第46話 リリアの奇妙な要求
屋上から降りてきたアルトを、リリアが廊下で待っていた。
月明かりに照らされた彼女の顔は、いつもの柔らかな表情ではなく、何かに苦しんでいるように見える。その目には、アルトが見たことのない感情が宿っていた。
「リリア……」
アルトが声をかけると、彼女は一歩前に出た。その動きは決然としていて、まるで何か大切な決断をした者の歩き方だった。
「アルト、私と二人きりで話してくれますか?」
その声は小さかったが、どこか切実だった。アルトは頷き、二人は客間から離れた部屋へと移動した。
部屋に入ると、リリアはすぐに口を開いた。
「私……わかったんです」
「何が?」
「アルトが……複数の人を同時に見てるってこと」
アルトは何も答えられなかった。リリアが続ける。
「ニナさんのためにサポート役に回るとか、シャーロット様の帝国対策を助けるとか、セリアさんの研究を手伝うとか……全部本当なんですよね」
「……そうだ」
「でも、それって結局……」
リリアの声が震えた。
「私たちを同じくらい大事にしているってことですよね。なのに、なんで私だけ不安なんでしょう」
アルトは何も言えず、彼女の言葉を聞いた。
「最初、アルトに助けられた時……私は本当に幸せでした。奴隷商人の手から逃げ出せて、初めて自分の人生が始まったような気がしました。でも……」
リリアが目を上げた。その瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。
「でも、今は違うんです。自由になったはずなのに……アルトのことばっかり考えてるんです」
彼女は自分の手を握りしめた。
「昼間、ニナさんが『自分たちの力で獣人を解放したい』って言ってた時……私は何を思ったと思いますか?」
「……」
「『いいな』じゃなくて『羨ましい』だったんです。ニナさんはアルトを頼りながらも、自分たちの目標を持ってる。でも私は……」
リリアの声が細くなった。
「私は、アルトが私をどう見てるかだけが気になるんです。それって……自由じゃないですよね」
アルトは初めて、自分の力の真の危険性を目の当たりにした。彼が相手を「救う」ためにした契約が、実は相手を「依存」させていたということ。リリアは自由になったのではなく、別の形の鎖に繋がれていたのだ。
「リリア、その気持ちは……」
「だから、お願いです」
リリアが一歩近づいた。
「もっと深い契約を結んでください。公式な、誰にも否定できない約束を。そうすれば、私は自分がアルトのものだっていう安心感を得られるんです。そしたら、他の人たちのことで不安になったりしなくて済むんです」
その言葉を聞いて、アルトの背筋が凍った。
「リリア……それは自由じゃない」
「わかってます」
彼女は静かに答えた。
「でも、自由って何ですか?私は奴隷商人から逃げ出しました。でも今、本当の奴隷になりたいんです。ただし、アルトの」
「そんなことを言うな」
「なぜですか?」
リリアの目が真っすぐアルトを見つめた。
「ニナさんは『獣人として独立したい』と言ってる。シャーロット様は『帝国の改革者でありたい』と言ってる。セリアさんは『システムの真実を知りたい』と言ってる。みんな、アルトを必要としながらも、自分たちの目標を持ってます」
「そうだ」
「でも、私は違うんです。私の目標は『アルトが幸せであること』だけなんです。それって、そんなに間違ってますか?」
アルトは言葉を失った。リリアは続けた。
「シャーロット様に聞きました。『王妃として帝国を支える』ことを目指してるって。羨ましかったです。自分たちの立場を活かした目標を持ってるから。でも、私は何も持ってない。アルトしか持ってない」
「リリア……」
「だから、お願いです。私たちの関係をもっと強い契約にしてください。『リリアはアルトの最優先』みたいな」
その言葉は、完全にアルトの心に槍を刺した。
彼女は求めていた――自分の力によって、完全に自分に依存させてほしいと。それは、アルトが奴隷商人から解放したはずの少女が、別の奴隷状態へ自ら陥りたいと望んでいるということだ。
「できない」
アルトは静かに言った。
「なぜですか……」
「それは君の自由を奪う」
「でも、自由なんて要りません。私が欲しいのは……」
「リリア」
アルトが強い口調で遮った。
「君は今、苦しんでいる。その苦しみは……僕のせいだ。複数の人間と契約を結んだことで、君に不安を与えてしまった」
「そんなことは……」
「でも、その苦しみを『より深い契約』で解決するのは……それは本当の解決じゃない」
アルトは歩み寄って、リリアの肩に手を置いた。
「君は……自分の目標を見つけるべきだ。アルトじゃなくて。君自身の」
「そんなことできません」
リリアの声は、絶望に満ちていた。
「だって、私は奴隷だったんです。目標なんて持ったことがない。アルトに救ってもらった時点で、私の人生の全部が決まったんです」
その言葉が、アルトの胸に深く刺さった。
彼女は言い切った――自分は奴隷商人によって奪われた人生を、今度はアルトに預けたいと。それが本当の自由だと思い込んでいる。
そして、その思い込みを生み出したのは、アルト自身の「契約」という力だった。
「リリア……」
アルトは何か言いたかったが、その時、彼の心の中で何かが鳴った。
【約束の鎖】が揺らいだのだ。
リリアとの「絆」を示す光の鎖が、不安定に明滅していた。それは、彼女の心が揺らいでいることを示していた。同時に、他の鎖――ニナ、シャーロット、セリアとの鎖も――が微かに、しかし確実に、相互に干渉し始めていた。
複数の鎖が絡み合い、その中でアルトの判断は歪み始めていた。
「明日……話しましょう」
アルトは弱々しく言った。
「今は……僕も考える時間が必要だ」
リリアは何も答えずに部屋を出て行った。
その後ろ姿を見つめながら、アルトは初めて自分の力の本質を思い知った。
彼は誰かを救っているのではなく、別の形で支配しているのかもしれない。
そして、その支配の中にいながら、相手たちは「幸せだ」と思い込んでいるのだ。
アルトは窓の外を見た。星々が静寂の中でまたたいていた。
その時、どこからともなく、セリアの声が聞こえたような気がした。
『複数契約を同時に保有する限界が近い。もう数日で、あなたはシステム的に「崩壊」する可能性があります』
そして、もう一つの声――エミリアのものだろうか――が重なった。
『契約者の宿命だ。自分の力が依存を生み出し、その依存が自分を縛る。それが終わらない限り、君は……』
その声は消えた。
アルトは自分の手を握りしめた。
その手は、いくつもの見えない鎖で繋がれていた。そして、その鎖の先には、彼を信じる少女たちがいた。
自分を信じてくれる相手を傷つけることなく、自分の力をどう使うべきなのか。
アルトは、その答えをまだ見つけていなかった。




