第31話 恋愛フラグの成立
その夜、アルトたちの野営地は奇妙な沈黙に包まれていた。
シャーロットが契約ではなく「心の約束」でアルトたちと結ばれたその直後、リリアは火を囲んで黙ったまま。ニナは研ぎ石でナイフを手入れしながら、時折シャーロットの方を見やっていた。いや、見ていたというより睨んでいた。
アルトは気づかないふりをしながら、地図を広げていた。帝国の追手を避けるための北方への迂回ルートについて考えていたはずだった。しかし、頭の中は別のことでいっぱいだった。
シャーロットはテントの奥に座り、両膝を抱えていた。夜風に揺らぐ篝火の光が、彼女の表情を明暗に分けている。
自分は何をしてしまったのだろう。
帝国の王女として、この男に心を許すはずがなかった。あるはずがない。彼は契約者だ。危険だ。帝国から逃げるための道具に過ぎないはずだった。だのに――
シャーロットは自分の胸をそっと押さえた。心臓が大きく、大きく脈動している。まるで溺れている者が水面を求めているように。
あの瞬間、アルトが彼女に膝を落とさせた時。いや、その前、彼女が帝国への反逆を誓った時から、もう決まっていたのかもしれない。
自分の気持ちを認めるなんて、弱さだ。王族として、戦士として、それは許されない。帝国に復讐する。奴隷制度を廃止させる。そのためなら何でもしなければならない。だのに――
シャーロットは夜空を見上げた。星が瞬いている。その星の瞬きは、彼女の心の動きと同じテンポで脈動しているように思えた。
「何か考え事ですか、王女殿下」
突然の声に、シャーロットは思わず身を硬くした。
声の主は、ニナだった。狼族の獣人は、燃え盛る篝火の向こう側から、するりと姿を現していた。その目は、まるで獲物を狙う狼そのものだ。
「別に。ただ、これからのことを考えていただけだ」
シャーロットは意識的に落ち着いた声を出した。王族としての嗜みを身につけている。だが、ニナはそのような見せかけを見抜く力を持っていた。
「ふん。嘘臭い」
ニナはシャーロットの隣に座った。というより、陣取った。あきらかに対峙する姿勢だ。
「お前は、アルトを好いている」
ストレートすぎる言葉に、シャーロットの顔が赤くなった。
「何を――」
「獣人の感覚は鋭いんだ。心臓の鼓動、体臭、瞳孔の動き。すべてが嘘をつかない。お前さんはあいつのことを好いている。本気でな」
ニナの声には、怒りがあった。いや、嫉妬だ。
シャーロットは、ニナの目を見た。その瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。不安。怒り。そして、確かに嫉妬。
「そうかもしれん」
シャーロットは、認めることにした。隠ったところで、この獣人にはかなわないだろう。
「だが、これは何も変わらない。私は帝国に逆らった。家族さえも。あいつはそれを助けるだけだ。感情に流されて、すべてを失うわけにはいかない」
「その割に、顔が真っ赤だな」
ニナは笑った。それは馬鹿にした笑いではなく、どこか優しい笑いだった。
「獣人社会では、こういう時は素直になるんだ。隠すから、複雑になる。心が壊れるんだ。俺は、いっぱい見てきた。奴隷の女たちが、自分の感情を押し殺して、心が折れるのを」
ニナはシャーロットの肩に手を置いた。
「あいつは優しすぎるんだよ。すべてを背負おうとする。だから、周りが支えてやらなきゃいけない。お前も、リリアも、俺も」
シャーロットは、ニナの言葉を聞いていた。
「もし――」
シャーロットは、ゆっくり言葉を選んで話を続けた。
「もし、私の気持ちを認めたなら。その後、何が起こるだろう」
「戦争だろ」
ニナは言い切った。
「帝国は、お前が逃げたってことを知ってる。帝国はあいつのことも欲しい。契約者の力は、帝国にとって強い武器だからな。だから、帝国は報復する。そしたら、あいつはそれに立ち向かう。感情があろうなかろうが、あいつはそうする奴なんだ」
シャーロットは黙った。ニナが言っていることは、自分も既に気づいていたことだ。
「だから」
ニナは立ち上がった。
「気持ちは大事にしろ。でも、戦いのことも忘れるな。あいつのためなら何でもする――その気持ちで、生き残ることだ。その先に、お前とあいつが一緒にいられる世界があるかもしれんから」
ニナは、火の反対側へ戻っていった。その後ろ姿は、夜に溶けていった。
シャーロットは一人、再び夜空を見つめた。
心臓の鼓動は、まだ速い。だが、それは恐怖ではなく、決意に変わっていた。
アルトのために。奴隷を解放するために。世界を変えるために。
自分の感情を認めることは、弱さではない。むしろ、戦う力になるのだ。
「王女殿下」
今度は別の声だ。リリアだった。彼女は、シャーロットの前に立っていた。その目は、どこか悔しそうに見える。
「私は、アルトをずっと支えてきました。奴隷として、そして解放されてからも」
リリアは、そう言った。
「だから――」
言いかけた言葉を止めた。リリアは、自分の気持ちを整理するように、深く息を吸った。
「だから、分かります。あなたの気持ち。アルトを守りたい気持ち。彼を失いたくない気持ち」
リリアは、シャーロットの隣に座った。ニナのようなぶっきらぼうさはなく、静かな優雅さだ。
「でも、私たちは、彼を支配してはいけない。彼が自由に選べるように」
「分かっている」
シャーロットは答えた。
「私たちは何者なのか。考えたことはありますか」
リリアが問いかけた。
「奴隷から解放された者。敵国の逃亡王女。獣人。それぞれが別の道を歩む者。でも、彼によって繋がれた者たち」
リリアは、アルトの方を見た。彼はまだ、地図を前にうなずいている。
「彼の力は、人を繋ぐ力。だからこそ、私たちは繋がっている。だからこそ、私たちは彼を失ってはいけない。そして、彼が自分を失ってもいけない」
シャーロットは、リリアの言葉の奥行きを感じた。
「あなたは、本当に奴隷だったのですか」
シャーロットは問いかけた。
「はい。今も、その傷は心に残っています。だから、私は自由になりたい。完全な自由。そして、彼が本当に望む世界を見たい」
リリアは立ち上がった。
「王女殿下。敵国の王女として、あなたはこの旅にいます。でも、今、あなたは何ですか。誰のために、何をしたいのですか」
リリアは、その問いを残して、テントへ戻っていった。
シャーロットは、一人、篝火の前に座った。
敵国の王女として。戦士として。そして――
彼女は、自分の胸に手を当てた。
――そして、アルトを愛する者として。
遠くで、アルトが地図を片付けて、テントへ向かおうとしていた。その後ろ姿を見つめながら、シャーロットは心の中で誓った。
必ず、一緒に歩む。
たとえ帝国に追われようとも。たとえ世界が敵であろうとも。
その時、アルトはシャーロットに気づき、ちょっと手を上げた。それは、おやすみなさい、という単純な合図だった。だが、シャーロットには、それがすべてに見えた。
彼女は静かに手を返した。
夜は、深まっていく。
篝火の炎は、激しく揺らぎながらも、消えることなく燃え続けていた。
まるで、三人の心が絡み合い、もつれながらも、一つの方向へ向かおうとしているかのように。




