第27話 新しい風
洞窟の戦いから数週間。アルトは思っていたより忙しい日々を送っていた。
奴隷商人ギルドの壊滅後、237人の解放奴隷たちの生活をどうするか。それが直近の最大課題だった。単に「自由になった」で済む話ではなく、彼らは食べ物も必要だし、寝床も必要。働く場所も。金も。
「やはり経済活動の再構築が急務ですね」
森の奥地の集落で、リリアは机の前に資料を広げていた。象牙色の招待状はその机の隅に置かれている。彼女の目は真摯だったが、アルトはそこに不安を読み取ることができた。
「リリア、無理するなよ」
「無理なんてしていません。私は、私たちは……」
彼女は言葉を切った。その瞬間、アルトは「約束の鎖」を通じて彼女の心を感じた。リリアはまだアルトに依存している。完全に自分の判断で動いているのではなく、アルトに認められたいという欲望が行動を駆り立てていた。
「アルト。悪い顔をしている」
ニナが狼族特有の感覚でそれを察知した。彼女は相変わらず短剣を研いでいた。戦うことよりも、一人立ちできない仲間たちを見守ることが、今の彼女の役目だと思っているようだ。
「リリアが完全には自分の意思で動いていない」
「あたり前だろ。お前のせいだ」
ニナは顔を上げず、刃を研ぎ続けた。その言葉は厳しかったが、責められている感覚は薄かった。むしろ事実の指摘に過ぎない。
「お前と『約束』をしたやつらは全員、お前の影に縛られてる。大事な決定すら、お前に認めてもらいたいから判断してる」
「わかってる」
アルトは窓の外を見た。集落では解放奴隷たちが農作業に従事している。ここ数週間で彼らの生活水準は確実に向上していた。が、その裏側には常に、アルトへの感謝の念が流れている。
その感謝は本来、互いの努力に対するものであるべきだった。
「マルコムの招待状。これは……」
「古い魔力がこもっている」
ニナが言った。彼女の獣人感覚は確かだった。象牙色の招待状には、「契約システム」と同じ種類の魔力が刻まれていた。
「商人ギルドも、何かを知っている」
「多分な」
ニナは短剣をしまった。その動きは素早く、無駄がない。彼女は本当に独立した戦士に成長していた。
その時、馬の蹄音が集落に近づいていた。
アルトは勘で察した。来訪者だ。そして、それは単なる商人ではない。魔力の濃度が違う。
集落の入り口では、三十人ほどの騎士団が到着していた。その最前列には、一人の金髪の女性が馬上から降りてきた。
王族特有の気品を持つその女性。彼女の容姿は壊れるほど美しかった。しかし、その美しさよりも、彼女の目に込められた知性が強い印象を与えた。
「初めまして。アルト・ソルヴェン」
彼女は自分から名を名乗った。そしてそれは、丁重な挨拶というより、上位者としての宣言に聞こえた。
「シャーロット・メディエヴァル。東大陸の名門家に生まれ、ウェスタリア帝国の皇女と同格の立場を与えられている者だ」
「王女殿下、わざわざ……」
「話は長い」
シャーロットは、アルトの言葉を遮った。彼女は集落の長老に丁寧に一礼してから、アルトへと視線を向けた。その瞳に映るのは、好奇心と、警戒心だった。
「奴隷商人ギルドを破壊した者が本当にお前なのか。直で確認したくてね」
「そうだが」
「つまり、お前は『契約者』なのだろう」
その瞬間、集落の空気が静寂に包まれた。
アルトは瞬時に理解した。シャーロットは何かを知っている。『契約者』という言葉を口にしたということは、彼女はこの世界の真実の一部に触れているということだ。
「どうして……」
「商人ギルドの情報網は広い。あらゆる大陸に張り巡らされている。その中で、奴隷商人ギルドを一週間で壊滅させた者の情報が上がってきた。その者が持つ能力は、ただの剣術でも魔術でもない。『約束を強制実行させる力』だと」
シャーロットは馬から降りて、アルトへと近づいた。彼女の騎士たちは距離を保ったままだ。
「ウェスタリア帝国は、二百年前の契約者との『約束』に縛られている。その契約内容は秘匿されているが、帝国の政治体制そのものが、その契約に基づいて構築されている。つまり」
シャーロットは一度間を置いた。
「新しい契約者の出現は、世界全体の秩序を揺るがす事象だ。帝国も、商人ギルドも、その他の勢力も、お前の動向を監視している」
「なぜ教える」
「教えるというより、交渉の席に着いてもらいたいのだ」
シャーロットの表情が一瞬、柔らかくなった。
「東大陸の王国群は、ウェスタリア帝国の支配下にある。奴隷制度が廃止されれば、帝国の経済が揺らぎ、帝国からの支援金が減少する。それは東大陸にとって致命的だ。だからこそ、お前に『提案』したい」
「提案?」
「帝国と対抗できる勢力を、作ろう。お前の力を、東大陸の自由のために使わないか」
その時、アルトは「約束の鎖」を通じて、シャーロットの心を感じようとした。
だが、彼女の心は堅く閉ざされていた。強固な意志と、深い計略に満ちていた。その奥底には、本当の感情が隠されている――だが、それが何であるかは、まだ見えない。
「返事は後で」
アルトは言った。
「今は、ここにいる人たちの生活を安定させることが先だ」
シャーロットは一瞬、驚いたような顔をした。その表情は、計略を拒否されたというより、予想外の返答を受けたというものだった。
「つまり、お前は世界の大きな流れよりも、目の前の個人を優先するのか」
「そうだ」
「ならば、お前は世界を変えられない」
シャーロットは馬に乗り直した。騎士たちが彼女の周囲に集まる。
「だが、待て」
アルトは続けた。
「もし、帝国との対抗が、ここにいる人たちの自由につながるなら。その時は、話し合おう」
シャーロットは馬の背で、アルトを見下ろした。その瞳には、初めて純粋な興味が映った。
「面白い男だ。二週間後に、商人ギルド本部で会おう。そこなら、より詳しく話ができる」
彼女の騎士団は森を去っていった。その後ろ姿を見つめながら、アルトは深くため息をついた。
「お前、契約しちゃったんじゃ?」
ニナが近づいてきた。
「いや、まだだ。約束しただけだ」
「一緒だろ。この調子だと、お前は気づかないうちに世界と『約束』することになるぞ」
ニナの指摘は的確だった。アルトは自分の無力さを痛感した。
商人ギルド本部での会談まで、あと二週間。
その間に、何か変わるはずだ。何か、決定的な何かが。
窓の外では、解放奴隷たちがまだ農作業をしていた。彼らの表情には、もう絶望はない。だが、本当の意味での「自由」を手にしているのか。それはまだ不明だった。
アルトはリリアを見た。彼女はまだ、机に向かって資料を整理していた。
「リリア」
「はい?」
「商人ギルド本部への同行を頼みたい。だが、それを決めるのはお前だ。お前の意思で決めてくれ。俺の『約束』ではなく、お前自身の判断でな」
リリアは筆を置いた。その瞳には、初めて迷いが見えた。
それはアルトにとって、進歩だった。




