第30話 信頼への一歩
夜明け前の薄明かりの中、シャーロットは膝をついていた。
アルトの目の前で、だ。
「何をしているんだ」
アルトが声をかけても、シャーロットは顔を上げない。その銀色の髪が揺れて、月光に照らされる。彼女の震えが止まらない。
「あたしは…本当のことを知りたい」
シャーロットの声は小さかった。東大陸の王女としての威厳は完全に消えていて、ただ一人の少女が呟いているだけだ。
「あたしは帝国のために、東大陸のために、そう言い聞かせて生きてきた。でも…」
彼女は顔を上げた。瞳が濡れている。
「あたしが本当に望んでいるのは、そんなものじゃない。あんたの『約束』を感じてからずっと、あたしはそれに気づいてしまった。帝国の玉座よりも、権力よりも…」
シャーロットの唇が震えた。
「正しい世界が欲しい。あんたと一緒に、間違った世界を変えたい。あたしはもう…帝国の傀儡王女として生きたくない」
リリアとニナが息を呑んだ。野営地の中央で、火は既に消えかけていた。その薄暗さの中で、シャーロットの決意だけが確かに存在していた。
アルトは立ち上がり、シャーロットの前にしゃがみ込んだ。
「契約を求めるのか」
その問いに、シャーロットは即座に首を振った。
「いや。契約なんて…」彼女の声は確かになった。「契約なんていらない。あたしが欲しいのは、あんたとの約束だ。強制されるものじゃなくて、互いに選んだ約束。あんたの力じゃなくて、あんたの心が欲しい」
アルトの胸が高鳴った。
彼女は何を言っているのか理解していないのだろうか。それとも、完全に理解しているのだろうか。
「シャーロット」
アルトは彼女の肩に手を置いた。その瞬間、見えない何かが二人の間に張り巡らされた。けれど、それは『約束の鎖』ではない。もっと柔らかい、温かい何かだ。
「俺たちは契約なしで、約束を結ぼう。お互いが選んだ約束として」
「本当に…?」
シャーロットの瞳が見つめてくる。そこには、帝国の王女としての計算はない。ただ、一人の少女が、自分の人生の主導権を取り戻したいという切実な願いがあった。
「本当だ」
アルトは彼女を立たせた。そして、彼女の手を取った。その手は小さく、細く、けれど確かに握り返してくる。
「俺たちは、世界を変える。奴隷制度を廃止して、獣人たちの自由を勝ち取って、帝国の支配から解放して。そしてお前は…」
アルトはシャーロットの瞳をまっすぐに見つめた。
「お前は、その過程で本当の『自分』を取り戻す。帝国に支配された王女ではなく、自分の意思で世界を選び取った一人の女性として」
シャーロットの瞳から涙が落ちた。
「あたしはそれまで、あんたのそばにいられるのか」
「当たり前だ」
アルトの答えは即座だった。
「お前がいなけりゃ、東大陸の複数の王国を動かすことなんかできない。お前の知恵と力と、何より…」
アルトは彼女の手を強く握った。
「お前の信念が必要だ。お前が本当の『自由』を知らなきゃ、世界の本当の『自由』も作れない」
シャーロットは両手でアルトの腕を掴んだ。彼女の全身が震えている。それが恐怖なのか、喜びなのか、それとも両方なのか、アルトには分からない。けれど、重要なのはそのどちらでもなく、彼女がここにいて、自分の意思でそう決めたということだ。
リリアが静かに歩み寄ってきた。彼女はシャーロットの肩を抱いた。
「大丈夫。あなたは一人じゃない」
リリアの声は温かかった。奴隷から解放された彼女だからこそ、その言葉の重さを知っていた。
「あたしたちがいる。そしてアルトがいる。帝国と戦う勇気なんか出ないなら、あたしたちと一緒に出せばいい」
ニナも近づいてきた。獣人の狼族である彼女は、シャーロットをじっと見つめた。
「帝国の傀儡から抜け出すって決めた。それは本当か」
シャーロットは首を縦に振った。
「本当だ。もう二度と、帝国のためには動かない。あたしはあたし自身のために、そして…」彼女はアルトを見た。「この人たちと一緒に、正しい世界のために動く」
ニナは唸った。それは満足の声に聞こえた。
「なら、獣人どもも信じることにする。帝国の王女が本気で反逆するなら、あたしたちの力も全力で貸す」
シャーロットは三人を見回した。帝国の玉座の座る予定だった王女は、野営地の中央で、三人の同志に囲まれている。
「感謝します」
彼女の言葉は正式で、威厳に満ちていた。けれど、その瞳には別のものが映っていた。希望だ。
アルトは野営地の外へ出た。月は既に傾きかけ、東の空に朝焼けが広がり始めていた。
二百年前の契約者が築いた帝国の支配。その上層部に君臨する皇帝マクシミリアン。そして、システムそのものの秘密。
それらは全て、これからの彼らの敵となるはずだ。
けれど、シャーロットがアルトのそばに立つことで、世界が変わる。東大陸の複数の王国が動く。商人ギルドも、冒険者ギルドも、そして獣人たちも…
「アルト」
シャーロットが後ろから呼びかけた。彼女は野営地から出て、彼の隣に立った。朝焼けが彼女の銀色の髪を染めている。
「あたしたちは本当に、帝国に勝てるのか」
「分からん」
アルトは正直に答えた。
「だが、お前が『勝つ』と決めたなら、俺たちもそうする。それが約束だ。強制じゃなくて、互いに選んだ約束」
シャーロットは微かに笑った。その笑顔は、帝国の王女のそれではなく、一人の少女のそれだった。
「なら、あたしたちは勝つ」
彼女の言葉は呟きのようで、けれど確信に満ちていた。
アルトは彼女の手を再び取った。その手は、もう震えていない。
野営地の中では、リリアがニナに何かを指示している。準備を整えるために。彼らの新しい戦いのために。
朝陽が昇り始めた。やがて、帝国との全面的な対立が始まる。けれど、その前に、彼らは確認する必要があった。
世界がどのような仕組みで動いているのか。そして、『契約』という力が、本当は何のために存在しているのか。
その答えは、商人ギルドの本部にあるはずだった。象牙色の招待状が示す先に。




