第47話 判断ミスの代償
朝日が宿の窓から差し込む時、俺はようやく眠りから覚めた。だが、その目覚めは最悪だった。
頭痛がしていた。複数の『約束の鎖』が脳髄を焼くような感覚。リリア、ニナ、シャーロット、セリアの四本の鎖が、互いに絡み合い、引っ張り合っている。昨日の激論が終わった後も、俺の精神は四方八方へ引き裂かれ続けていたのだ。
ベッドから起き上がるのに三分かかった。
玄関へ向かう廊下で、セリアの悲鳴のような声が聞こえた。
俺は走った。
宿の地下研究室――セリアが三日前から借りた部屋に到着したとき、彼女は床に膝をついていた。銀髪が乱れ、目は真っ赤に腫れていた。彼女の前には、燃え尽きた木箱。その中には、灰と炭になった何かがあった。
「セリア、これは……」
「あなたの指示です」
彼女の声は低かった。凍てついていた。
「昨夜、あなたがアルテミスへの急速移動を決めたとき、私に『研究データはすべてそこで纏め直す』と指示しました。覚えていますか?」
思い出そうとした。昨夜、俺は何を言ったのか。複数の『約束の鎖』に揺さぶられながら、どの決定を下したのか。
「その指示に従って、私は貴重なシステム解析データを一度この箱に集めました。そして、あなたが『急いで宿を出る。不要な荷物は焼け』と追加指示を出しました」
セリアの肩が震えていた。
「その言葉を額面通り受け取った宿の従業員が、これを燃やしました。私の三ヶ月分の研究データ。千年前の遺跡から拓印した古い魔力体系の図面。全部です」
俺の胸が凍った。
「セリア、俺は――」
「あなたが誰に何を約束したのか、私には分かりません。でも、その矛盾した指示が、私の人生の一部を消し去りました」
彼女は立ち上がると、俺を見つめた。その瞳に映っているのは、怒りではなく、深い失望だった。
「あなたは私たちを救うと言いました。でも、あなたの約束は、私たちを傷つけるツールになっています」
セリアは俺を押しのけて部屋を出ていった。背中が震えていた。
昼、ニナから報告が届いた。
獣人評議会の一部が、昨夜の俺の決定に反発しているという。具体的には、帝国への戦術提案の内容が、評議会に無断で決定されたこと。そして、その決定が東大陸の使者団への対応を複雑にしてしまったこと。
グレイシャの表情は、昨日の信頼から一変していた。
「アルト、我々は『対等な選択』を求めました。しかし、あなたはまた一人で決めました」
「でも、あの戦術なら――」
「それは、あなたの判断です。我々の判断ではない」
ニナも部屋の奥に立っていた。彼女の目も、昨日の温かさが消えていた。
「あんたは昨日、『支配するな。決めるな』って言われたはずだ。なのに、また同じことをやってる」
俺は言い返せなかった。
昨夜、俺は本当に何を考えていたのか。複数の『約束の鎖』の重圧の中で、判断の一貫性を失っていたのか。
「アルト」
ニナが一歩近づいた。
「あんたが四人のヒロインと同時に約束を結んでることが、もう限界に達してるんじゃないか?」
俺は答えられなかった。
昼下がり、シャーロットが帰ってきた。彼女の表情も、どこか険しかった。
「帝国からの使者団が、あなたの身柄の引き渡しを要求してきました。昨夜、あなたが指示した『採掘場の情報を地方領主に流す』という作戦が、帝国中枢に知られてしまいました」
「どうして――」
「情報網に穴があったのか、あるいは、あなたの指示が誰かに傍受されたのか。いずれにせよ、その戦術は失敗しました。そして、今や帝国はあなたを『帝国の安定を脅かす危険人物』として指名手配しています」
シャーロットは椅子に座ると、静かに続けた。
「私は帝国の王女として、あなたをかばうことができません。政治的に不利になります」
「つまり――」
「つまり、あなたは今、帝国、東大陸、そして一部の獣人評議会からも信頼を失いかけています。すべて、昨夜のあなたの矛盾した指示が原因です」
リリアは、いつもの献身的な表情を失い、窓の外を見つめていた。
夜、俺は屋上に出た。
複数の『約束の鎖』が、頭の中で絶えず鳴り響いている。リリアへの約束。ニナへの約束。シャーロットへの約束。セリアへの約束。
それぞれが相手の期待と異なる行動を俺に強いていた。そして、俺はその矛盾の中で、判断を誤った。
セリアの失われたデータ。ニナの政治的な不利。シャーロットの帝国内での立場の危機。
すべて、俺の責任だ。
俺は誰かを救うためにこの力を持っているはずだった。なのに、俺はこの力で相手を傷つけている。
「アルト」
背後から声がした。グレッグだった。老冒険者は、静かに俺の隣に立った。
「複数の契約を同時に保有する者は、多くが破綻する」
「グレッグ――」
「歴史には記録されていませんが、過去にも『契約者』と呼ばれる者たちがいました。彼らも、同じ道を歩んでいます」
グレッグは遠くを見つめた。
「君が今、気づいたことは、彼らが気づくまでに何十年も要したことだ。君は、わずか数日でそこに到達した」
「でも、俺は――」
「君は万能ではない。そしておそらく、この世界に万能な者は存在しない。『約束の力』は、相手の自由意志を尊重する限りにおいてのみ機能する。複数の『約束』を同時に背負えば、必ず矛盾が生じる」
グレッグは俺に目を向けた。
「ここからが、本当の試練だ」
その時、俺の精神に激痛が走った。
『約束の鎖』の一つが、悲鳴を上げていた。セリアの鎖だ。
彼女が何か決断を下そうとしていた。それが、俺の『約束』と反発する決断。
「グレッグ、セリアが――」
「いけ。契約者よ」
俺は走った。階段を降り、廊下を駆け抜け、セリアの部屋の扉を叩いた。
扉が開いた時、銀髪の魔術師は旅支度をしていた。リュックサックに、魔法書を詰め込んでいた。
「セリア、どこへ――」
「帝国の本都へ向かいます」
彼女の目は決意に満ちていた。
「あなたの『約束の力』がシステムの一部であるなら、システムの中枢はどこにあるのか。帝国の皇帝がシステムについて知っているなら、その秘密は帝国内にあるはずです」
「それは危険すぎる。帝国はお前を――」
「私を必要とするのであれば、帝国も動けません。そして、あなたとの『約束の鎖』が不安定なままでは、あなたも世界も救えません」
セリアは振り返った。
「新しいシステムを創造するのであれば、古いシステムの全容を知る必要があります。私は、それを調査する」
「待て。契約を――」
「あなたは、私に何も約束しないでください」
彼女の言葉は、鋭く、そして悲しかった。
「あなたの『約束』は、もう十分です。今は、あなたが『約束しない選択』をする番です」
セリアは宿を出ていった。その背中は、二度と振り返らなかった。
『約束の鎖』は、音もなく、静かに消えた。
俺の中で、何かが壊れた。




