第35話 獣人差別の構造的理解
朝日が昇る前から、アルトは目を開いていた。
天幕の中で、リリアが心配そうに横たわる自分を見つめている。昨夜の高熱は引いたが、体が重い。それは肉体的な疲労というより、心に刻み込まれた痛みのせいだった。
「アルト……起きたんですか」
リリアの声は優しかったが、アルトは応える気力がなかった。
「ニナは?」と聞く代わりに、アルトは天幕の外へ這い出た。朝靄の中、キャンプ場は静寂に包まれている。シャーロットが篝火の番をしていたが、ニナの姿はない。昨夜の彼女の言葉が反響する。
『あんたらが俺たちを「解放」したって?』
『それは違う。あんたは俺たちを新しい形で支配しただけだ』
アルトは座り込み、頭を抱えた。
シャーロットが近づいてきた。王女の顔には疲労の跡があるが、眼差しは鮮烈だ。
「昨夜の言葉、聞きましたか」
「全部」
「お考えですか?」
アルトは長く黙った。ニナが言ったことの意味を整理しようとしていた。
「俺は……奴隷たちを解放したつもりだった。契約を結んで、自由を約束して」
「それは間違いではないのでは」
「違う」アルトが顔を上げた。「ニナが言ったことが正しい。あの獣人たちは奴隷商人から解放されただけで、社会からは何も変わっていない。彼らは依然として……」
言葉が引っかかった。
「劣等種族扱い」
シャーロットが静かに座った。
「東大陸でも同じです。獣人差別は法律には明記されていません。しかし、慣習として、文化として、社会の隅々に根付いている。宿屋は彼らを泊めない。商店は商品を売らない。職工は彼らを雇わない」
「ニナたちは……」
「自由を得ても、自由を使う場所がないんです」
アルトはその言葉の重さを感じた。彼は契約で奴隷商人からの解放を実現したが、その先にある問題には目を向けていなかった。
「ニナが怒ったのは、あなたが彼女たちに『自由』という名の呪いをかけたからです。法的には奴隷ではなくなったが、社会的には何の権利もない。行き場のない人間たちになってしまった」
シャーロットの分析は冷徹だ。
「それで、どうする。あんたは」
その声は聞いたことのないものだった。リリアが天幕から出てきたのだ。彼女の顔は、いつもの献身的な優しさではなく、静かな怒りに満ちていた。
「アルト……あなたは私たちを解放してくれました。でも、その先のことは何も考えていなかった。奴隷商人が消えたら、問題は解決すると思っていた」
「リリア……」
「私は商人ギルドに入ることにしました。それは、奴隷制度そのものを経済的に不可能にするためです。利益がなければ、奴隷商人は存在できない。でも」
リリアはアルトをまっすぐに見つめた。
「獣人差別は、経済では解決しません。社会の根底にある、もっと深い問題です」
アルトは立ち上がろうとして、よろめいた。シャーロットが支えた。
「まだ体力が戻っていません。休むべきです」
「ニナは?」
「獣人領域へ向かったと思われます。昨夜、彼女は『仲間たちに報告しなければならない』と言っていました。採掘場で解放した獣人たちをどうするのか、獣人社会全体にかかる問題についても」
「俺が……あいつらの問題を作ったわけか」
「そう言ってもいいでしょう。しかし、それは悪いことではありません」
シャーロットの言葉は意外だった。
「あなたは奴隷制度の『存在』に気づかせました。採掘場の獣人たちは、これまで自分たちの状況が『異常』だとは思っていなかったかもしれません。しかし、あなたに解放されることで、初めて『自分たちは何かが違う』と気づいた。それは変化の始まりです」
「でも、ニナは俺を……」
「恨むでしょう。そして、その恨みが彼女を行動へ駆り立てます。最も強い力は、怒りとやさしさが同時に存在するところから生まれます」
シャーロットは立ち上がった。
「獣人領域へ向かいましょう。ニナの話を聞かなければならない。そして、あなたが学ぶべきことがあるはずです」
リリアがアルトの腕を取った。
「私も行きます。商人ギルドの一員として、獣人社会との経済的な繋がりを作ることが必要かもしれません。ただし」
リリアの目が厳しく光った。
「あなたの『契約』には頼りません。人間と獣人の関係を新しく作るなら、強制ではなく、対等な交渉のみでなければならない」
アルトは二人の顔を見た。彼女たちは怒っていなかった。ただ、彼の無知に対して、明確に指摘しているだけだ。
それはある意味、もっと厳しい判定だった。
キャンプを片付け、三人は獣人領域へ向かった。道中、グレッグが現れた。冒険者ギルド長は、いつもの軽い調子ではなく、深刻な顔をしていた。
「アルト君。お疲れさん」
「グレッグ」
「ニナ嬢から報告を受けました。複数契約の負荷がお前さんの限界を超えているという話。そりゃ、まずい」
グレッグはアルトの肩を叩いた。
「お前さんの力は強い。だからこそ、気をつけないといけない。力が強い奴ほど、その力で何もかも解決しようとする。そして、見落とす」
「見落とす?」
「『力では解決しない問題』がこの世には山ほどある。お前さんが今、気づいてることがそれだ」
グレッグは前を向いた。
「獣人差別は、個人の悪意からは始まっていない。歴史だ。数千年の歴史の中で、獣人たちは『劣等種族』という物語を与えられた。その物語は、個人の心の中に根付いている。お前さんの契約で、それが変わるわけじゃない」
「だったら、どうすればいい」
「まずは、その物語を壊すこと。新しい物語を作ること。そして」
グレッグが振り返った。
「何より大事なのは、獣人たち自身が何を望むのかを聞くことだ。お前さんが決めることじゃない」
獣人領域に着いた時、アルトは初めて気づいた。
領域の入口には、武装した獣人たちが並んでいた。その中心にはニナがいた。彼女の眼差しは、もはや少女のそれではなかった。
「アルト。来てくれたんですね」
「ニナ」
「獣人評議会を招集しました。あなたが勝手に解放した者たちのことについて、話し合う必要があります」
ニナは領域へと消えた。
アルトたちは彼女を追った。その先には、獣人たちの真の声が待っていた。




