」
シャーロットが、震えた声で問いかけてきた。
「わかりません。でも、俺たちが思っていたより、ずっと大きな敵がいるんだと思います」
ニナが、拳を握りしめた。
「それでもお前は、俺たちを守るとか言うんだろう。その『約束の力』で」
「違います」
俺は、その言葉を選ぶのに、全力を必要とした。
「俺は、もう約束の力には頼りません。三日間、俺たちが何をするかは、みんなで決めます。そして、それは自分たちの足で進む選択です」
リリアの涙が、ほおを伝った。
ニナは、何も言わず、暗くなる空を見上げた。
シャーロットは、静かに俺の手を握った。
その夜、宿営地の深く、セリアが去った方角から、不自然な光が見えた。
帝国からの追跡。そして、ヴァルデスの影。
俺たちを取り囲む者たちが、多すぎる。
そしてその時、俺はまだ知らなかった――ヴァルデスの正体、そして彼がアルトを標的にした本当の理由が、やがて物語の中核を揺るがす秘密へと繋がっていることを。




