第28話 王妃の手紙
シャーロット・メディエヴァル王女の陣営が小さな別邸を借りて滞在して三日目。アルトは、その場所への招待状を手にしていた。
象牙色の紙に金の文字で書かれた招待状。マルコムから受け取ったものと同じく、古い魔力が仄かに脈動している。だが、この一枚はマルコムのものとは違う。より強く、より深く。
「アルト、本当に行くのか?」
リリアが不安そうな顔で尋ねた。彼女は解放奴隷たちの生活再構築に追われており、ここ二日間ほぼ眠っていない。頬がこけ始めているのが気がかりだった。
「行かなきゃ仕方ないだろう。向こうは王女だ。無視すれば帝国にいい口実を与える」
アルトはそう言いながらも、招待状の文字をじっと見つめていた。
『契約者アルト殿へ。公式な交渉の場にお越しください。ウェスタリア帝国との関係について、建設的な提案があります。――シャーロット・メディエヴァル』
建設的な提案。その言葉の裏には、様々な圧力と利害が隠されているだろう。
「ニナはどこだ?」
「森の奥で獣人たちの訓練を見守ってる。あの子は何か感じてるんだろう。シャーロットに対して、ずっと警戒心を解いていない」
リリアが疲れた表情で答えた。アルトは立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。
「ちょっと休め。俺が行ってくる。夜までには戻る」
「約束か?」
リリアが上を向いて尋ねた。その問い方には、かつてのような依存的なニュアンスがなかった。単純な確認。信頼の再構築。アルトはその変化に胸がすくような思いを覚えた。
「約束だ」
契約ではなく、約束。その言葉の重みが、二人の間を静かに通り抜けた。
別邸の応接間は、思ったより豪華だった。白い壁、青い絨毯、そして窓からは東大陸の風景が望める。その中央に、シャーロット・メディエヴァル王女は座っていた。
その瞬間、アルトは自分がどれほど政治的な取引の場に入ろうとしているのかを痛感した。
シャーロットは目を上げ、アルトを注視した。その眼差しは深く、冷たく、そして異常に知性的だった。
「アルト・ソルヴェン。正式にお会いするのは初めてですね」
その声は甘く、それでいて刃物のようにしなやかだった。
「王女殿下。わざわざ招待をありがとうございます」
アルトは椅子に座った。対面する距離は三メートルほど。テーブルの上には、茶とお菓子が用意されていた。
「ウェスタリア帝国から、ある通達を受け取りました」
シャーロットが淡々と言った。
「帝国は、あなたが『国家的脅威である』と判断したようです。その理由は、あなたが奴隷制度を廃止しようとしているから。帝国経済の根幹を揺るがす存在、ということですね」
「そのようですね」
アルトは答えた。これは誰もが知る事実だった。帝国の奴隷商人たちは帝国内の最大の利益団体。その存在を脅かすことは、帝国首脳部に対する直接的な圧力となる。
「帝国は、あなたを排除することを強く望んでいます。軍事的にもそうですし、外交的にもそうです。特に東大陸の各王国に対して、あなたとの協力関係を構築することを『認めない』と通達しました」
シャーロットは招待状を手に取った。それはアルトが今朝受け取ったものと同じ形式のものだった。
「ですが、あなたは誰かから招待状を受け取りました。おそらく、商人ギルドからのものでしょう。古い魔力の痕跡がある。あの象牙色の招待状は、二百年前から存在するもの。『契約システム』と関わりがある」
アルトは息を止めた。
「あなたは気づいていないかもしれません。ですが、この世界には複数の『契約者』が存在します。そして、彼らはそれぞれ異なる目的を持っています。帝国を支配したい者、奴隷制度を守りたい者、あるいはそれらすべてを超越した目的を持つ者も」
シャーロットが席を立ち、窓のそばに歩き寄った。
「私の父は、東大陸のいくつかの王国を統一しようとしていました。しかし帝国の介入により、その計画は頓挫しました。帝国は私を人質として東大陸に派遣し、帝国の傀儡として機能することを強要しているのです」
その言葉の中に、かすかな恨みが混じっていた。
「あなたと私は、同じ立場にいるかもしれません。帝国に対抗する立場にあるという点で。しかし、あなたが本当に何を目的としているのかは、私にはわかりません。奴隷制度の廃止?それとも、『契約システム』そのものの支配?」
アルトは答えられなかった。
シャーロットの言葉は正確だった。自分が本当に何を目指しているのか、アルトはまだ完全には理解していない。奴隷たちを解放したい。その気持ちは本物だ。だが、その先に何があるのか。その問いに、まだ答えが出ていない。
「帝国からの通達では、こう言っています。『東大陸の諸王国がアルトと協力関係を構築した場合、帝国は東大陸全体に対して経済制裁と軍事的圧力を加える。さらに、そのような王国の王女や王子は、帝国の敵性勢力として認定される』と」
シャーロットが振り返った。その眼差しは、完全にアルトを射抜いていた。
「つまり、私があなたと協力すれば、帝国に逆らうことになる。帝国から破滅の通告を受ける。わかっていますか、アルト?あなたの行動は、単なる奴隷解放ではなく、帝国全体を揺るがす『政治的反逆』として機能しているのです」
その言葉の重さが、アルトの上に降り注いだ。
「では、なぜ王女殿下はここにいるのですか?」
アルトが静かに尋ねた。
シャーロットは微かに笑った。
「いい質問ですね。簡潔に答えましょう。帝国は、あなたを排除したい。しかし、帝国は同時に、あなたを支配したいとも考えている。あなたの『契約者』としての力は、帝国にとって非常に有用だからです。帝国皇帝マクシミリアンは、『契約システム』について多くを知っています。そして、彼はあなたをその配下に組み込みたいのです」
アルトは、その言葉の含意を理解した。
「そこで、私の役割が出てきます。帝国は、あなたを説得する代わりに、東大陸の王国を利用しようと考えています。もし私があなたを帝国に報告すれば、帝国はあなたの『脅威性』を軽減し、東大陸への制裁を緩和するというわけです」
「それはつまり、裏切りの提案ですね」
アルトが言った。
「そうですね。帝国の視点からすると、そういうことになります」
シャーロットが座席に戻った。
「ですが、私は別の提案をしたいのです。帝国の意図を無視して、あなたと協力する道も存在します。東大陸の複数の王国を結集させ、ウェスタリア帝国に対抗する勢力を形成する。そのために、あなたの『契約者』としての力を活用する。結果として、奴隷制度廃止と帝国の改革を同時に実現する」
アルトは言葉を選んで答えた。
「そうなった場合、戦争になります」
「そうですね。戦争になります。帝国は東大陸を軍事的に制圧しようとするでしょう。多くの人命が失われるでしょう。しかし、現状を続ければ、奴隷制度は永遠に存在し続ける。帝国は経済的に永遠に優位に立ち続ける」
シャーロットが身を乗り出した。
「あなたはどちらを選びますか、アルト?帝国の犬になることで、表面的な安定を保つのか。それとも、戦争の危険を冒してでも、世界を変えようとするのか」
アルトは、その問いに答えることができなかった。
窓の外では、東大陸の夕陽が、赤く大地を染めていた。




